デジタル大辞泉
「稀音家浄観」の意味・読み・例文・類語
きねや‐じょうかん〔‐ジヤウクワン〕【稀音家浄観】
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きねや‐じょうかん【稀音家浄観】
- 二世。邦楽家。長唄三味線方。初世の子。本名杉本金太郎。前名杵屋六四郎。東京出身。長唄研精会を創設し、新曲を発表するなど、長唄の普及、発展に尽くす。明治七~昭和三一年(一八七四‐一九五六)
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稀音家浄観 (きねやじょうかん)
長唄三味線方。2世が著名。(1)初世(1839-1917・天保10-大正6) 初世杵屋(きねや)六四郎の門弟で,もと四郎治。3世杵屋勘五郎の名前養子となり,6世杵屋三郎助をゆずられる。1902年,4世勘五郎を襲名したが,12世杵屋六左衛門の次男喜三郎も勘五郎を襲名して勘五郎が2人になったため,08年,稀音家浄観と改めた。(2)2世(1874-1956・明治7-昭和31) 初世の子。本名杉本金太郎。前名3世杵屋六四郎。はじめ歌舞伎座に出勤していたが,1902年,4世吉住小三郎とともに研精会を創始,演奏会形式の長唄に新機軸を出し長唄の普及発展に多大の貢献をした。26年,杵屋を稀音家と改め,39年,2世浄観を襲名した。1929年,東京音楽学校(現,東京芸術大学音楽学部)に長唄選科が創設されると,同校の講師となり,さらに36年教授となる。47年,日本芸術院会員に選出され,55年文化勲章を受章する。個人の作曲には《熊野(ゆや)》《元寇》,4世吉住小三郎との合作としては《有喜大尽(うきだいじん)》《紀文大尽》《お七吉三》《神田祭》《みやこ風流》などがある。
執筆者:植田 隆之助
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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稀音家浄観
きねやじょうかん
長唄(ながうた)三味線方。現在まで2世ある。
[渡辺尚子]
(1839―1917)初世杵屋六四郎の門弟。6世三郎助から1902年(明治35)4世勘五郎となったが、11世喜三郎(12代六左衛門の次男)が5世勘五郎を名のったため、08年稀音家浄観と改名。上調子(うわぢょうし)の名手であった。
[渡辺尚子]
(1874―1956)初世の実子。本名杉本金太郎。3世稀音家六四郎を経て、1939年(昭和14)2世を襲名。4世吉住(よしずみ)小三郎(後の吉住慈恭(じきょう))とともに、1902年(明治35)長唄研精会(けんせいかい)を創立し、芝居から分離した長唄の確立に力を入れた。演奏会形式で毎回研精会が発表した新曲のほとんどは小三郎との合作により、これらは長唄の普及・発展に重要な役割を果たしている。また、29年に開設された東京音楽学校長唄の選科に小三郎とともに講師に就任、のち教授となり、後進の指導にも力を入れた。『横笛』『熊野(ゆや)』『元寇(げんこう)』などを作曲。小三郎との合作には『有喜大尽(うきだいじん)』『紀文(きぶん)大尽』『寒山拾得(かんざんじっとく)』『都風流(みやこふうりゅう)』など。48年(昭和23)日本芸術院会員となり、55年文化勲章を受章。昭和31年5月28日没。
[渡辺尚子]
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稀音家 浄観(2代目)
キネヤ ジョウカン
- 職業
- 長唄三味線方
- 肩書
- 東京音楽学校教授 日本芸術院会員〔昭和23年〕
- 本名
- 杉本 金太郎
- 別名
- 前名=杵屋 六四郎(3代目)(キネヤ ロクシロウ)
- 生年月日
- 明治7年 3月4日
- 出生地
- 東京
- 経歴
- 明治21年3代目杵屋六四郎を継ぎ、中村座、歌舞伎座の三味線方をしたが、35年4代目吉住小三郎とともに長唄研精会を結成、演奏の独立を計った。大正15年稀音家と改姓。昭和4年東京音楽学校講師、後教授。14年六四郎を長男に譲り、2代目浄観を襲名、19年引退。23年芸術院会員、30年文化勲章を受章した。作品は「熊野」「元冠」、小三郎と合作の「紀文大尽」「有喜大尽」「神田祭」「お七吉三」などがある。
- 受賞
- 文化勲章〔昭和30年〕
- 没年月日
- 昭和31年 5月28日 (1956年)
- 家族
- 父=稀音家 浄観(初代),長男=稀音家 六四郎(4代目),孫=稀音家 六四郎(5代目)
稀音家 浄観(初代)
キネヤ ジョウカン
- 職業
- 長唄三味線方
- 本名
- 杉本 観太郎
- 別名
- 前名=杵屋 勘五郎(4代目)(キネヤ カンゴロウ),杵屋 三郎助(6代目)(キネヤ サブロスケ)
- 生年月日
- 天保10年
- 経歴
- 初代杵屋六四郎の門弟。3代目杵屋三五郎の後継者となり、6代目三郎助を名乗る。明治35年4代目杵屋勘五郎襲名と同時に11代目杵屋喜三郎が5代目杵屋勘五郎を襲名したため、41年稀音家浄観に改名し引退した。
- 没年月日
- 大正6年 8月28日 (1917年)
- 家族
- 息子=稀音家 浄観(2代目),孫=稀音家 六四郎(4代目)
- 親族
- 曽孫=稀音家 六四郎(5代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
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稀音家 浄観(2代目)
キネヤ ジョウカン
明治〜昭和期の長唄三味線方 東京音楽学校教授。
- 生年
- 明治7年3月4日(1874年)
- 没年
- 昭和31(1956)年5月28日
- 出生地
- 東京
- 本名
- 杉本 金太郎
- 別名
- 前名=杵屋 六四郎(3代目)(キネヤ ロクシロウ)
- 主な受賞名〔年〕
- 文化勲章〔昭和30年〕
- 経歴
- 明治21年3代目杵屋六四郎を継ぎ、中村座、歌舞伎座の三味線方をしたが、35年4代目吉住小三郎とともに長唄研精会を結成、演奏の独立を計った。大正15年稀音家と改姓。昭和4年東京音楽学校講師、後教授。14年六四郎を長男に譲り、2代目浄観を襲名、19年引退。23年芸術院会員、30年文化勲章を受章した。作品は「熊野」「元冠」、小三郎と合作の「紀文大尽」「有喜大尽」「神田祭」「お七吉三」などがある。
稀音家 浄観(1代目)
キネヤ ジョウカン
明治・大正期の長唄三味線方
- 生年
- 天保10年(1839年)
- 没年
- 大正6(1917)年8月28日
- 本名
- 杉本 観太郎
- 別名
- 前名=杵屋 勘五郎(4代目)(キネヤ カンゴロウ),杵屋 三郎助(6代目)(キネヤ サブロスケ)
- 経歴
- 初代杵屋六四郎の門弟。3代目杵屋三五郎の後継者となり、6代目三郎助を名のる。明治35年4代目杵屋勘五郎襲名と同時に11代目杵屋喜三郎が5代目杵屋勘五郎を襲名したため、41年稀音家浄観に改名し引退した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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稀音家浄観【きねやじょうかん】
長唄三味線方の芸名。2世〔1874-1956〕は前名3世杵屋六四郎。4世吉住小三郎とともに1902年長唄研精会を創立。歌舞伎への従属を離れて,演奏会形式による長唄演奏や作曲を行った。作品の多くは,小三郎との合作で,《紀文大尽》《神田祭》《有喜大尽》などが名高い。1955年文化勲章。
→関連項目上原真佐喜|山田抄太郎
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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稀音家浄観(2代)
没年:昭和31.5.28(1956)
生年:明治7.3.4(1874)
明治から昭和にかけての長唄三味線方。初代稀音家浄観の子で,明治21(1888)年に3代目杵屋六四郎を襲名し,昭和1(1926)年に杵屋を稀音家と改称する。その大きな功績のひとつは,明治35年に唄方の4代目吉住小三郎と共に「長唄研精会」を組織し,長唄を舞踊の伴奏音楽としてばかりでなく,純粋に鑑賞するための音楽,また健全な家庭音楽として世に知らしめたことである。昭和4(1929)年に東京音楽学校(東京芸大)に長唄の選科が置かれると,小三郎ともども教官として後進の育成に当たった。代表作に「熊野」「横笛」や,小三郎との合作の「紀文大尽」「神田祭」などがある。作曲の名人であるとともに,独特のユーモアを備え,しばしばしゃれっ気のある替え唄を作った。30年に文化勲章を受章。<参考文献>町田嘉章『長唄浄観』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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稀音家浄観(2代) きねや-じょうかん
1874-1956 明治-昭和時代の長唄三味線方。
明治7年3月4日生まれ。初代稀音家浄観の子。明治21年3代杵屋六四郎を名のる。35年4代吉住小三郎とともに長唄研精会を組織し演奏会を開催,長唄の普及につくす。昭和11年東京音楽学校(現東京芸大)教授。14年2代浄観を襲名。23年芸術院会員。30年文化勲章。昭和31年5月28日死去。82歳。東京出身。本名は杉本金太郎。作品に「元寇」「熊野(ゆや)」,合作に「紀文大尽」「神田祭」。
稀音家浄観(初代) きねや-じょうかん
1839-1917 明治-大正時代の長唄三味線方。
天保(てんぽう)10年5月5日生まれ。初代杵屋六四郎の門弟。四郎治,6代三郎助をへて明治35年4代勘五郎を襲名。41年稀音家浄観とあらためる。上調子(うわぢょうし)にすぐれた。大正6年8月28日死去。79歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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稀音家 浄観(2代目) (きねや じょうかん)
生年月日:1874年3月4日
明治時代-昭和時代の長唄三味線方。東京音楽学校(現東京芸術大学)教授
1956年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の稀音家浄観の言及
【寒山拾得】より
…1911年9月文芸協会私演場で初演。作曲4世[吉住小三郎]・3世杵屋(きねや)六四郎(2世[稀音家浄観])。振付2世[藤間勘右衛門]。…
【研精会】より
…正式名称は長唄研精会。4世[吉住小三郎](のちの慈恭(じきよう))と3世杵屋六四郎(のちの2世[稀音家浄観](きねやじようかん))によって創設された。従来,歌舞伎に付随していた長唄を鑑賞用音楽として独立させ,会員制度による演奏会開催を企画,1902年8月19日,東京日本橋俱楽部で第1回演奏会を開いた。…
【平岡吟舟】より
…代表作に《大磯八景》《向島八景》《都鳥》《東明獅子》などがある。東明節の創始は2世[稀音家浄観](きねやじようかん),2世清元寿兵衛(3世[清元梅吉]),[大和楽](やまとがく)の清元栄寿郎などに影響を与えた。また,アメリカから帰国後,日本最初の野球チーム〈新橋アスレチック・クラブ〉をつくって日本の初期野球の基礎をつくったのをはじめ,ローラースケートの道具を持ち帰って普及に努めるなど,その多彩な活動で築いた財を一代で散じ,〈平岡大尽〉などとも呼ばれた。…
【熊野】より
…《平家物語》巻十〈海道下〉に登場する遠江池田の宿(しゆく)の遊女の長の名。平重衡(しげひら)が捕らえられて関東に下る途中この宿に泊まり,その長の娘の侍従という女から歌を贈られるが,その女は,兄宗盛に召されたことのある海道一の歌人であった。これを原拠とし,その女の名を熊野とした能,およびこれに基づく近世邦楽がある。(1)能 喜多流は〈湯谷〉と書く。[三番目物]。[鬘物](かつらもの)。作者不明。シテは熊野。遠江池田の宿の長の熊野は,平宗盛(ワキ)の側に仕えて,久しく都住いだった。…
【吉住小三郎】より
…長唄の唄方。現在まで6世を数えるが,初世,2世,4世が著名。(1)初世(1699‐1753∥元禄12‐宝暦3) 摂津国(大阪)住吉神社の神官(あるいは伶人か)の出身で,〈住吉〉を逆にして吉住を名のったと伝える。初名は仙次郎。6世杵屋(きねや)喜三郎あるいは4世中山小十郎の門弟といわれ,唄浄瑠璃を得意とした。1753年(宝暦3)3月,中村座の《京鹿子娘道成寺(きようがのこむすめどうじようじ)》初演の立唄(たてうた)をつとめて好評を博す。…
※「稀音家浄観」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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