改訂新版 世界大百科事典 「チンギスハーン」の意味・わかりやすい解説
チンギス・ハーン (成吉思汗
)
Chinggis Khan
生没年:1167-1227
モンゴル帝国の建設者。在位1206-27年。元の太祖。名はテムジンTemüjin(鉄木真),モンゴル部の名門氏族キャト氏の出身。オノン川上流の地(モンゴル国北東部ダダル・ソム)に生まれた。生年については,諸説ある。1162年説,1154年説,1155年説などである。父イエスゲイYesügeiは,金朝の支援を受けてモンゴル部の弱体化を図るタタール部との戦闘に活躍し,第3代部族長クトトラの没後には次の部族長の有力候補者になっていた。その父がテムジンの少年時代にタタール部の者に毒殺されると,配下のタイチウト氏は他の諸氏族を率いて離反し,テムジンの殺害を企てた。さらにメルキト部の攻撃を受け,妻ボルテを奪われるなど苦難が続いた。だが父のアンダ(盟友)であったケレイト部長オン・ハンと自分の盟友ジャジラト氏のジャムハの援助を得て妻を奪還したころから状況が変化した。約1年後,ジャムハの謎めいた言葉によって,彼はジャムハと決別したが,その際ジャムハのもとから近縁,遠縁の多くの個人や氏族が参集し,しかもそれらのとくに近縁の者たちによってハンに推戴されたのである。彼はたぶん,初代部長カブルの子孫を核とするモンゴル部の限られた範囲の指導者になったにすぎない。
父と同様部族長をめざした彼は,これに満足せず,力の増強に努めた。そのため忠誠をもって彼に仕える有能なノクル(従者)を多く集めて自己の手足とし(彼ほどノクルに忠義を求めた指導者はほかにいなかった),かつオン・ハンの力を利用した。そして1200,01年には,モンゴル部内の最大の対抗勢力であるタイチウト氏とジャムハに大きな打撃を与え,ついに実質的なモンゴル部長となった。こののち彼は戦利品の勝手な処分を禁ずるなど自軍の規律と彼の命令権を強化した。こうして強化された軍を率いて,02年ついに宿敵タタール部を討滅した。翌年同盟者オン・ハンと敵対し,ケレイト部を苦戦の末滅ぼしたが,この敵対の裏には同部の力を借りてテムジンを倒そうとしたジャムハらの陰謀があったとされる。
今やモンゴル高原中部以東を制圧した破竹の勢いのテムジンは,引き続きオングート部を親附させ,04年ナイマン部とメルキト部を粉砕し,翌年ジャムハを処刑し,ついにモンゴル高原の遊牧民を統一した。06年彼はオノン河畔にクリルタイを開き,チンギス・ハーンという称号をとり,モンゴル帝国を建てた。彼の即位はシャーマンの神託によるとされ,チンギスとはシャマニズムで天の子とされる一霊体の名に由来すると解釈されている。以上から彼の地位が宗教的に権威づけられていたことが知られる。だが,のちに帝国最高のシャーマンとして増長著しかったココチュを処刑したとおり,彼は宗教的勢力が自己の権力を侵すことは認めなかった。彼は,みずからの体験もあって,旧来の氏族制を国制の基礎としてそのまま利用する意志をもたなかった。彼は別に千戸を多数つくり,鍛えられた忠誠心をもち,功績をあげたノクルを長とし,この千戸制を帝国の基盤とした。そして千戸やその下の百戸,十戸の長の子弟1万人を身辺に集めて親衛隊を組織した。彼はまた,帝国の基本法典であるイエケ・ジャサク(大法令)を制定した。以上の,彼の優れた組織力によって整えられた制度によって,ハーンの国家統制力は強固となった。
その後,彼は,モンゴル高原外に進出し,森林諸部族を平定し,西夏に侵入し(1205,07-08,09-10),ウイグル国を招撫し,さらに1211年以後モンゴル族の仇敵金朝を征討した。また,彼の平和的な使節を殺略したホラズム国に遠征し,部下をインドに侵入させ,南ロシアを席巻させ(1219-25),帝国領土は急激に拡大した。彼の軍の殺戮と略奪は各地を恐怖におとしいれた。この殺略の原因は,単に復讐とか異文化の価値の不認識などにだけあるのではなく,彼の格言から推測されているように,彼やモンゴル人が狩猟と戦争を同一視し,狩猟で多くの獲物を殺すことと戦争で多くの人を殺すことを同じものとみなしていたことにもあるであろう。彼は中央アジア遠征から帰還したのち,この遠征への援助を拒絶した西夏に懲罰軍を出してこれを討滅したが,このときの落馬による負傷がもとで中国六盤山南方の地で死んだ(死因には諸説がある)。彼の遺骸はケルレン川のたぶん上流域に埋葬されたが,その墓所の所在地は不明である。
→モンゴル帝国
執筆者:吉田 順一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報