(伊藤嘉章)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
伊万里焼の創始者といわれる朝鮮人陶工。日本名を金ヶ江三兵衛といった。文禄・慶長の役(1592-98)で,朝鮮へ出兵した佐賀藩主鍋島直茂が〈日本の宝〉にしようと連れ帰った陶工の一人という。鍋島藩家老の多久氏に預けられていたが,許しを得て泉山に磁鉱を発見し,白川天狗谷で磁器の焼造を始めたと説かれている。金ヶ江三兵衛という人物に関する古記録がいくつかあるが,なかでも《肥陽旧章録》に収められている三兵衛の〈覚〉と題する文書によって,有田で磁器が焼き始められたのは1616年(元和2)のことと考えられていた。1966年には,天狗谷窯の近くで三兵衛のものと思われる石碑が発見され,次いで有田町の旧西有田町竜泉寺の過去帳に,三兵衛が明暦元年(1655)8月11日に没した記録が発見され,伝承と文献の中の三兵衛が,天狗谷窯の開窯や磁器の創始にかかわったか否か,また李参平と同一人物か否かは明らかではないが,すくなくとも実在の人物であったことが確認された。
→有田焼
執筆者:西田 宏子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生没年不詳。江戸初期の陶工。佐賀県西松浦(にしまつうら)郡有田(ありた)町の龍泉寺には明暦(めいれき)元年(1655)の条に「月窓浄心上田川三兵衛」なる戒名があり、これが李参平の没年とも考えられている。朝鮮半島李朝時代の忠清南道金江の出身。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役を契機に帰化した陶工の1人で、日本名は金ヶ江(かねがえ)三兵衛。肥前国(佐賀県)鍋島(なべしま)藩の祖鍋島直茂(なおしげ)に仕える多久安順(たくあんじゅん)が連れて帰った。初め小城(おぎ)郡多久(現多久市)に窯を築き、1616年(元和2)に有田町泉山に白磁鉱を発見し、有田町上白川天狗谷の地で日本初の白磁創製に成功したと伝えられる。有田白磁窯、すなわち伊万里(いまり)焼の磁祖として尊崇され、陶祖神社の祭神として祀(まつ)られている。
[矢部良明]
?~1655
江戸初期の伊万里焼の陶工で,その開祖とされる。日本名は金ケ江三兵衛。朝鮮半島忠清道金江の生れという。文禄・慶長の役の際,佐賀藩の家臣に従って来日し,1616年(元和2)有田泉山に白磁鉱が発見されると,上白川で白磁を焼いたと「金ケ江日記」は伝える。有田町の竜泉寺の過去帳の1655年(明暦元)には上白川三兵衛とあり,上白川の墓地からは同年・同名の墓石も発見された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…松前藩の賄方(まかないかた)斎藤三平なる人物の考案になるとされるが,船場(せんば)汁など同工の料理は全国的に分布しており,この説は首肯しがたい。むしろ,有田焼の祖李参平(りさんぺい)の名をとって深めの磁器の皿を三平皿と呼びならわし,それに盛ったため,この名があるものと考えられる。【鈴木 晋一】。…
…また安南でも元末・明初の青花磁器の影響をうけ,15世紀初めには始められたが,17世紀ころに作られた安南絞手(しぼりで),蜻蛉手(とんぼで)と呼ばれる染付は,日本の茶人のあいだでことに珍重された。日本で染付が作られるようになるのは,朝鮮半島からの帰化陶工李参平によって有田泉山で磁石が発見され,1616年(元和2)有田上白川(かみしらかわ)天狗谷窯で焼成されたのがはじめとされてきた。しかし近年天狗谷古窯址の発掘調査によって,有田における磁器焼成は慶長年間(1596‐1615)から始められていたものと推定されている。…
※「李参平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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