道昭(読み)ドウショウ

デジタル大辞泉 「道昭」の意味・読み・例文・類語

どうしょう〔ダウセウ〕【道昭】

[629~700]飛鳥あすか時代の法相ほっそうの僧。河内かわちの人。入唐して玄奘げんじょうに学び、帰国後、元興寺禅院を建立し、初めて法相宗を伝えた。遺命により日本最初の火葬に付された。

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精選版 日本国語大辞典 「道昭」の意味・読み・例文・類語

どうしょうダウセウ【道昭】

  1. 飛鳥時代法相宗の僧。河内国大阪府)の人。元興寺に住する。白雉四年(六五三)入唐、玄奘に法相唯識を学び、また慧満から禅を受け、斉明天皇七年(六六一)帰国、初めて法相宗を広めた。のち諸国を巡り、民衆の生活向上に尽くした。明天皇元~文武天皇四年(六二九‐七〇〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「道昭」の意味・わかりやすい解説

道昭
どうしょう
(629―700)

飛鳥時代に入唐(にっとう)して法相(ほっそう)宗を伝えた僧。道照とも記す。俗姓は船氏。河内(かわち)国(大阪府)丹比(たじひ)郡の人。出家して元興寺(がんごうじ)に住し、653年(白雉4)五月に入唐して長安に至り、大慈恩(だいじおん)寺の玄奘(げんじょう)に師事して唯識(ゆいしき)を学ぶ。また相州隆化(りゅうけ)寺の慧満(えまん)(生没年不詳)より禅を習学した。在唐8年にして660年(斉明天皇6)に帰国し、玄奘訳の経論や禅籍を将来し、元興寺境内に禅院を建立して、それらを安置した。法相唯識学を宣揚するとともに、禅観を修した。法相宗の初伝とされる。また十余年にわたり社会福祉事業を積極的に行い、698年(文武天皇2)11月には大僧都(だいそうず)に任命された。日本における大僧都補任(ぶにん)の初例である。文武(もんむ)天皇4年3月10日禅院において入寂。遺命により火葬に付され、日本における火葬の初めとされる。弟子に行基(ぎょうき)らがある。

[伊藤隆寿 2017年9月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「道昭」の解説

道昭

没年:文武4.3.10(700.4.3)
生年:舒明1(629)
7世紀の代表的な僧。道照とも記す。『続日本紀』の死亡記事の伝が根本の史料。他に『日本霊異記』上巻第22話,『日本三代実録』元慶1(877)年12月16日条所引の「道照法師本願記」逸文もある。河内国(大阪府)丹比郡 の出身で,俗姓は船連氏。船氏は百済系の帰化人。父は恵尺。白雉4(653)年に遣唐使の船に乗って学問僧として入唐。長安の玄奘の弟子となった。このことは中国側の史料からも確認でき,『宋史日本伝』『仏祖統紀』にみえる。玄奘からは経・律・論(経典・戒律・仏教学)のいわゆる三蔵を広く学び,また禅を学習して日本に伝えた。帰国に際し,玄奘は彼に仏舎利(釈迦の遺骨)と多数の経論を授けた。斉明7(661)年,遣唐使の帰国船にて帰国。飛鳥の法興寺(飛鳥寺,のちの元興寺)の東南の隅に禅院を建てて住み,禅を広め,諸々の経典を説いた。その教学は,玄奘の高弟である窺基と同質の法相宗であるとする見方もあるが,摂論宗(無著の『摂大乗論』を根本典籍とする中国の一宗派)をはじめとしてさまざまな教学を伝えたとする見方が有力。その一方,各地を周遊して路傍に井戸を掘り,津済(渡)に船を設置したり,橋を造ったりしたという。ただし,宇治橋造立を彼によるとする『続日本紀』の記述は疑問。道登によるか。死亡後は遺命により火葬。わが国の火葬の始まりという。彼以前の火葬の有無については議論があるが,中央の有力者としては初例としてよい。骨を神聖視する信仰も伝えたらしく,彼の遺骨が奇瑞を示したというエピソードも残した。

(吉田一彦)


道昭

没年:文和4/正平10.12.22(1356.1.24)
生年:弘安4(1281)
南北朝期の僧で,天皇の護持僧として知られる。一条家経の子と伝わる。行昭に学び,建武3(1336)年寺門派で初めて准三宮に任じられ,翌年北朝の 光明天皇の護持僧となる。皇室のためしばしば密教の修法を行う。のち園城寺長吏を勤めた。また熊野三山,新熊野の検校にもなる。著書に『胎密契愚鈔三昧流』2巻などがある。

(正木晃)

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改訂新版 世界大百科事典 「道昭」の意味・わかりやすい解説

道昭 (どうしょう)
生没年:629-700(舒明1-文武4)

法相宗の学僧で,道照とも書く。河内国丹比郡の生れ。俗姓は船連(ふなのむらじ)。653年(白雉4)入唐(につとう)学問僧として遣唐使にしたがい唐にわたる。玄奘(げんじよう)を師として業をうけた。玄奘からとくに愛され,同房に住み,禅を習い,悟るところが多かった。661年(斉明7)帰朝にあたり,玄奘所持の舎利・経論を授けられている。翌年,飛鳥の法興寺の南東隅に禅院を建て,天下の僧徒に禅を教えた。のち,各地を周遊して,路傍に井をうがち,津のわたりに船をもうけ,橋を造った。山背(やましろ)国の宇治橋は道昭がかけたともいう。およそ10年余りののち,天皇の勅で禅院にもどり,座禅のまま亡くなった。ときに72歳。遺言によって火葬に付された。天下の火葬はこれより始まったという。道昭は,法相宗を最初に日本へ伝えた人物として法相宗第一伝に数えられる。
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百科事典マイペディア 「道昭」の意味・わかりやすい解説

道昭【どうしょう】

道照とも。飛鳥時代の僧。法相(ほっそう)宗の開祖。俗姓船連(ふねのむらじ)。河内(かわち)の人。653年遣唐使(けんとうし)に従い入唐(にっとう)し,玄奘(げんじょう)に法相教義を学んだ。帰国後は飛鳥寺(法興寺)の南東隅に禅院寺を建てて法相宗を広め,その門から行基(ぎょうき)が出た。のち諸国を巡歴,社会事業に努めた。遺言で遺体を火葬にしたのが日本の火葬の始まりと伝える。
→関連項目倶舎宗

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「道昭」の解説

道昭
どうしょう

629~700.3.10

道照とも。7世紀の僧。河内国丹比郡の人。俗姓船連(ふねのむらじ)。飛鳥寺で得度。653年(白雉4)入唐し,玄奘(げんじょう)に師事して法相宗を学び,慧満から禅を学ぶ。661年(斉明7)帰朝。翌年元興寺に禅院を建立して将来した経論を収め,法相・禅を広めて日本法相宗の第一伝とされる。諸国をめぐって社会事業を進め,宇治橋架設にも関与した。薬師寺繍仏(しゅうぶつ)開眼の講師となり,698年(文武2)大僧都。遺命により大和国粟原(おうばら)で日本初の火葬に付されたという。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「道昭」の解説

道昭(1) どうしょう

629-700 飛鳥(あすか)時代の僧。
舒明(じょめい)天皇元年生まれ。船恵尺(ふねの-えさか)の子。法相(ほっそう)宗の祖。白雉(はくち)4年唐(とう)(中国)にわたり,玄奘(げんじょう)に法相を,慧満(えまん)に禅をまなぶ。帰国後は飛鳥寺(元興(がんごう)寺)境内に禅院をたて,教えをひろめた。諸国をめぐって井戸をほり,橋をかけた。文武(もんむ)天皇4年3月10日死去。72歳。遺言で日本初の火葬に付されたといわれる。河内(かわち)(大阪府)出身。法名は道照とも。

道昭(2) どうしょう

1281-1356* 鎌倉-南北朝時代の僧。
弘安(こうあん)4年生まれ。一条家経の子。天台宗。近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺の行昭(ぎょうしょう)に師事。建武(けんむ)4=延元2年北朝の光明天皇の護持僧。園城寺長吏,四天王寺別当,熊野(くまの)三山検校(けんぎょう)などを歴任した。大僧正。准三宮(じゅさんぐう)。文和(ぶんな)4=正平(しょうへい)10年12月22日死去。75歳。著作に「胎密契愚鈔三昧流」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「道昭」の意味・わかりやすい解説

道昭
どうしょう

[生]舒明1(629)
[没]文武4(700)
飛鳥時代の法相宗の僧。俗姓は船連。出家して元興寺に住し,戒行を修した。白雉4 (653) 年入唐。玄奘に師事し,その高弟である窺基と親交を結んだ。また玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅し,経論若干をたずさえて帰朝。天智1 (661) 年元興寺の境内に禅院を創立し経巻を安置,法相宗を広めた。日本における法相宗の初伝で,この法系を南寺伝と呼ぶ。晩年は諸国を遊行して渡船,架橋その他社会事業に尽した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「道昭」の解説

道昭
どうしょう

629〜700
7世紀後期の法相宗の僧
河内(大阪府)の人。行基の師。653年に入唐し,玄奘三蔵に師事した。在唐8年で帰国。元興寺に住し唯識学を講じ,日本法相宗の開祖となった。死後遺言により,遺体を火葬にしたが,これが日本における火葬のはじめといわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の道昭の言及

【役行者】より

…7世紀末に大和国の葛城(木)山を中心に活動した呪術者。生没年不詳。役小角(えんのおづぬ),役君(えのきみ)などとも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。《続日本紀》によると,699年(文武3)朝廷は役君小角を伊豆国に流した。葛城山に住む小角は,鬼神を使役して水をくませ,薪を集めさせるなどし,その命令に従わなければ呪術によって縛るという神通力の持主として知られていたが,弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師の能力をねたみ,小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴(ざんそ)したために,流罪が行われたという。…

【火葬】より

…一般に死者の葬法には土葬水葬,火葬,風葬の4種があり,アーリヤ族古来の習俗であった火葬が仏教とともに日本に伝わり,もともと死体遺棄あるいは風葬や土葬であった日本の葬法に大きな変化をもたらした。主として僧侶により採用された葬法であり,記録では《続日本紀》文武4年(700)条にある元興寺の僧道昭の火葬を初めとするが,6,7世紀の火葬墓が発見されたり,《万葉集》に火葬を詠んだ挽歌がみられることなどから,僧侶だけに限られず,またその起源もさらにさかのぼるようである。702年(大宝2)持統天皇が飛鳥岡に火葬され,天皇火葬の初例となった。…

【俱舎宗】より

…インドやチベットにおいて《俱舎論》は,仏教教理学の必修科目としてさかんに研究・講義され,中国においても真諦(しんだい)三蔵によって《摂大乗論(しようだいじようろん)》などとともに漢訳され(566‐567),さらに玄奘(げんじよう)三蔵によって多数の唯識学系統の経論とともに再訳されて(654)以後,それぞれ摂論学派と法相唯識学派の学統において研究・講義され,いくつかの重要な注疏がつくられた。日本においては遅くとも道昭(661年帰朝,元興寺禅院の開祖)によって《俱舎論》および注疏が伝来されたであろうが,〈俱舎宗〉という学団が公的に制定されるのは,天平勝宝年間(749‐757)の東大寺においてではないかと考えられる。そのころ,この学団が大仏開眼供養にちなんで南都六宗の一つとして自宗関係の多数の経論を転読講説していることが知られる。…

【船恵尺】より

…7世紀中ごろの人。僧道昭の父。少錦下,姓は史。…

【留学】より

…彼らは,二十数年から三十数年の長期間にわたって中国に滞在し,隋が滅び,唐が興ってくる中国の社会を実見して帰国し,大化改新に始まる律令国家の建設に大きな役割を果たした。唐の建国後間もなく帰国した留学生恵日(薬師恵日(くすしえにち))らの進言によって,遣唐使が派遣されることになると,道昭(どうしよう)など多くの学問生・学問僧が遣唐使に従って渡唐した。また7世紀には新羅に留学する僧も多く,行善(ぎようぜん)のように高句麗に留学する僧もあった。…

※「道昭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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