近世初期の公卿(くぎょう)で歌人。父は准大臣従(じゅ)一位烏丸光宣(みつのぶ)。烏丸家は藤原氏日野家の分家。3歳で叙爵。侍従、右左少弁、蔵人(くろうど)を経て1599年(慶長4)蔵人頭に補せられる。細川幽斎(ゆうさい)に和歌を学び、1600年22歳のとき、関ヶ原の戦いが起こり、幽斎が丹後(たんご)田辺城で石田三成(みつなり)方の軍に包囲されるや、後陽成(ごようぜい)天皇の勅命を受けて中院通勝(なかのいんみちかつ)、三条西実条(さんじょうにしさねえだ)(1575―1640)とともに開城の勧告に赴く。のち、幽斎より古今伝授を受ける。参議に上ったが、1609年勅勘を被る。1611年赦免され、1612年権中納言(ごんちゅうなごん)、1616年(元和2)権大納言に上る。1620年には正二位に進む。寛永(かんえい)15年7月13日、60歳で没。近世初期の代表的堂上(どうしょう)歌人の一人で、家集に孫の資慶(すけよし)(1622―1669/1670)の編んだ『黄葉(こうよう)和歌集』がある。その一首「身のうさを忘れてむかふ山ざくら花こそ人を世にあらせけれ」。歌風は当時の堂上和歌の主流である二条派の風であるが、一糸和尚(いっしおしょう)に参禅したので禅学の影響があってか高遠で清高な作品がみられる。『十八番職人尽歌合(しょくにんづくしうたあわせ)』、幽斎の談話を筆録した『耳底記(にていき)』もある。『耳底記』は1598年から1602年にかけての和歌聞き書きで、江戸時代には和歌の学習に広く読まれた。文章も巧みで『あづまの道の記』『春の曙(あけぼの)』などの紀行文がある。書家としても優れ、一派をつくり、水墨画のたしなみもあった。逸話の多い人でもある。
[宗政五十緒]
光広は少年のころ早くも、慣例に従って持明院(じみょういん)書道に入門した。現存する和歌懐紙の端作(はしつくり)の官名によって、16~21歳の執筆と推定されるものがいくつか残っている。これによると、持明院流の影が色濃くとどめられている。ところが光広の書は、壮年期に入るころ光悦流に変貌(へんぼう)している。その動機は不明ながら、1682年(天和2)刊の灰屋紹益(はいやじょうえき)の『にぎはひ草』によれば、「からす丸光広卿(きょう)は、光悦に物書事(ものかくこと)をならひ物し給ひける」と書かれているので、光悦の手ほどきを受けたことが知られる。やがて彼は、角倉素庵(すみのくらそあん)と並んで光悦流屈指の名手となった。いま一群として残る光広の筆跡によってもそれがうなずける。ところが、光広は40代なかばのころ、一時期、定家(ていか)流の書をかいている。が、40代の終わりから50代にかけて、光悦流を踏まえながら、不羈奔放(ふきほんぽう)な性格を反映させて、独自の境地を開いた。まさに光広流ともいうべき新書風の誕生で、これは他の模倣も追随も許すものではなく、まったく光広のひとり舞台であった。軽妙な水墨画にも巧みで、山水、富士山、達磨(だるま)などの作品を残している。これらには三角篆書(てんしょ)〈光広〉の墨印を捺(お)している。
[小松茂美]
『小松茂美編『烏丸光広』(1982・小学館)』
江戸初期の公卿,歌人。准大臣光宣の子。和歌を細川幽斎に師事し,歌論書として著名な《耳底記(にていき)》は若年の光広の歌道精進の次第をもよく現している。1609年(慶長14)参議・左大弁のとき猪熊(いのくま)事件を起こし勅勘を被り,11年勅免・還任されるまで不遇をかこったが,12年に権中納言,16年(元和2)には権大納言に昇った。早くから幕府の恩顧を深く受け,ことに中年以降はことあるごとに江戸に下向し,晩年の37年(寛永14)には将軍徳川家光より江戸在府のための邸まで拝受した。師の一糸文守から,権勢を頼り遠く皇畿を離れるは〈非是人臣之善〉との非難を受けたほどであり,宮廷人としては典型的な俗物ともいえようが,その自由闊達な人となりが,朝幕間や文化面で果たした役割は高く評価されよう。多才多能で,能書家でもあった。著述が多く,歌集《黄葉和歌集》,紀行文《日光山紀行》《あづまの道の記》《春の曙》,仮名草子《目覚草(めざましぐさ)》などがある。
執筆者:橋本 政宣
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(伊東正子)
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…江戸初期,宮廷で起きた猪熊教利らの密通事件。1607年(慶長12)2月,左少弁猪熊教利が官女との密通により勅勘を受けて出奔し,ついで09年7月には参議烏丸光広以下大炊御門頼国,花山院忠長,飛鳥井雅賢,難波宗勝,徳大寺宗久,松木宗信らの若公家衆が前年来典侍広橋氏など5人と遊興にふけり,密通していたことが発覚した。後陽成天皇は激怒し,彼らを極刑に処すべく,その意向を幕府に伝えた。…
…寛永,明暦,寛文期の異版もある。慶長11年5月旗本松平近正の次男近次(ちかつぐ)が好色無頼の罪で改易され,蟄死(ちつし)した事件や,同14年の烏丸光広ら公家と宮女との密通事件などをモデルにしたとされる。御伽草子的な悲恋物語であるが,関白豊臣秀次の悲劇,お国歌舞伎,三味線,隆達(りゆうたつ)小歌など当時の事件・風俗が織りこまれている。…
…すなわち弟子を使って工房制作を行い,俵屋絵として売り出したのである。出自を生かして千少庵,烏丸光広,本阿弥光悦など当時一流の文化人,公卿と親交を結んだことが,その画風形成上にすぐれた影響をもたらした。特に光悦との協力関係は重要で,光悦が版行した嵯峨本において,木版雲母摺(きらずり)下絵の意匠を担当したのは宗達であった。…
※「烏丸光広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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