日本大百科全書(ニッポニカ) 「畠山持国」の意味・わかりやすい解説
畠山持国
はたけやまもちくに
(1398―1455)
室町時代前期の武将。1398年(応永5)幕府管領(かんれい)満家の嫡男として生まれ、相伴衆(しょうばんしゅう)に列する。1433年(永享5)父の死没により家督を継ぎ、河内・紀伊・越中各国の守護となる。また尾張守や左衛門督(さえもんのかみ)を歴任後1441年(嘉吉1)2月27日叙爵、その後出家して徳本(とくほん)と号す。叙爵直前の正月29日将軍義教(よしのり)から関東下向を命じられたが拒み、勘気を蒙り河内国に籠っている。家督は義教が重用した弟持永(もちなが)が継いだが、同年6月の嘉吉の乱で義教が討たれると、赤松満祐(あかまつみつすけ)を播磨国白旗城(しらはたじょう)に攻めて幕府に復帰。その後持永を滅ぼし、翌年管領に就任して幼い新将軍義勝を助け、1445年(文安2)細川勝元に管領を交替した。しかし加賀国守護富樫(とがし)氏内の紛争をめぐり細川氏と対立、1449年(宝徳1)再び管領となり、山城国守護も兼ねて将軍義成(よししげ)(のちの義政)を支えながら、勢力の拡大に努めた。1452年(享徳1)管領を退くと勝元らに牽制され、また養子持豊と実子義就(よしなり)との間に家督相論を起こし、これに勝元・山名宗全両氏を巻き込み、この問題は激化した。1455年(康正1)3月26日没。
[櫻井 彦]
『今谷明著『守護領国支配機構の研究』(1986・法政大学出版局)』▽『山田邦明著『日本中世の歴史5 室町の平和』(2009・吉川弘文館)』