日本大百科全書(ニッポニカ) 「クプカ」の意味・わかりやすい解説
クプカ
くぷか
František Kupka
(1871―1957)
チェコの画家。東ボヘミアの小都市オポチノに生まれる。8歳のころに重症の天然痘を患(わずら)ったのをきっかけに霊や精神世界へ強い関心を抱くようになり、それは熱烈な美術への志向へと転化していった。靴職人や看板書きの経験を経て1889年にプラハ美術アカデミーに入学し、歴史画、宗教画を学ぶが、強い愛国心を抱く一方で、異国への憧憬(しょうけい)と霊的なものへの傾倒をますます強める。1892年にはウィーンに拠点を移して同地の美術アカデミーに入学、ドイツの画家ディーフェンバッハKarl Wilhelm Diefenbach(1851―1913)と出会い、そのオカルティズムに圧倒的な影響を受けながら寓意(ぐうい)的・象徴的な絵画を多く制作するようになる。1896年、ディーフェンバッハと不和になりパリに移住して自然をモチーフとした絵画に着手し、それまでの神秘主義的な作風からの離脱を図ろうとする。当時、親しく交流したアーティストの一人にはアルフォンス・ミュシャがいた。貧困やことばの壁に苦しみながらも少しずつ画家として実績を積んでいくが、初めて評価らしい評価を獲得したのは、1912年のサロン・ドートンヌにおいてであった。この展覧会に出品された2枚の絵画は、クプカが初めて発表した純粋な抽象画でありながら、19世紀末のプラハとウィーンで学んだ象徴主義絵画の影響が強くにじみ出ており、詩人ギヨーム・アポリネールはそこに一種の音楽性をみいだして高く評価した。この色彩に強くこだわった独自の作風の確立には、アポリネールをはじめとするピュトー派(当時のアポリネールの朋友(ほうゆう)マルセル・デュシャン、ジャック・ビヨンのアトリエに集(つど)った同年代のアーティスト、批評家、詩人たちのグループ)らとの親交も一役買っていたといえる。
第一次世界大戦に従軍、復員した後はチェコ(当時、チェコスロバキア)で母校の正教授のポストを得つつ、アーティストとしての拠点をパリに置いたままで、第二次世界大戦後まで長期にわたって活躍した。パリでの初個展は1921年に開催。1947年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)がデュシャンの働きかけでコレクションを購入したことによって、その作品はアメリカでも知られ、新たな評価を得ることとなった。
ほぼ同時期に宗教画や神秘主義的な作品から純粋な抽象画へと移行した経歴が共通することから、クプカはしばしばカンディンスキーと対比され、作風にも多くの類似点が指摘されてきた。また同様に、ロベール・ドローネー、ピート・モンドリアン、エリ・リシツキーらとの親近性が取りざたされることもあるが、若いころに傾倒したオカルティズムの影響と自らを色彩の交響曲作曲家になぞらえた色彩へのこだわりは、クプカをほかのだれとも異なった抽象画家にしている。生前、チェコとフランス以外ではほとんど無名だったこともあり明らかにされていない側面も多いが、20世紀美術史上屈指の抽象画家である。
[暮沢剛巳]
『「クプカ」(カタログ。1994・東京新聞)』