武州一揆(読み)ブシュウイッキ

デジタル大辞泉 「武州一揆」の意味・読み・例文・類語

ぶしゅう‐いっき〔ブシウ‐〕【武州一揆】

慶応2年(1866)武蔵国で起こった一揆。6月13日同国秩父郡上名栗村で蜂起、19日に壊滅。「世直し」を掲げた貧農らにより豪農層に対する打ちこわしが行われた。武州世直し一揆

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改訂新版 世界大百科事典 「武州一揆」の意味・わかりやすい解説

武州一揆 (ぶしゅういっき)

1866年(慶応2)6月13日に武蔵国秩父,高麗,多摩3郡の山村地帯の窮民が〈打毀(うちこわし)連中〉を結成して同時蜂起した一揆で,6月19日上州・武州国境沿いの打毀を最後に壊滅する。その間武蔵15郡,上野2郡にわたり,豪農,村役人,忍(おし)藩陣屋など合計450軒余を打ち毀した。参加者は武蔵,上野,下野,相模,常陸の関東5ヵ国に及ぶ窮民約10万人余である。一揆は,横浜貿易の展開に加えて第2次長州征伐などの動乱により,山村,畑作農村で急激に米価が騰貴したため生活苦に陥った窮民が,米穀安売りを要求して在郷商人に迫ったが拒否され,打毀に走ったものである。一揆勢は豪農に対して施金,施米と質物(しちもつ),質地(しつち)の無償返還などを要求し,また村々に対しては人足と飲食の提供を要求し,一揆勢の維持と再生産を図った。そして要求を受諾した豪農については約束の履行を村単位にまかせ,一揆勢は次から次へと村を移動した。要求を拒否し,または施行(せぎよう)の約束不履行の場合は徹底的に打毀を進め,豪農の富を破滅させ貧者と同様な立場にすることとし,これを世均し(よならし),世直しと称した。一揆勢は打毀に際し,米金の窃盗,殺害,放火,婦女を犯すことなどを禁じた綱領を掲げ,また15歳以上60歳までの動員と,打毀道具として農具,工具類の持参,武器の不所持を回状で周知させた。蜂起した一揆勢は6月14日より16日にかけて最も高揚し,各地から浮浪人なども加わり,高潮した雰囲気は解放された祭りのような性格を帯びた。

 拡大した一揆勢に対し,幕藩領主は歩兵や農兵などを結集して鎮圧に向かい,6月16日幕府老中井上河内守正直は陸軍奉行配下歩兵頭並河津駿河守祐邦に歩兵3中隊をつけ,関東取締出役とともに中山道熊谷宿に配置し,中山道筋の鎮圧にあたらせた。さらに武蔵,上野に領地をもつ譜代大名に対し戒厳体制をとらせた。一方,代官江川太郎左衛門が編成した武州農兵は,横浜襲撃をめざして南下した一揆勢を多摩川築地河原で洋式銃をもって迎え撃ち壊滅させた。また入間郡所沢村より江戸方面に向かう一揆勢も,江川支配下の田無村組合農兵により阻止壊滅させられた。川越周辺では松平大和守の藩兵や大砲方により鎮圧された。秩父盆地では世直し回状が決起を呼びかけて激しい蜂起が続き,忍藩陣屋も打ち毀され諸帳面類も焼き払われたので,松平下総守の藩兵は各所で一揆勢の鎮圧に向かった。また上武国境地帯では関東郡代岩鼻役所の木村甲斐守勝教が防衛体制を固め,中山道新町宿で17日に一揆勢を破った。上野では高崎吉井安中,小幡,七日市の各藩が一揆勢を制圧し,19日にはほぼ鎮静した。一揆勢が解体すると直ちに,岩鼻役所は打毀高揚期に各地で成立した一揆勢の世直し宣言を破棄させる一方,豪農層に対して窮民に施米,施金を奨励した。一揆勢を制圧した幕府は一揆の頭取死罪,遠島,中追放などに処し,なかでも最初に蜂起した秩父郡上名栗村紋次郎,豊五郎は,死罪,遠島に処せられた。
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百科事典マイペディア 「武州一揆」の意味・わかりやすい解説

武州一揆【ぶしゅういっき】

幕末期に武蔵(むさし)国で起きた百姓一揆。1866年武蔵国の秩父(ちちぶ)郡・高麗(こま)郡・多摩(たま)郡の山村の百姓が米値など諸物価の高騰に困窮し,在郷商人らに米穀の安値売りを求めたが拒絶され,〈打毀(うちこわし)連中〉を結成して同時に蜂起したもの。これは武蔵国の15郡,上野(こうずけ)国の2郡にもわたり,下野(しもつけ)・相模(相模)・常陸(ひたち)の3ヵ国を含めて10万人余の参加があったとされる。一揆勢は豪農に対して施金(ほどこしきん)・施米や質物(しちもの)・質地の無償返還を要求,これを受諾すればその履行を村ごとに任せ,拒否したり不履行の場合は打毀しにして,世均(よなら)し・世直しと称して村々を移動していった。高騰の原因を横浜貿易として横浜に向かう一揆勢もあった。ただし打毀しに際して金・米の窃盗,殺害,放火などを禁じた綱領を掲げていた。こうして豪農や村方役人宅など450軒余を打毀しにしている。幕府は歩兵・農兵や,武蔵・上野両国の諸大名に鎮圧を命じ,蜂起から7日間で収束させ,一揆の首謀者を死罪・遠島などに処したが,豪農層に対して施金・施米を奨励している。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武州一揆」の意味・わかりやすい解説

武州一揆
ぶしゅういっき

武蔵(むさし)国に基盤をもつ国人(こくじん)一揆。南北朝時代以降には白旗(しらはた)一揆、平(へい)一揆などの一揆が活躍したが、これらが15世紀中葉に守護山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏のもとで上州一揆とともに武州一揆として再編され、享徳(きょうとく)の乱(1454~78)で山内上杉氏に属してその活躍がみられるが、その系譜や構成員などについては不明である。また多摩郡船木田荘(しょう)(東京都八王子市、日野市)近辺には南一揆という一揆が15世紀に存在するが、武州一揆との関係は不明。

 幕末武蔵北部に起こった世直し一揆については別項「武州世直し一揆」参照。

[峰岸純夫]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「武州一揆」の解説

武州一揆
ぶしゅういっき

1866年(慶応2)武蔵国一帯に発生した世直し一揆。開港以降の諸物価高騰,第2次長州戦争の兵糧米徴収などによって生じた米価高騰に苦しむ貧農・貧民らが,世直しを標榜して米価値下げ,施米・施金要求,質地・質物返還を求め,米屋・質屋・生糸仲買人(浜商人)らの富商・豪農を打ちこわした。打ちこわし軒数は500軒以上におよぶが,とくに横浜貿易にたずさわる浜商人は物価騰貴の元凶として徹底的に打ちこわされた。秩父郡の百姓らによる高麗郡飯能町打ちこわしを発端とする一揆は連鎖的に広がり,武蔵国15郡と上野国2郡を席巻したが,幕府・諸藩の軍隊や農兵隊らによって武力鎮圧された。同年に発生した陸奥国の信達(しんたつ)一揆や江戸・大坂の打ちこわしなどとともに,幕藩領主に深刻な打撃を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内の武州一揆の言及

【農兵】より

…このほか,幕末の内憂外患により,とくに世直し一揆の激発を深刻に憂慮する豪農,村役人によって組織された農兵もある。たとえば66年(慶応2)の武州一揆にたいして,こうした豪農の組織した農兵が積極的に鎮圧を行っており,農兵の性格の一面を示している。農兵隊のほとんどは平時には農業に従事する文字どおりの農兵であり,恒常的な隊をなしていないが,有志者を募り強固な隊組織を形成した,有志の草莽(そうもう)諸隊も見られる。…

※「武州一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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