改訂新版 世界大百科事典 「〓如」の意味・わかりやすい解説
如 (れんにょ)
生没年:1415-99(応永22-明応8)
室町時代の僧。本願寺第8世。諱(いみな)は兼寿,号を信証院と称す。京都東山山麓の大谷本願寺で生まれる。父は本願寺第7世存如,母は存如の母(一説に存如)に給仕した女性と伝える。蓮如6歳の1420年(応永27),生母は本願寺を退出し,生国備後鞆ノ浦(一説に豊後望都)に帰ったという。蓮如幼年期の本願寺は,仏光寺の隆盛に比し,不振の極にあった。15歳で一宗再興の志をおこし,31年(永享3)青蓮院で得度し,中納言広橋兼郷の猶子となる。その後,本願寺と姻戚関係にあった興福寺大乗院経覚について修学した。父存如を補佐し門末へ下付するため,多くの聖教を書写した。現存最古のものは,永享6年(1434)5月12日の識語をもつ《浄土文類聚鈔》で,現在新潟県の光源寺に蔵される。47年(文安4),存如とともに関東を訪ね,49年(宝徳1)同じく存如と北国を巡錫(じゆんしやく),68年(応仁2)には北国,東国の親鸞遺跡を訪ねた。
1457年(長禄1)存如が没し,同年本願寺の留主職に就いた。継職にあたり異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが,叔父宣祐(如乗)の主張により蓮如の就職が決定した。蓮如就職後の本願寺は多難で,とくに比叡山延暦寺の弾圧が激しかった。65年(寛正6)1月9日,延暦寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却し,同年3月21日,再度これを破却した。蓮如は祖像を奉じて近江の金森,堅田,大津を転々とし,祖像を大津南別所に置く。71年(文明3)4月上旬,京都を経て,越前吉崎に赴き,7月下旬同所に坊舎を建てた。これを吉崎御坊という。吉崎での布教は殷賑(いんしん)をきわめ,信者は奥羽からも集まった。その威勢が守護富樫政親の危惧するところとなり,軋轢(あつれき)を生じた。75年8月21日,蓮如は吉崎を退去し,小浜,丹波,摂津を経て河内出口に居を占めた。78年山科野村に坊舎の造営をはじめ,82年完成した。いわゆる山科本願寺である。88年(長享2)5月,加賀の一向一揆がおこり,6月守護富樫政親を滅ぼす。蓮如は成敗の御書を送って一揆をいさめた。89年(延徳1),蓮如は寺務を子の実如にゆずり,山科南殿に隠居する。96年(明応5)大坂石山の地に石山御坊を建立し,妻子をともない移住した。はじめ同地を終焉の地と決めたが,99年2月20日急きょ山科に帰り,3月25日没した。生涯に子どもは13男14女の多きにおよんだ。
蓮如の布教は,教義を仮名でわかりやすく説いた《御文(おふみ)(御文章(ごぶんしよう))》(《蓮如仮名法語》)を中心に行われた。これは消息として各地の門徒に書き送られたものであるが,のち蓮如の孫円如がこれを収集してまとめた。1473年(文明5)3月,吉崎で親鸞の《正信偈(しようしんげ)》《三帖和讃》を開版し,布教の用に供した。また生前多くの六字名号を書いて門徒に与え,信仰の寄辺とした。著述にはほかに《正信偈証釈》《正信偈大意》などがある。
執筆者:北西 弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報