仏教の戒律のなかで不殺生戒(ふせつしようかい)はもっとも重いので,一般俗人も仏教の信仰に入れば,これを犯さない誓いを立てた。その信者が国王であったり,地方の支配者であれば,その領内の民にも不殺生戒を強制的にまもらせたのが殺生禁断である。これは単に不殺生戒というだけにとどまらず,功徳(くどく)を積むことによって仏の加護を得,現世は安穏に来世は往生できるようにとの願いがこめられている。そのために日本人は四つ脚の動物を食べない菜食民族になったといわれるが,これはむしろ日本人の動物観に,熊や猪や鹿,猿,狐などを神の化身とする化身動物観のためとすべきで,鳥や魚の殺生食用はさまたげなかった。ところが殺生禁断のなかには魚をその対象とするものもあって,これは不殺生戒の功徳を目的にしたものである。たとえば1281年(弘安4),律僧叡尊(えいそん)(興正菩薩)は宇治平等院で漁民800余人に菩薩戒を授戒するとともに,宇治橋南北の網代(あじろ)を停止する殺生禁断を上奏して許された。その禁制のしるしとして宇治川の中州に建てた十三重石塔が現存する。叡尊はこのような授戒と殺生禁断を1350余所で行ったといい,これは不殺生戒とその功徳を目的としたものであった。しかしこのような殺生禁断は日時や場所に限定があり,いつでもどこでも禁断されたのではない。もっとも多いのは月のうちの六斎日(ろくさいにち)の殺生禁断で,《大宝律令》の〈雑令〉に六斎日には公私ともに殺生を禁じている。これは斎戒をまもり,不浄から遠ざかる日なので,とくに殺生を禁じたものである。これよりさき聖徳太子は六斎日に殺生禁断を奏請して許されたが,これはこの日に梵天帝釈天が天下って国政をみるためであるとし,またこれは仁にあたるからだという(《聖徳太子伝暦》)。奈良時代にはとくに殺生禁断が多かったが,これには六斎日の禁断のほかに神祭や神幸にも殺生禁断があった。たとえば749年(天平勝宝1)に宇佐八幡が奈良まで神幸したときには,その路次の諸国で禁制になった。これは酒肉は道路をけがすものだからといい,不殺生戒よりも血による穢を避けるものであった。あるいは雨乞いにあたって神祇に奉幣するときも,殺生禁断があった。これに対して天皇,皇后,皇太后などの病気のときも殺生が禁断されたが,その理由は,寿命を延ばし病気を治すためには,仁慈に若(し)くものはないからだという。これは恩赦,大赦などとおなじ思想である。また殺生禁断にともなう放生放鳥もあったが,これには功徳を積む目的があった。白河法皇は,この殺生禁断と放生放鳥をきびしく行ったことで知られる。そのほか神領の池や海が一般人に殺生禁断となったのは,神の贄(にえ)を取るためであった。たとえば伊勢の阿漕浦(あこぎうら)は伊勢神宮の供御を取るために禁断となり,これを犯すものは死をもって罰せられた。謡曲《阿漕(あこぎ)》はこれを物語っている。
執筆者:五来 重
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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