西欧中世の三大騎士団の一つ。正式名は〈エルサレム・テンプル騎士修道会〉。シャンパーニュ人ユーグHuguesら8人のフランス騎士により1118年,聖地巡礼者の保護を目的としソロモン神殿跡を本拠として創設された。十字軍時代の初期に,騎士道精神と修道制の理念の統一が西欧社会の理想的人間像として追求され,クレルボー修道院長ベルナールの後援によりトロア教会会議(1128)で新形式の騎士修道会として認可された。騎士以上の階層出身の会員は修道士・司祭と騎士の聖俗両身分を兼ね,シトー会会則に準ずる戒律に従い,総会長以下の幹部役職の管理下で中近東各地の十字軍国家の常備軍的任務についた。西欧諸国の君主・諸侯・市民などから絶大な信頼を得て数千ヵ所にわたる騎士団領の寄進を受け,農牧業の経営,定期市の東西貿易活動,金融業などを手広く行い巨大な富を築いた。白衣の修道服に緋色の十字章をつけ甲冑で武装し,〈天主の御名に栄光を〉という標語のもとに十字軍(第2回以後)の全期間を通じて〈キリストの騎士〉として戦闘に従事した。1291年聖地失陥後キプロス島に撤退したが十字軍戦士としての存在理由を見失い,1307年には莫大な財産の没収をねらうフランス王フィリップ4世により異端訴訟の被告とされ,1312年,教皇クレメンス5世の行政処分により修道会は廃絶となった。全財産はヨハネ騎士団に移管され,最後の総会長は火刑に処された。
執筆者:橋口 倫介
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十字軍時代の三大宗教騎士団の一つ。目的は聖地巡礼の保護と聖墓防衛で,1119年設立された。28年の教皇公認後,72年免属修道会となった。団員は修道誓願を立て,赤十字つきの白衣を着る。教皇庁,諸侯の財産保管者の役割を果たし,そのために全ヨーロッパに支部を設けた。フランス王フィリップ4世はその富に着目し,偶像崇拝その他の罪をきせて,国内の団員を処刑し,財産を没収した。その結果,1312年教皇クレメンス5世は同騎士団を解散した。
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…実際にここでの訓戒がどの程度浸透したかは大いに疑問だが,少なくとも当初は〈神の戦士〉をもって自任し実践に努力する騎士が出現したのも事実である。例えば,テンプル騎士団は1120年ころエルサレムの近くで結成され,野営地を設けて巡礼の保護に当たり,サン・ベルナールの指導下に清貧,貞潔,服従を誓った。 12世紀,大小の君侯宮廷の庇護下に成立した抒情詩や物語は,しばしば理想の騎士像を描き出して騎士道の発達に影響を及ぼした。…
…即位当初,フランドルとギュイエンヌに王権を浸透させようとして,イギリス王エドワード1世と争ったが(1294‐98),初期の目的は達成できなかった。この戦争による多額の財政出費に対処するため,貨幣改鋳,聖職者課税,テンプル騎士団の解散などが行われた。聖職者に対する課税は教皇ボニファティウス8世との間に激烈な衝突を引き起こし,王はフランス身分制議会の始まりとされる三部会を召集(1302),聖俗諸侯や都市の支持を得て教皇に対抗,顧問官ノガレは兵を率いてアルプスを越え,教皇をアナーニの別荘に急襲した。…
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