西園寺公経(読み)さいおんじきんつね

精選版 日本国語大辞典 「西園寺公経」の意味・読み・例文・類語

さいおんじ‐きんつね【西園寺公経】

  1. 鎌倉初期の公卿太政大臣源頼朝の姪(めい)を妻として、累進した。京都北山に西園寺を建て以後西園寺氏と称した。のちこの地に足利義満鹿苑寺金閣を建てた。承安元~寛元二年(一一七一‐一二四四

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百科事典マイペディア 「西園寺公経」の意味・わかりやすい解説

西園寺公経【さいおんじきんつね】

鎌倉前期の公卿(くぎょう)。父は藤原実宗(さねむね)。源頼朝の外戚として勢力を伸ばし,承久の乱前後の時期には関東申次(かんとうもうしつぎ)の役を務めた。承久の乱に際しては京の情勢鎌倉幕府に伝え,1222年に太政(だいじょう)大臣翌年には従一位に進んだ。九条道家とともに後堀河(ごほりかわ)天皇譲位四条天皇践祚(せんそ)を実現させた。なお西園寺の家名は,公経が京都北山に西園寺を建立して移り住み,西園寺殿と称されたことに由来する。→西園寺家
→関連項目一条実経吹田

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西園寺公経」の意味・わかりやすい解説

西園寺公経
さいおんじきんつね
(1171―1244)

鎌倉前期の政治家。法名覚勝。父は藤原実宗(さねむね)、母は藤原基家(もといえ)の女(むすめ)。平氏政権時代に官途につき、鎌倉幕府成立以来、朝廷内の親武家派となった。承久(じょうきゅう)の乱(1221)のとき、いち早く朝廷の情勢を幕府に通報してその勝利を導いたので、乱後幕府の後援を得て京の政界を圧する勢いを築いた。摂関(せっかん)家を操縦し、太政大臣(だいじょうだいじん)となり、孫女を入内(じゅだい)させて皇室の外戚(がいせき)となった。加えて、多くの荘園(しょうえん)や宋(そう)との貿易による莫大(ばくだい)な収入で豪華奢侈(しゃし)を極めた。なかでも京都北山(きたやま)に菩提寺(ぼだいじ)として西園寺を建立し豪華な園池をつくって別荘とし、天下の壮観とされた。のち、これに基づいて西園寺家と称した。同寺は鹿苑院(ろくおんいん)(金閣寺)の前身である。公経は家業たる琵琶(びわ)のほか、和歌をよくし、『新古今集』以下の勅撰(ちょくせん)集にその歌が多く採られている。なお曽祖父(そうそふ)通季(みちすえ)から乗用の車を伝え、その模様にちなんで鞆絵(ともえ)大将とよばれた。寛元(かんげん)2年8月29日没。

[多賀宗隼]

『龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「西園寺公経」の意味・わかりやすい解説

西園寺公経 (さいおんじきんつね)
生没年:1171-1244(承安1-寛元2)

鎌倉前期の公卿。鎌倉幕府との強い結びつきを背景に,承久の乱以後絶大な権勢を誇った。西園寺家は藤原氏北家閑院流,権中納言通季を祖とし,公経はその曾孫。西園寺の家名は,公経が1224年(元仁1)に京都北山の地(現在,鹿苑寺金閣のあるあたり)に西園寺を造営して移り住み,西園寺殿と称されたことに由来する。公経と幕府との結びつきは,公経が源頼朝の妹婿一条能保の女をめとったことに始まり,源実朝の死後には,公経が養育していた外孫九条三寅(後の頼経)を将軍後継者として鎌倉に下らせた。承久の乱に際しては公経はいち早く変事を幕府に通報し,乱後の幕府の支援を確実なものにした。やがて太政大臣,従一位に進んだ公経の勢威は摂関家をしのぐほどであり,譲位,立太子にも影響力を行使した。公経はまた和歌に通じ,琵琶もよくした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西園寺公経」の意味・わかりやすい解説

西園寺公経
さいおんじきんつね

[生]承安1 (1171). 京都
[没]寛元2 (1244).8.29. 京都
鎌倉時代中期の廷臣。藤原実宗の子,母は藤原基家の娘。嘉禄年間(1225~27)頃京都北山の別荘につくった仏堂を西園寺と名づけたので,この一門西園寺家という(→鹿苑寺)。源頼朝の姪にあたる一条能保の娘を妻とし,親幕派貴族の筆頭とみられたため,承久の乱(1221)に際して,後鳥羽上皇側に逮捕,拘禁されたが,この乱が幕府北条氏の勝利に終わると,京都朝廷は公経を中心に再編成され,内大臣を経て貞応1(1222)年太政大臣となり,摂関をしのぐ権勢を誇った。九条道家に嫁した娘は将軍頼経(→九条頼経)を生み,孫娘の一人は後嵯峨天皇の,また一人は後深草天皇の中宮となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西園寺公経」の解説

西園寺公経
さいおんじきんつね

1171~1244.8.29

鎌倉前期の公卿。父は藤原実宗。母は持明院基家の女。源頼朝の妹婿一条能保の女全子と結婚して幕府と親密になり,源実朝の暗殺後は,外孫三寅(みとら)(藤原頼経)を将軍後継者とした。承久の乱に際しては,事前に情報を幕府にもたらして勝利に貢献。乱後は幕府との強い結びつきを背景に,1222年(貞応元)太政大臣,翌年従一位に昇進し,女婿九条道家とともに公家政権を掌握した。道家の外孫四条天皇が急逝し後嵯峨天皇が即位すると,42年(仁治3)孫女姞子(きっし)(大宮院)を中宮に立て,久仁親王(後深草天皇)の外戚となった。琵琶・和歌に秀で,文化人としても活躍。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西園寺公経」の解説

西園寺公経 さいおんじ-きんつね

1171-1244 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
承安(じょうあん)元年4月生まれ。西園寺実宗(さねむね)の次男。妻は源頼朝(よりとも)の姪(めい)一条全子。承久(じょうきゅう)の乱で,後鳥羽(ごとば)上皇の倒幕の企てを幕府に通報した。貞応(じょうおう)元年太政大臣となる。従一位。京都北山に西園寺(のちの鹿苑(ろくおん)寺)を建立し家名とした。寛元2年8月29日死去。74歳。法名は覚勝。
【格言など】花誘ふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「西園寺公経」の解説

西園寺公経
さいおんじきんつね

1171〜1244
鎌倉初期の公卿
妻は源頼朝の姪。4代将軍九条頼経の生母の父。1221年承久の乱には幕府との関係から幽閉されたが,乱後幕府の支援で太政大臣,関東申次として権威をふるい,西園寺家の基礎を築いた。のち京都北山に西園寺を建て移り住み,以後西園寺氏と称した。

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世界大百科事典(旧版)内の西園寺公経の言及

【鎌倉時代】より

… 確かに承久の乱後も院政は継続しているが,その実質は変化し,治天の君はかつての独裁権を失っていた。乱後の朝廷の政治を指導したのは実は治天の君ではなく,幕府と関係の深い西園寺公経とその女婿の九条道家であった。公経は頼朝と姻戚関係にあり,承久の乱にも幕府を支持し,幕府の絶対の信頼を得ていた。…

※「西園寺公経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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