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鎌倉前期の政治家。法名覚勝。父は藤原実宗(さねむね)、母は藤原基家(もといえ)の女(むすめ)。平氏政権時代に官途につき、鎌倉幕府成立以来、朝廷内の親武家派となった。承久(じょうきゅう)の乱(1221)のとき、いち早く朝廷の情勢を幕府に通報してその勝利を導いたので、乱後幕府の後援を得て京の政界を圧する勢いを築いた。摂関(せっかん)家を操縦し、太政大臣(だいじょうだいじん)となり、孫女を入内(じゅだい)させて皇室の外戚(がいせき)となった。加えて、多くの荘園(しょうえん)や宋(そう)との貿易による莫大(ばくだい)な収入で豪華奢侈(しゃし)を極めた。なかでも京都北山(きたやま)に菩提寺(ぼだいじ)として西園寺を建立し豪華な園池をつくって別荘とし、天下の壮観とされた。のち、これに基づいて西園寺家と称した。同寺は鹿苑院(ろくおんいん)(金閣寺)の前身である。公経は家業たる琵琶(びわ)のほか、和歌をよくし、『新古今集』以下の勅撰(ちょくせん)集にその歌が多く採られている。なお曽祖父(そうそふ)通季(みちすえ)から乗用の車を伝え、その模様にちなんで鞆絵(ともえ)大将とよばれた。寛元(かんげん)2年8月29日没。
[多賀宗隼]
『龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』
鎌倉前期の公卿。鎌倉幕府との強い結びつきを背景に,承久の乱以後絶大な権勢を誇った。西園寺家は藤原氏北家閑院流,権中納言通季を祖とし,公経はその曾孫。西園寺の家名は,公経が1224年(元仁1)に京都北山の地(現在,鹿苑寺金閣のあるあたり)に西園寺を造営して移り住み,西園寺殿と称されたことに由来する。公経と幕府との結びつきは,公経が源頼朝の妹婿一条能保の女をめとったことに始まり,源実朝の死後には,公経が養育していた外孫九条三寅(後の頼経)を将軍後継者として鎌倉に下らせた。承久の乱に際しては公経はいち早く変事を幕府に通報し,乱後の幕府の支援を確実なものにした。やがて太政大臣,従一位に進んだ公経の勢威は摂関家をしのぐほどであり,譲位,立太子にも影響力を行使した。公経はまた和歌に通じ,琵琶もよくした。
執筆者:山本 博也
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1171~1244.8.29
鎌倉前期の公卿。父は藤原実宗。母は持明院基家の女。源頼朝の妹婿一条能保の女全子と結婚して幕府と親密になり,源実朝の暗殺後は,外孫三寅(みとら)(藤原頼経)を将軍後継者とした。承久の乱に際しては,事前に情報を幕府にもたらして勝利に貢献。乱後は幕府との強い結びつきを背景に,1222年(貞応元)太政大臣,翌年従一位に昇進し,女婿九条道家とともに公家政権を掌握した。道家の外孫四条天皇が急逝し後嵯峨天皇が即位すると,42年(仁治3)孫女姞子(きっし)(大宮院)を中宮に立て,久仁親王(後深草天皇)の外戚となった。琵琶・和歌に秀で,文化人としても活躍。
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… 確かに承久の乱後も院政は継続しているが,その実質は変化し,治天の君はかつての独裁権を失っていた。乱後の朝廷の政治を指導したのは実は治天の君ではなく,幕府と関係の深い西園寺公経とその女婿の九条道家であった。公経は頼朝と姻戚関係にあり,承久の乱にも幕府を支持し,幕府の絶対の信頼を得ていた。…
※「西園寺公経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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