明治の洋画家。安政3年6月21日、江戸・木挽町(こびきちょう)の佐倉藩邸内に生まれる。7歳のとき父を失い家督を継ぎ佐倉に帰る。1872年(明治5)ふたたび上京、1875年国沢新九郎の彰技堂で西洋画の初歩を学ぶ。翌1876年工部美術学校が開設されるや、来任したイタリアの画家フォンタネージについて本格的な西洋画の指導を受けた。その師が病のため帰国すると、後任の教師を不満とし、同窓の小山正太郎、松岡寿(ひさし)らと連袂(れんべい)退学したことは、いかに彼がフォンタネージの画風と人格に傾倒していたかがわかる。1889年わが国最初の洋画美術団体、明治美術会を同志と創立、その展覧会に『春畝(しゅんぽ)』『収穫』などを発表。1894年には日清(にっしん)戦争に従軍。翌1895年京都における第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞を受けた『旅順戦後の捜索図』は、このとき題材を得たものである。
1896年東京美術学校に西洋画科が新設され、フランスから帰国した黒田清輝(せいき)が教授に迎えられたが、1898年には浅井が明治美術会を代表して教授に推された。1900年(明治33)文部省からフランス留学を命ぜられ渡欧。このときパリ郊外のグレーで制作した風景画(とくに水彩画)は有名。1902年に帰国してからは京都に移り、新設の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)教授に任ぜられた。校務のかたわら聖護院(しょうごいん)洋画研究所(1903)および関西美術院(1906)を創立し、青年たちの美術指導にあたり、その膝下(しっか)から安井曽太郎(そうたろう)、梅原龍三郎(りゅうざぶろう)、津田青楓(せいふう)など多くの逸材が輩出した。画風は細やかな自然観照を基調とし、いたずらに西欧の流行を追うことなく、日本人の感覚を生かした洋画の制作に力を尽くした。黙語、木魚と号し、正岡子規、夏目漱石(そうせき)ら文人たちとも親交があった。明治40年12月16日没。墓は京都・金地院(こんちいん)にある。
[永井信一]
『隈元謙次郎編著『浅井忠』(1970・日本経済新聞社)』▽『『日本水彩画名作全集 1 浅井忠』(1982・第一法規出版)』
洋画家。江戸木挽町に佐倉藩士の子として生まれた。号は槐庭,木魚,黙語。はじめ佐倉藩の南画家黒沼槐山に師事し,花鳥画を学ぶ。英学を修め,成島柳北に漢学を学んだのち,1876年洋画塾彰技堂に入って国沢新九郎の指導を受け(《門人帖》による),同年創立された工部美術学校に第1期生として入学しフォンタネージに師事した。フォンタネージの帰国後,後任フェレッティの教授に不満で,78年小山正太郎,松岡寿らとともに退学し,十一字会を結成し洋画研究をつづけるとともに東京師範学校の教壇に立った。明治10年代から20年代はじめにかけては工部美術学校の閉校,内国絵画共進会への洋画出品拒否など,洋画の受難期であったが,浅井はこの時期フォンタネージから学んだ詩的な自然主義を着実に発酵させていった。89年本多錦吉郎,原田直次郎,小山正太郎らとともに,明治美術会の創立に参加。その第1回展に出品された《春畝》や第2回展の《収穫》はフォンタネージの域を脱し,日本固有の風土に根ざした独自のリアリズムの最初の達成として高い評価を受けている。98年,明治美術会系を代表する形で東京美術学校教授に任ぜられ,1900年から2年間西洋画研究のためフランス留学を命ぜられて滞欧。ベルサイユ,グレーなどで多くの油彩画,水彩画を制作するが,とくにグレーで描いた水彩画は印象派への接近を示す。02年帰国,同年新設された京都高等工芸学校教授に任ぜられ京都に移った。翌年聖護院洋画研究所を開き,06年には関西美術院を創立して,後進の指導など,京都洋画壇の中心として活躍した。研究所,美術院からは津田青楓,安井曾太郎,梅原竜三郎,黒田重太郎らが輩出し,浅井の教育家としての側面も看過できない。また晩年は工芸図案も手がけ,京都の美術工芸にも貢献した。
執筆者:牧野 研一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(三輪英夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
明治期の洋画家 東京美術学校教授;京都高等工芸学校教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1856.6.21~1907.12.16
明治期の洋画家。江戸の佐倉藩邸に生まれる。号は黙語(もくご)。国沢新九郎に師事,さらに新設の工部美術学校に入学し,フォンタネージの指導をうけた。明治美術会を創立,中心作家として「春畝(しゅんぽ)」「収穫」など明治洋画の代表的作品を発表し,東京美術学校教授となる。1900年(明治33)フランスに留学,帰国後京都に移り,京都高等工芸学校教授・関西美術院初代院長を務めるなど,関西洋画壇の指導者として活躍した。門下に安井曾太郎・梅原竜三郎らがいる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…京都の洋画教育機関。1902年に京都高等工芸学校教授に任ぜられた浅井忠は,翌03年,田村宗立,伊藤快彦,都鳥英喜らの協力を得て聖護院洋画研究所を開いて後進の育成に乗り出した。やがて住友家の補助などにより岡崎町に教場を新築し,06年,改めて関西美術院として発足した。…
…一方,高橋の師川上冬崖や,横山松三郎(1838‐84),国沢新九郎(1847‐77)らも画塾を開いて,洋画研究の道を進めている(画学校)。 日本で最初の正則の西洋画教育を行った工部美術学校からは,フォンタネージの薫陶のもとに浅井忠,五姓田(ごせだ)義松,小山正太郎,松岡寿(ひさし)(1862‐1943),山本芳翠,中丸精十郎(1841‐96),高橋(柳)源吉(1858‐1913)ら明治中期を代表する洋画家が育った。フォンタネージはバルビゾン派の影響を受けた,イタリアでは一流の画家で,工部美術学校でもその画技と人格を敬愛されたが,78年脚気を病んでイタリアに帰る。…
※「浅井忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新