祭は祭祀(さいし)、政は政治を表し、祭祀(まつり)と政治(まつりごと)が未分化で一致している状態をいう。それは、祭祀の主宰者が同時に政治権力の保持者であるような機構、およびそれが望ましいとする理念によって支えられている。祭政一致は、神聖な価値規範によって支配されるすべての統治制度を含むのであって、古代においてもっとも顕著にみられるが、その理念と痕跡(こんせき)は現代に至るまで生き続けている。
祭政一致制度は、古代の諸文明には一般的に存在していた。古王国時代(前三千年紀)のエジプト人にとっては、王は神聖であり、しかも神聖で不動の世界秩序の中心であった。王は、単に神のようなものではなく、太陽神ラーの子で、神であると信じられていた。メソポタミアにおいては、シュメール人の王は、主神エンリル(地神)の子だと観念され、神として崇拝されていた。古代中国においても、殷墟(いんきょ)の建造物配置や甲骨文字によって示されるように、天の祭祀の執行は、皇帝のもっとも重要な職務とされていた。古代社会においては、シャーマンが農耕の成果に重大な影響を及ぼす自然現象に関する自己の判断を神の託宣に託して集団の意志となし、自ら政治的な指導者になっていた。
古代ギリシア・ローマの社会にも祭政一致的な傾向が看取される。古代ギリシアでは、王ばかりでなく、すべての市民が父系の祖先と神々との関係を根拠として、権威と地位とを相続した。また古代ローマでは、アレクサンドロス礼拝に始まるといわれる皇帝崇拝が行われ、ユリウス・カエサルに至ってはユピテル神とよばれていた。やがてコンスタンティヌス皇帝のもとでキリスト教が公認され、ビザンティン帝国において皇帝が教皇の地位をも占める皇帝教皇主義が実現した。
近世に至って絶対王制が優勢となったが、ロバート・フィルマー(1588?―1653)は王権神授説を説き、君主の権威の絶対性を神の名のもとに権威づけた。彼は、国家は家族であり、家父長の権威に従うことこそ政治的な義務の鍵(かぎ)であると信じた。アダムが初めの王であって、チャールス1世はその嫡子としてイギリスを統治する者だとしたのである。
古来わが国においては、天皇は、政治上の主権者であると同時に、本来宗教上の最高権威者であるとされた。天皇制は、もともと祭政一致の理想を根底にもっていた。日本の天皇は、神の代理者でも、神から支配権を与えられた国王でもなく、現人神(あらひとがみ)であると観念され、このことは、天皇の即位式すなわち大嘗祭(だいじょうさい)の儀式によって表出されるというのである。
古くは『日本書紀』の「推古(すいこ)紀」に、天皇が世を治めるにあたって、まず群臣とともに神祇(じんぎ)を祭り賜ったと記されている。近くは倒幕維新のときにあたって、国民統合の理念が祭政一致の復古に求められた。明治政府は、こうした基底のうえに古学神道(しんとう)の教説を採用し、1869年(明治2)7月にはその機構を神祇官と太政官(だじょうかん)とに二分して、前者を後者の上位に位置づけ、1870年代には大教宣布の運動を推進した。
しかし明治政府は西洋諸国との交際上の都合もあって1889年に大日本帝国憲法を制定し、そのなかに信教の自由を定めたために、古めかしい祭政一致推進の政策は退潮した。他方、西欧化、近代化の装いのもとに祭政一致の伝統を再強化しようとした加藤弘之(ひろゆき)は、フィルマーの王権神授説を援用して天皇現人神説に新しい装いを与え、日本国体論を樹立しようとした。これに元田永孚(もとだながざね)の儒教的権威主義が加わり、さらに穂積八束(ほづみやつか)や上杉慎吉(しんきち)によって、擬似的家長としての天皇像がつくりあげられていった。明治末期から大正期を経て昭和前期にかけては、筧克彦(かけいかつひこ)などの神秘的な天皇崇拝主義が、学校教育を通じて国民全体に強制された。
第二次世界大戦後「神道指令」により国家神道が廃止され、日本国憲法に信教の自由と政教分離が明記されて、祭政一致は法制的には一掃された。しかしいまでも、政府による戦没者の慰霊行事、公職者の靖国(やすくに)参拝などに、祭政一致の痕跡が認められる。
[阿部美哉]
神々をイツキマツル祭事と人民に対するマツリゴト(政事)とが一致するという観念。神権政治の一形態で,主として古代天皇制についていわれる。一般にあらゆる政治社会において,文化人類学・比較神話学・民俗学等が明らかにしているように,政治的主権者としての共同体の首長の機能は,原始・未開社会にさかのぼるほど,宗教的祭祀者としての機能と未分化であった。古代天皇制国家の形成においても,大嘗(だいじよう)祭の祭式・儀礼と密接に結びついて成立した《古事記》《日本書紀》の王権神話に象徴されるように,天皇ウジがマツロハシメた諸部族の首長の祭祀権を,各ウジの祖神とその神話の説話的統合および血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り,それによって政治的統合を遂げる,あるいは軍事的統合を補強する,といった事態がみられた。だがオオキミ(大王)からスメラミコト(天皇)への発展の過程で,祭祀機能と統治機能とは分離していき,宮廷外に伊勢神宮が創建されることにもなる。律令制においては神祇官が太政官と対等の官職として立てられた。また,その後の武家政治(幕府政治)の発展による政治的統治権の喪失ののちもなお保持された,いわゆる〈万世一系〉の天皇制の正統性なるものも,たんにその血統的連続性のみによるのではなく,大嘗祭を中心とした祭儀をとおして皇祖神との一体性を更新しつつ,トヨアシハラミズホノクニの豊穣(ほうじよう)を共同体を代表して予祝する祭祀者の資格において維持されつづけたことも忘れてはならない。
〈祭政一致〉という言葉そのものについていえば,それが広く用いられはじめたのは幕末から明治初年の時期である。会沢安(正志斎)の《新論》が〈西荒の蛮夷〉による危機に対抗して〈神州の国体〉を闡明(せんめい)せんとして〈祭政維一〉の伝統をいい,平田銕胤(かねたね)の《祝詞(のりと)式新刻本序》が〈祭政帰一〉を強調した等である。初期明治政府自身,そうした水戸学や平田派国学のイデオローグらの影響の下に,〈維新政府の宣伝政策〉(津田左右吉)の一環として〈祭政一致〉〈政教一致〉のスローガンをしばしば用いた。一時期,神祇官を太政官の上位に置く〈復古〉的制度を行おうとしたり,宣教使や教導職を置き,大教宣布の詔を発して神仏分離・廃仏毀釈の運動をあおる等のこともした(〈此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御恢復被遊候ニ付テハ,先第一神祇官御再興御造立ノ上,云々〉--1868年3月13日太政官布達)。だが神祇官(のち神祇省)や教導職等はまもなく廃され,まがりなりにも近代立憲国家の体裁をとった大日本帝国憲法下では,いちおうの信教の自由と政教分離が打ち出された。とはいえ教育勅語にもとづいた修身教育や国民道徳運動等の〈臣民〉への浸透は,大正デモクラシー後の昭和期に入って,天皇機関説事件を契機とした国体明徴運動の中で,再びよりイデオロギー化した形で,天皇アキツカミ説や祭政一致論を浮上させた。そのころ,日中戦争前夜に成立した林銑十郎内閣が政綱に祭政一致を掲げて識者の失笑を買い,文部省刊行の《国体の本義》にも〈祭政教一致〉の項が見られた(1940年神祇院設置)。第2次大戦後,占領軍の国教分離指令や天皇人間宣言,さらに日本国憲法の諸規定により,この理念は明白に否定された。
→神権政治
執筆者:中島 三千男
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…国家神道の思想的源流は,仏教と民俗信仰を抑圧して,記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした,江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想にある。明治維新にさいして,こうした立場の国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され,古代の律令制にならって神祇官が設けられて,祭政一致が維新政府のイデオロギーとなった。1868年(明治1)3月には神仏分離に関する一連の法令がだされ,それ以後全国的に神仏分離と廃仏毀釈が行われた。…
※「祭政一致」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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