成島柳北(読み)ナルシマリュウホク

デジタル大辞泉 「成島柳北」の意味・読み・例文・類語

なるしま‐りゅうほく〔‐リウホク〕【成島柳北】

[1837~1884]漢詩人・随筆家ジャーナリスト江戸の生まれ。本名惟弘これひろ幕臣として騎兵奉行外国奉行などを歴任。維新後欧米を外遊し、明治7年(1874)朝野新聞社長となり、文明批評を展開した。また、「花月新誌」を創刊。著「柳橋新誌」「京猫一斑」など。

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精選版 日本国語大辞典 「成島柳北」の意味・読み・例文・類語

なるしま‐りゅうほく【成島柳北】

  1. 漢詩人。随筆家。江戸の人。本名惟弘。字(あざな)は保民。柳北は通称で、確堂が号。代々、将軍の侍講で、柳北も将軍家定・家茂の侍講。後に洋学も学び、騎兵奉行・外国奉行を経て、会計副総裁。欧米巡遊後、明治七年(一八七四)朝野新聞社長となり、軽妙洒脱な文をもって名を高めた。また、「花月新誌」を創刊。著「柳橋新誌」「柳北詩鈔」など。天保八~明治一七年(一八三七‐八四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「成島柳北」の意味・わかりやすい解説

成島柳北
なるしまりゅうほく
(1837―1884)

漢詩人、随筆家、新聞人。本名惟弘(これひろ)。別号何有仙史(かゆうせんし)など。父祖代々の奥儒者の子として、江戸浅草に生まれた。家督を継ぎ、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の侍講などを経て、幕末騎兵頭(きへいがしら)、外国奉行(がいこくぶぎょう)、会計副総裁など歴任。慶喜(よしのぶ)退隠後、1869年(明治2)隠居して向島(むこうじま)に閑居、新政府には仕えず、自ら「無用の人」と称した。山陽地方への紀行『航薇日記(こうびにっき)』(1869)、ヨーロッパ旅行記『航西日乗(こうせいにちじょう)』(1872~1873)などのほか漢文随筆の『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』(1874年刊)を書き、新時代風俗への嘲罵(ちょうば)をほしいままにした。1874年以後『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』社長となり「奇文」の文名が高かったが、1877年『花月新誌(かげつしんし)』を創刊主宰、前記紀行のほか『鴨東新誌(おうとうしんし)(京貓一斑(きょうびょういっぱん))』を掲げた。

[岡 保生]

『『明治文学全集4 成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集』(1969・筑摩書房)』『前田愛著『成島柳北』(1976・朝日新聞社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「成島柳北」の意味・わかりやすい解説

成島柳北 (なるしまりゅうほく)
生没年:1837-84(天保8-明治17)

幕末・明治初期の漢詩人,随筆家,新聞記者。本名惟弘,別号何有仙史など。江戸に生まれる。代々将軍の侍講を勤める家柄で,1853年(嘉永6)に家督を継ぎ,《徳川実紀》《後鑑》の編纂に携わったが,63年(文久3)狂詩を賦して幕閣の因循を諷したかどで侍講職を免ぜられた。これを契機に洋学を学習,抜擢されて騎兵頭をはじめ,外国奉行,会計副総裁などの要職を歴任。維新後は〈天地間無用の人〉を自称して野に隠れた。東本願寺法主に随行して欧米を漫遊したこともある。74年《柳橋新誌》初・2編を刊行,ついで《朝野新聞》の主筆に迎えられ,新聞界の大御所として重きをなした。政府の言論弾圧にたいする果敢な抵抗や軽妙なスタイルで時事を諷した雑録はよく知られている。また77年から漢詩文雑誌《花月新誌》を創刊,主宰した。文人的な美意識に拠って,文明開化の浅薄な側面を鋭く撃ったその反骨の姿勢は,反近代の文学の系譜に特異な位置を占めている。
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百科事典マイペディア 「成島柳北」の意味・わかりやすい解説

成島柳北【なるしまりゅうほく】

幕末・明治初期の漢詩人,新聞記者,随筆家。幕府儒臣の家に生まれ,騎兵頭,外国奉行などを務めたが,江戸開城下野。1872年欧米に遊び,1874年《朝野新聞》に主筆として入り,のち社長,末広鉄腸を招いて主筆とした。藩閥政府を風刺する洒脱(しゃだつ)辛らつの筆をとった。明治初期の新聞界の重鎮とされた。著書に《柳橋新誌》など。
→関連項目大新聞・小新聞大槻磐渓栗本鋤雲朝野新聞

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朝日日本歴史人物事典 「成島柳北」の解説

成島柳北

没年:明治17.11.30(1884)
生年:天保8.2.16(1837.3.22)
幕末期の幕臣,明治初期の文筆家。本名惟弘,字は保民,確堂。柳北は号。幕府奥儒者の家に生まれ,20歳で将軍侍講。文久3(1863)年上層部の因循を狂歌で諷し解任されると洋学に関心を広げ,幕府瓦解の2年間には騎兵頭として幕府軍のフランス式近代化のために奔走。維新後は仕官を拒否,「無用之人」を自称した。隠棲と欧米旅行ののち,明治7(1874)年以降『朝野新聞』で機智溢れた政府批判を展開して喝采を浴びる。9年,前年新設の讒謗律で投獄されると『ごく内ばなし』で監獄の実態を暴き出すしたたかさをみせた。花街の醜悪な変貌を描いた『柳橋新誌』第2編(1874)は戯文の滑稽の中に旧江戸への愛着と「文明開化」への深い疑いが滲む。10年に創刊した詩文雑誌『花月新誌』連載の洋行記「航西日乗」は何げない私的な日録という形式自体,当時の国家第一の文明摂取のありかたと鋭く対立する。<参考文献>前田愛『成島柳北』

(徳盛誠)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「成島柳北」の意味・わかりやすい解説

成島柳北
なるしまりゅうほく

[生]天保8(1837).2.16. 江戸
[没]1884.11.30. 東京
明治初期の新聞記者,随筆家。本名は惟弘。 17歳で儒者の家を継ぎ,14代将軍家茂の侍講となり,幕末には外国奉行,会計副総裁として活躍。維新後は野に下り,1872年欧米を漫遊。 1874年に『柳橋新誌』を著わして文名を揚げた。『朝野新聞』の社長となり,民権派ジャーナリストの雄と目されたが,1876年には新聞紙条例違反で投獄された。 1877年の西南戦争の際には京都まで行ったが,戦況には触れず,もっぱら風流談を送稿し,ために『朝野新聞』は声威を損じた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「成島柳北」の解説

成島柳北 なるしま-りゅうほく

1837-1884 幕末-明治時代の儒者,新聞人。
天保(てんぽう)8年2月16日生まれ。成島筑山(ちくざん)の3男。幕臣。奥儒者。のち騎兵頭(がしら),外国奉行,会計副総裁。維新後は朝野(ちょうや)新聞社長として新時代を風刺,批判し政府の言論弾圧とたたかった。明治17年11月30日死去。48歳。江戸出身。名は惟弘(これひろ)。字(あざな)は保民。通称は甲子太郎。別号に確堂,何有仙史。著作に「柳橋新誌」「航西日乗」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「成島柳北」の解説

成島柳北
なるしまりゅうほく

1837〜84
幕末・明治前期の新聞記者・漢詩人
本名惟弘 (これひろ) 。将軍家代々の侍講の家に生まれ,儒学・洋学に通じ,将軍家定・家茂に経学を講じた。1865年より外国奉行・会計院副総裁などを歴任。1872年外遊し,1874年以降は『朝野新聞』社長として,藩閥政府攻撃の論陣を張り,また文明開化を風刺した『柳橋新誌』を著し文名をはせた。

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367日誕生日大事典 「成島柳北」の解説

成島 柳北 (なるしま りゅうほく)

生年月日:1837年2月16日
江戸時代;明治時代の漢詩人;随筆家;新聞記者
1884年没

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世界大百科事典(旧版)内の成島柳北の言及

【朝野新聞】より

…日刊。最盛期は,社長の成島柳北(なるしまりゆうほく)がコラム〈雑録〉で,主筆の末広鉄腸が論説で藩閥政府を風刺,痛罵した自由民権期であり,民権派の新聞として81年には日刊部数1万を超え,政論新聞第1位を誇った。成島の死亡や民権運動の衰退とともに急速に衰えた。…

【柳橋新誌】より

成島柳北の漢文随筆。全3編で,初・2編は1874年刊。…

※「成島柳北」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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