5世紀末の皇女。飯豊女王,忍海部女王などともいう。履中天皇の女で市辺押羽皇子の妹にあたり,母は葦田宿禰(葛城襲津彦の子)の女黒媛とも,市辺押羽皇子の女で,母は蟻臣(葦田宿禰)の女荑(はえ)媛とも伝える。《日本書紀》の顕宗即位前紀によれば,清寧天皇が没したあと皇位継承者が定まらず久しく空位が続くので,飯豊青皇女が忍海角刺宮でみずから〈忍海飯豊青尊〉と称して〈臨時秉政(みかどまつりごと)〉したとあり,一時天皇に準ずる地位にあった可能性を伝える。《日本書紀》では皇女の兄弟にあたる億計(おけ)・弘計(おけ)の2王が皇位を譲り合ったためとし,《古事記》の清寧段では,姨の皇女がその後に播磨に2王をさがさせたとし,諸伝に混乱がみられる。皇女を《日本書紀》では天皇としていないが,《扶桑略記》では〈飯豊天皇〉とし,中継ぎの女帝としての即位を認めている。《日本書紀》では清寧5年11月に没し葛城埴口陵に葬られたとされ,《本朝皇胤紹運録》などでは45歳であったと伝える。
執筆者:勝浦 令子
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5世紀後半の皇女。青海皇女(あおのおうじょ)、忍海部皇女(おしぬみべおうじょ)などとも記す。履中天皇(りちゅうてんのう)の女(むすめ)(母は葛城(かずらき)氏出身の黒媛(くろひめ)で市辺押磐皇子(いちのべのおしわのおうじ)の妹)とする説と市辺押磐皇子の女(母は葛城氏出身の荑媛(はえひめ))とする説の2説がある。『日本書紀』に清寧天皇の没後、飯豊が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)に「臨朝秉政(みかどまつりごと)」したと記し、その即位を示唆するような表記が記紀に認められる。『扶桑略記(ふそうりゃっき)』や『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』には「飯豊天皇」とあり、飯豊が中継ぎ的に大王の地位についた可能性は少なくないと思われる。
[加藤謙吉]
『加藤謙吉著「応神王朝の衰亡」(佐伯有清編『古代を考える 雄略天皇とその時代』所収・1988・吉川弘文館)』
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…天皇の在位しないとき,皇族が天皇に代わって政治を執ることをいう。古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,天武天皇の没後,皇后鸕野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく3年間政務を執った例の3例がある。ところで《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうことからすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。…
…《日本書紀》では神功皇后が仲哀天皇の死後69年間摂政したとするが,史実かどうか疑わしい。6世紀の初め,市辺押磐王の女(妹ともいう)飯豊青(いいとよあお)皇女が,清寧天皇の没後皇位につく人がなかったので,約1年間政治をとったといい,《扶桑略記》はこれを飯豊天皇とする。事実としても短期間の臨時のことで,女帝というほどではない。…
※「飯豊青皇女」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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