ロンドン海軍軍縮条約の締結をめぐる政治的紛争。1930年1月に開かれたロンドン軍縮会議では,難航のすえ,3月13日に日米妥協案が成立した。全権からの請訓にたいし,海軍軍令部長加藤寛治大将らは当初要求していた三大原則がいれられていないとして決裂を主張したが,浜口雄幸首相は,岡田啓介大将らの協力をえて,一応軍令部側の同意をとりつけ,受諾を回訓し,4月22日条約は調印された。しかし加藤は海軍の作戦に欠陥が生ずる旨を天皇に帷幄(いあく)上奏し,23日開会された第58特別議会では,野党の政友会は,政府が軍令部の意見をいれずに条約に調印したのは統帥権の侵害であると非難を加え,右翼も政府をはげしく攻撃した。これは帝国憲法12条の〈天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム〉という編制大権にも統帥権が及ぶとの見解によるものであった。これにたいし政府側が,美濃部達吉の憲法解釈にもとづき,編制大権は内閣の責任に属すると反論し,深刻な統帥権干犯論争となった。〈干犯〉の語は北一輝の造語ともいわれるが,4月4日の軍縮国民同志会(代表頭山満)の決議文がもっとも早い使用例とみられる。その後,条約に抗議した草刈英治少佐の自殺(5月20日),加藤軍令部長の辞表提出(6月10日)などをへて,10月2日条約は批准されたが,11月14日浜口首相狙撃事件がおこるなど,政党政治はきびしい攻撃に直面することとなった。
執筆者:江口 圭一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1930年(昭和5)ロンドン海軍軍縮条約の政府回訓決定の是非をめぐっておこった憲法論争。明治憲法は、国務と統帥の一元化を究極的には天皇によって実現すべきことを規定していたが、天皇自身は立憲君主の分限を厳守し権力の統合者になろうとはしなかったため、国務機関(政府)と統帥機関(軍部)の権限をめぐる争いは熾烈(しれつ)を極めた。条約批准にあたり、条約反対派は、政府が海軍軍令部の承認を得ずに兵力量を決定することは統帥権の独立を犯すものであると政府を批判し、他方政府側は、兵力量の決定権は政府側にあるから統帥権干犯ではないと応戦、両者の主張は平行線となった。浜口雄幸(おさち)首相は条約反対派の加藤寛治(ひろはる)軍令部長、末次信正(すえつぐのぶまさ)同次長を更迭することにより事態を収拾、条約批准を終えたが、このことが軍部、民間右翼に与えた影響は大きく、後の浜口首相狙撃(そげき)事件、若槻(わかつき)礼次郎男爵・小山松吉法相暗殺未遂事件などの遠因となった。
[寺崎 修]
1930年(昭和5)ロンドン海軍条約締結の過程において展開された統帥権の解釈をめぐる論争。浜口内閣は対英米実質7割の兵力量をもって条約締結を決意,4月1日政府回訓案を閣議決定したが,第58議会で野党の立憲政友会は,海軍軍令部長の反対を退けての回訓案決定は統帥権を犯すもの,と政府を攻撃した。兵力量決定の主体が海軍省にあるか,国防計画策定の権限をもつ海軍軍令部にあるかをめぐり,野党は条約反対派と連携しつつ政府を追及し倒閣を目論んだ。政府は兵力量の決定は海相の権限とする立場を貫き,元老・重臣や海軍長老の支持を背景に10月2日条約批准にこぎつけたが,その後,海軍軍令部の権限拡大に道を開く結果となった。
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…24年憲政会,政友会と結んで第2次護憲運動を推進し,護憲3派内閣の逓相となったが,25年普選法が成立すると革新俱楽部を政友会へ合同させ,政界を引退した。しかし後援者の要請でみずからの欠員による補欠選挙に当選,29年田中義一急死後の政友会総裁に迎えられ,ロンドン条約問題では軍部,政友会に呼応して浜口内閣の統帥権干犯を攻撃した(統帥権干犯問題)。31年12月政友会内閣を組織し,金輸出再禁止をおこない,軍部に同調しつつも満州事変の収拾をはかったが成功せず,議会政治擁護の主張で軍部急進派の攻撃の的となり,五・一五事件で射殺された。…
※「統帥権干犯問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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