武市瑞山(読み)タケチズイザン

精選版 日本国語大辞典 「武市瑞山」の意味・読み・例文・類語

たけち‐ずいざん【武市瑞山】

  1. 幕末の志士。名は小楯。通称、半平太。瑞山は号。土佐国(高知県)の人。一藩勤王を目標として、文久元年(一八六一)土佐勤王党を組織。藩の主流吉田東洋らの公武合体論を退け、尊攘論を説く。同三年の政変で藩論が保守に変わると、切腹を命じられた。文政一二~慶応元年(一八二九‐六五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山
たけちずいざん
(1829―1865)

幕末期土佐尊攘(そんじょう)派の指導者。名は小楯(こたて)、通称は半平太(はんぺいた)。文政(ぶんせい)12年9月27日、豪農的経営をもつ郷士の家に生まれたが、高知城下に出て剣術の道場を開く。二度にわたり江戸に赴くが、この間、諸国の尊攘派志士と交流し、1861年(文久1)8月、江戸滞在中の有志を集めて勤王(きんのう)党を結成。翌月帰国し、郷士、足軽、庄屋(しょうや)層を中心に、全藩にわたり200人を超える組織に拡大する。この力を背景に土佐の藩論を変えようとして参政吉田東洋(とうよう)と対立し、ついに1862年4月これを暗殺させた。その結果、藩論を尊王攘夷(じょうい)に導き、引き続き藩主の上京に随従した。さらに攘夷の勅使姉小路公知(あねこうじきんとも)に従って江戸に下向するなど、華やかな活躍が続く。その眉目(びもく)秀麗な顔だちは月形(つきがた)半平太のモデルにふさわしい。しかし、翌年尊攘派弾圧のなかで投獄され、拷問に屈せず闘ったが、ついに1865年(慶応1)閏(うるう)5月切腹を命ぜられる。絵をよくし、獄中の自画像などは有名。「天皇好き」とあだ名されていたという。高知市仁井田(にいだ)に、旧宅、墓、瑞山神社がある。

池田敬正]

『瑞山会編『維新土佐勤皇史』(1912・冨山房)』『入交好脩著『武市半平太』(中公新書)』

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百科事典マイペディア 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山【たけちずいざん】

幕末尊攘派の志士。土佐(とさ)高知藩郷士。名は小楯(こたて)。通称半平太(はんぺいた)。安政の大獄に憤り,1861年藩内尊攘派の有志と土佐勤王党を結成。勤王党員らは当時藩政を主導していた開明的な吉田東洋を暗殺し,瑞山は一時藩論を尊攘に導いた。しかし文久3年8月18日の政変以後,藩論は保守に傾き,弾圧されて切腹。
→関連項目坂本竜馬田中光顕中岡慎太郎

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改訂新版 世界大百科事典 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山 (たけちずいざん)
生没年:1829-65(文政12-慶応1)

幕末の尊攘派志士。通称は半平太,名は小楯。瑞山は号。土佐国長岡郡仁井田郷吹井村の郷士武市半右衛門正恒の長男。若いころから剣で知られたが,1861年(文久1)の江戸遊学中交流した久坂玄瑞らと率兵上京を計画し,土佐勤王党を結成した。帰国後,全藩にまたがる草莽尊攘派を糾合し,当時藩政を主導していた開明的な吉田東洋を暗殺させ,土佐藩政に影響力をもつようになった。その後,京都でも尊攘運動を指導したが,文久3年8月18日の政変後捕らえられ,勤王党弾圧の下で切腹を命ぜられた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武市瑞山」の解説

武市瑞山 たけち-ずいざん

1829-1865 幕末の武士。
文政12年9月27日生まれ。土佐高知藩士。郷士の家の長男。江戸で尊攘(そんじょう)派とまじわり,土佐勤王党を結成。文久2年公武合体派の参政吉田東洋を党員に暗殺させ,一時藩政をにぎる。前藩主山内豊信(やまうち-とよしげ)の勤王党弾圧により投獄され,慶応元年閏(うるう)5月11日獄中で切腹。37歳。名は小楯。通称は半平太。別号に吹山など。
【格言など】幽囚何をか恥ずべし,只(ただ)赤心の明らかなる有り

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「武市瑞山」の解説

武市瑞山
たけちずいざん

1829.9.27~65.閏5.11

幕末期の志士。土佐国高知藩郷士。幼名半平太。諱は小楯。剣道にすぐれ江戸桃井道場の塾頭を勤める。萩・鹿児島両藩の尊攘派と連合を画策した。土佐に帰って下士・郷士・村役人を主体にした土佐勤王党を結成し,首領となる。吉田東洋を中心とする公武合体派と対立し,藩政改革を企図,1862年(文久2)東洋を暗殺して藩政を掌握した。63年8月には藩論が再び公武合体論に傾いて捕らえられ,65年(慶応元)切腹を命じられて自刃。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山
たけちずいざん

[生]文政12(1829).9.27. 土佐
[没]慶応1(1865).閏5.11. 土佐
幕末の尊攘派志士。名は小楯。通称は半平太。土佐藩郷士の子に生れ,安政3 (1856) 年江戸に出て尊王派志士と交遊。文久1 (61) 年郷里で土佐勤王党を組織し,坂本龍馬ら下士層を集めて攘夷論を主張し,上士層と対立,藩政を動かしたが,同3年藩論が公武合体に変り,切腹を命じられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「武市瑞山」の解説

武市瑞山
たけちずいざん

1829〜65
幕末の尊攘派志士
通称半平太。土佐藩郷士出身。1861年土佐勤王党を組織し,吉田東洋ら藩首脳の公武合体派と対立,'62年東洋を暗殺し藩論を「尊王攘夷」に導いた。八月十八日の政変('63)以後の尊王攘夷運動の後退で弾圧され,'65年投獄切腹を命ぜられ自刃。

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367日誕生日大事典 「武市瑞山」の解説

武市瑞山 (たけちずいざん)

生年月日:1829年9月27日
江戸時代末期の土佐藩の剣術家;尊王家
1865年没

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