生没年不詳。欽明(きんめい)朝の大連(おおむらじ)。守屋(もりや)の父。欽明天皇の即位とともに大連に任じられたが、その元年(540)には天皇の諮問に答えて新羅(しらぎ)を軽々に討つべきでないこと、大連大伴金村(おおとものかなむら)がたやすく任那(みまな)四県を百済(くだら)に譲ったため新羅の怨(うら)みは年久しいこと、などを奏聞し、金村を隠退に追い込んだ。欽明天皇13年(552)の仏教公伝に際し、天皇は礼仏の可否を群臣に問うたが、彼は大臣蘇我稲目(おおおみそがのいなめ)に反対し、中臣鎌子(なかとみのかまこ)とともに断固排斥すべきことを主張した。これを機に蘇我・物部両氏の権力争いはいっそう熾烈(しれつ)となり、次代の馬子(うまこ)・守屋時代まで持ち越された。子の守屋が敏達(びだつ)朝に大連となっているから、尾輿は欽明朝に没したのであろう。
[黛 弘道]
大和国家の大連(おおむらじ)。生没年不詳。物部荒山の子,守屋の父。6世紀中葉の欽明朝に,大伴金村とともに大連となった。就任後まもなく,天皇の諮問に対して,軽々に新羅遠征の軍をおこすべきでなく,さきの512年の任那四県の割譲問題は新羅を怒らせた失政と述べて大伴金村を失脚させたが,このあと大臣(おおおみ)蘇我稲目(いなめ)との対立を深めた。とくに《日本書紀》では欽明13年のことであったというが,百済の聖明王が初めて金銅釈迦仏像と経論などを送って仏法をひろめることをすすめてきたとき,天皇はその可否を群臣に問うたが,尾輿は強くこれに反対したという。しかし蘇我稲目は,その仏像や経論をうけて向原(むくはら)家を寺として礼拝した。ところが疫病が流行すると,尾輿は,蕃神を拝したので国神が怒ったためであるとして向原寺を焼き,仏像を難波の堀江に捨てたという。類似の話は物部守屋について敏達紀にもあり,この話は,仏教布教の際に伴う受難思想からの述作ともされるが,物部尾輿の蘇我稲目との対立の一面を示唆している。
執筆者:門脇 禎二
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(遠山美都男)
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生没年不詳。6世紀半ばの廷臣。安閑・欽明朝の大連(おおむらじ)。荒山の子。守屋(もりや)の父。安閑元年,廬城部枳莒喩(いおきべのきこゆ)の女が尾輿の首飾りを盗み,春日皇后に献じた事件が発覚。事件とのかかわりを恐れた尾輿は,配下の部民を献じた。欽明天皇即位に際し,大連に再任。欽明元年,大伴金村が任那4県を百済(くだら)に割譲したことを非難し,金村を引退させた。同13年百済の聖明王から仏像・経論などが献じられたとき,中臣鎌子(なかとみのかまこ)とともに排仏を主張し,蘇我稲目(いなめ)と対立した。
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…古代の有力氏族。姓(かばね)は連(むらじ)で,軍事・警察のことをつかさどる物部の伴造(とものみやつこ)。造(みやつこ),首(おびと)などの姓をもつ配下を従え〈物部八十氏〉とも称された。祖神を饒速日(にぎはやひ)命と伝え,布都御魂(ふつのみたま)をまつる石上(いそのかみ)神宮を氏神社とする。物部氏が軍事・警察の任務についていたことを示す伝承には,(1)雄略天皇13年3月,物部目大連が采女(うねめ)を奸した歯田根命の罪を責める任務を命じられたこと,(2)雄略天皇18年8月,物部菟代(うしろ)宿禰と物部目連が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を征討したこと,(3)継体天皇9年2月,物部至至(ちち)連が百済に遣わされ水軍500を率いて帯沙江(たさのえ)に至ったこと,(4)継体天皇22年11月,大将軍の物部大連麁鹿火(あらかび)が筑紫国造磐井と交戦して平定したこと,などがある。…
※「物部尾輿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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