行政裁判または行政訴訟とは,広義では,行政法規の適用に関する事件を正式の訴訟手続によって裁判することをさす。したがって,このような広義の意味での行政裁判ないし行政訴訟は,いかなる裁判機関によって裁判がなされるかを問わないのであるから,司法裁判所が行う裁判も,司法裁判所とは系統を異にする行政裁判所が行う裁判も,ともに行政裁判の観念に含まれる。このような意味での行政裁判は,多かれ少なかれ,権力分立の思想が定着し,行政が法に服して行われ,したがって行政権の違法な行使が裁判的統制に服すべきであるとする〈法治主義〉の原理が確立した近代国家においては,その形式はさまざまであるにせよ,いずれの国家においても存在した。司法裁判所の適用するコモン・ローの一元的支配という意味での〈法の支配〉の原則の確立したいわゆる英米法系の諸国においても,行政に関する事件は司法裁判所の裁判権に服し,〈法律の支配〉ないしは〈法律による行政〉の原理が説かれたフランス,ドイツなどの大陸諸国でも,行政事件の裁判権が行政裁判所に与えられた。
これに対し,狭い意味での行政裁判の観念は,フランス,ドイツなどの大陸諸国におけるように,司法と行政の分離という原則にたって司法裁判所とは別個の系統に属する行政裁判所が設けられて,これらの行政裁判機関によって行われた裁判をとくにさしている。このような意味での行政裁判の制度は,フランスにおいて最も早く成立し,その影響のもとで,ドイツ諸邦,オーストリアその他のヨーロッパ大陸諸国に採用され,旧憲法下の日本においても,プロイセンやオーストリアの制度にならって行政裁判制度が導入された。
行政裁判制度の形成は,権力分立の原理に立脚した国家作用の論理的な機能配分の結果によるものではなく,むしろそれぞれの国におけるときどきの政治的事情に大きく規定されている。このことは行政裁判制度の母国といわれるフランスに最もよくあてはまる。フランスの行政裁判制度の起源は革命以前のアンシャン・レジームにさかのぼる。アンシャン・レジームのもとにおいては行政と司法の観念は必ずしも明確ではなく,一方では国王直属の官僚機構がその所管事項について行政権と裁判権を行使し,他方では保守的な封建貴族の牙城であった各地の高等法院(パルルマンParlement)が伝統的な各種の権限を行使して,国王の官僚機構とつねに対立抗争していた。とくに高等法院は,判決の形式で一般的な立法をなすことのできる権限や法令の登録権によって,国王の試みる改革的立法を妨害してきた。こうした状況のもとで国王は官僚機構の権限の拡大に努めるとともに,行政事件に関する裁判権を国王顧問会議(コンセイユ・デュ・ロアConseil du Roi)にゆだねたのであった。これがフランスにおける行政裁判の端緒といわれる。
フランス革命期に至り,新しい行政機構がうちたてられたが,革命期の指導者は,司法部がかつての高等法院による行政部への干渉と抵抗の伝統を引き継ぐことをおそれ,権力分立の原則から司法と行政の分離を図った。とくに革命期には地租を中心とする直接税の訴訟と国有財産の売却に関する訴訟を司法部の干渉を排して迅速に解決することが重要な課題とされた。そこで,革命期の一連の法令は裁判所が行政事件を裁判することを厳しく禁止し,行政事件の裁判のために行政官裁判制度système de l'administrateur-jugeが設けられた。その後1800年には諮問的機関として中央政府のもとにコンセイユ・デタConseil d'État,県知事のもとに県参事院Conseils de préfectureが設けられ,これらが行政裁判権を担うことになった。もっとも,当初はこれらの機関の裁判権は最終的には国の最高権者の裁判権のもとに留保されるものと考えられたが,72年の法律によって完全な裁判権が委任され,現在では1953年の改革をへて,地方行政裁判所tribunal administratifとコンセイユ・デタによる行政裁判制度が確立している。フランスの行政裁判機関は行政権に属するものとされているが,その判例を通じて国家賠償責任,行政契約あるいは〈越権訴訟〉(行政処分の取消しを求める訴訟)による裁量統制に関するすぐれた法理を形成してきたことをもって高く評価されている。
フランスと比べると,ドイツにおいては行政裁判の端緒を何に求めるかは難しい。もともと17・18世紀の絶対主義時代のドイツは神聖ローマ帝国を盟主とする領邦国家体制であり,領邦君主は建前上は帝国の裁判権に服していた。しかし,プロイセン国王など有力な領邦君主はその支配体制を確立するにつれて帝国の裁判権から離脱することに成功していった。こうして問題はそれぞれの領邦内部における裁判制度のあり方がいかにあるべきかということになった。たとえば17・18世紀頃のプロイセンにおいては,統一的な裁判制度が確立していたわけではなく,それどころか,アンシャン・レジーム下のフランスにおけると同様,行政と司法の明確な分化さえ達成されていなかった。17世紀末ころ以来,絶対主義的な支配体制の確立を試みた君主は,その直属の官僚機構(コミッサリアートKommissariat)の権限拡大に努め,これらの官僚機構にその所管事項についての行政権と裁判権を与えてきた。しかし,それらの官僚機構の所管事項はしばしば伝来の司法裁判所(レギールングRegierung)の所管事項と競合し,そこに絶えざる権限争議が生じた。18世紀の半ばになると,一方では君主の官僚機構の整備も進み,それらの官僚機構による官府裁判Kammerjustizの制度も司法手続化されるようになった。しかし他方では,伝来の司法裁判所についても国家試験制度の導入などによる司法改革が進展し,それとともに,君主の官僚機構に対抗しうる司法官僚層が形成され,18世紀の末には司法官僚層によって一般ラント法典Allgemeines Landrechtが編纂されるなど,司法官僚機構が優位を占め,官府裁判制度は廃止された。
19世紀に入ると,ドイツの諸邦はフランス革命の影響の下に近代的な改革に着手するが,その過程で近代的な諸改革を円滑に遂行するために行政と司法の作用を分離することが試みられた。西南ドイツ諸邦ではフランスの制度を模倣して,行政事件については行政機関による裁判制度,すなわちいわゆる〈行政司法Verwaltungsrechtspflege〉が形成された。これと対照的に,シュタインとハルデンベルクが改革を主導したプロイセンでは,行政事件については一連の立法で司法裁判所の裁判権を排除しただけではなく,行政司法のような制度も設けられず,もっぱら行政上の訴願制度のみが存置された。こうして19世紀半ばに自由主義的理念に立脚した立憲主義の要求が高まり,1849年のフランクフルト憲法草案では西南ドイツ諸邦に定着した行政司法の廃止が規定され,プロイセンでは法治国家思想に基づいて行政事件についての近代的な裁判制度の確立の必要性が叫ばれるようになった。19世紀後半に入ると,ベール,グナイスト,ブルンチュリら多くの論者によって種々の裁判制度の構想が説かれたが,結局は,行政権内部に行政裁判所を設ける方法が採られた。まず初めにバーデンにおいて(1863),ついでプロイセン(1875),バイエルン(1878)など各ラントで行政裁判制度が設けられた。
ドイツ諸邦の行政裁判制度は,詳細にみればラントごとに異なるが,戦前の日本の行政裁判制度に大きな影響を与えたプロイセンの制度を例にとると,次のような特色が見られる。(1)まず第1に,行政裁判制度は,一種の行政内部的な監督統制のための制度とされ,国民の権利・利益の救済よりも,行政の適法性の確保が重視された。(2)第2に,行政訴訟を提起しうる事項についても一定の限定を加える列記主義の原則が採用された(ただし,この列記主義の原則は,プロイセンでは素人行政裁判官制が導入されたこと,および手続が争訟手続と決定手続に分かれる二元的構成になっていたことと密接な関連があった)。(3)第3に,行政裁判所Verwaltungsgerichtの裁判官の身分保障が必ずしも十分なものではなかった。このように戦前のドイツの行政裁判制度は国民の権利保護制度としてはなお欠陥の多いものであったが,裁判制度としては十分に定着し,また判例を通じて多くの法理を形成してきた。ドイツの行政裁判制度はナチスの時代に廃止されるに等しい状況におちいったけれども,第2次大戦後の西ドイツでは〈法治国の回復〉というスローガンの下に各ラントで復活されただけではなく,1949年のボン基本法では行政裁判権が司法権(裁判権)の一分肢として位置づけられるとともに,出訴事項についての一般概括主義の採用,多様な訴訟類型の採用,執行停止原則の確立など,権利救済制度としての性格が顕著になっている。
日本の行政裁判制度は明治憲法の制定と同時にプロイセン,オーストリアの制度を範として設けられた。すなわち,旧憲法61条は〈行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス〉と規定し,1890年公布の〈行政裁判法〉および同年の〈行政庁ノ違法処分ニ関スル行政裁判ノ件〉などの法令によって行政裁判所が設けられた。日本の行政裁判制度は,権利救済制度としてはきわめて不完全なものであった。(1)まず第1に,日本においては行政裁判所は全国に1ヵ所(東京)のみ置かれ,一審にして終審制であった。(2)第2に,行政裁判所の権限はいわゆる法律問題の審理に限定され,行政の裁量に属する問題には審理権が及ばないとされた。戦前の日本の代表的な公法学者であった美濃部達吉は,日本の行政裁判所の判決を評して,〈官権偏重の弊〉ありとしていた。(3)第3に,行政裁判所への出訴事項もきわめて限定されていた。のみならず,行政裁判所は損害要償の訴訟を受理しないとされていたため,国や公共団体に損害賠償を求める訴訟や公法上の損失補償を求める訴訟は行政裁判所に提起できなかった。そのほかにも,執行不停止原則の制度(〈執行停止〉の項目を参照)や訴願前置主義の原則など権利保護の面からみると,種々の欠陥が存在した。
このような日本の行政裁判制度については,戦前にも改正の試みがなされたが,実現されないままに終わり,結局,第2次大戦後の司法改革の過程でその歴史を閉じることになった。戦後の日本では,新憲法の制定とともに行政裁判制度は廃止され,行政事件を含むいっさいの法律上の争訟が,最高裁判所を頂点とする司法裁判所の裁判権に服するものとされた。
→行政訴訟 →行政法
執筆者:宮崎 良夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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