アメリカのジャズ・ピアニスト。ニューヨーク近郊ロング・アイランドに、両親ともにアメリカ先住民の血を引くアフリカ系アメリカ人として生まれ、知識階級に属する母親に育てられる。5歳でピアノ・レッスンを始め、続いてパーカッションも練習、成長してからはニューヨーク・カレッジ・オブ・ミュージックで音楽の専門教育を受ける。在学中にアルト・サックス奏者ジョニー・ホッジスJohnny Hodges(1907―1970)、トランペット奏者ホット・リップス・ペイジHot Lips Page(1908―1954)といったスウィング派ミュージシャンのサイドマンを務める。1952年にボストンに移り、ニュー・イングランド音楽院に入学しピアノを専攻する。そこでシェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、バルトーク、ストラビンスキーといった現代音楽を学ぶ。在院中の1955年にトランジション・レーベルに初リーダー・アルバム『ジャズ・アドヴァンス』を吹き込むが、これはいわゆる「フリー・ジャズ」のアルバムとしては、1958年に録音されたオーネット・コールマンの『サムシング・エルス』に2年以上先んじている。
1956年同音楽院を卒業すると、ソプラノ・サックス奏者スティーブ・レイシーSteve Lacy(1934―2004)とコンボを組み、1957年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演。このときの模様はアルバム『ニューポート・ジャズ・フェスティバル'57』に収録されている。これ以後1960年代初めまでわずかなレコーディングを除いて自宅に引きこもり、ピアノの練習に明け暮れる。1962年アルト・サックス奏者ジミー・ライオンズJimmy Lyons(1933―1986)、ドラム奏者サニー・マレーSunny Murray(1937―2017)とヨーロッパに渡り、ストックホルムでテナー・サックス奏者アルバート・アイラーと共演する。
1964年トランペット奏者ビル・ディクソンBill Dixon(1925―2010)の発起による4日間にわたる自主連続演奏イベント「ジャズの10月革命」に参加。これはジャズを単なる酒場の芸能ではなく、文化的な創造行為として捉(とら)えようとするミュージシャンによる活動で、この運動からジャズ・ミュージシャンの組合「ジャズ・コンポーザーズ・ギルド」が生まれるが組織は短命に終わる。
1966年ブルーノート・レーベルと契約、代表作『コンキスタドール』を発表。1968年「ジャズ・コンポーザーズ・ギルド」に参加していたトランペッター、コンポーザーのマイケル・マントラーMichael Mantler(1943― )と、ピアニスト、コンポーザーのカーラ・ブレイによる緩(ゆる)やかな組織体「ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション」(J. C. O. A.)に参加し、テーラーがフィーチャーされたフリー・ジャズの大作『ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ』を録音。1969年ヨーロッパ・ツアーを行い、折からのフリー・ジャズ・ムーブメントのなかで大成功を収める。
1973年(昭和48)には来日し、公演でバレエのような身体所作をみせる。このとき日本のトリオ・レコードにソロ・アルバム『ソロ』を録音。1980年代初頭はビッグ・バンドを組織し、クラブ出演する。1988年、ベルリンで行われた「インプロバイズド・ミュージック2/'88」のコンサートを収めた11枚組ライブ・アルバム『イン・イースト・ベルリン』In East Berlinを出す。その内容はヨーロッパ・フリージャズの代表的ミュージシャンたちとのデュオ演奏、ソロ演奏、そしてオーケストラ作品と多岐にわたったものとなっている。
テーラーの音楽は圧倒的なテクニックと音塊を叩きつけるような過激な演奏で知られるが、それは感情をむきだしにしたものではなく、すべてが厳密に制御されている。彼は自分の音楽を黒人文化の伝統のなかで捉え、同じピアニスト、コンポーザーであるデューク・エリントン、セロニアス・モンクに敬意を払っているが、同時に現代音楽や舞踏といった分野への関心も高い。黒人音楽としてのジャズを創造的コンテンポラリー・ミュージックとして捉え直そうとする彼の姿勢は一貫している。
[後藤雅洋 2018年4月18日]
カナダの実験物理学者。メディシン・ハット生まれ。高校までは数学好きの目だたない青年であった。エドモントンのアルバータ大学で数学や物理学を学ぶうちに実験物理に開眼した。1950年に大学を卒業。アルバータ大学大学院では、素粒子の軌跡を調べるウィルソンの霧箱を使い、原子核が壊れるときに二つの電子を同時に出す「二重β(ベータ)崩壊」を研究した。1952年に修士。結婚の後、アメリカのスタンフォード大学で研究を続行。実験を開始したばかりの線形加速器をもつ高エネルギー物理学センターでの研究活動に参加した。1958年に渡仏。1961年にアメリカに戻ってカリフォルニア大学のローレンスバークリー研究所のスタッフ。1962年にスタンフォード大学で博士。1962~1968年スタンフォード線形加速器研究所(SLAC:Stanford Linear Accelerator Center)のスタッフ。1968年にスタンフォード大学に移り、1970年から教授となる。
1960年代なかばから10年ほどは、カリフォルニア工科大学(CIT)やマサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者たちと共同で、電子散乱についてのさまざまな実験装置の開発や測定を進め、この時期の研究がノーベル賞の受賞につながった。その後も、ヨーロッパ原子核研究機構(CERN(セルン))やドイツ電子シンクロトロン研究所(DESY(デージー):Deutsches Elektronen-Synchrotron)などの国際研究機関で研究を進めた。1990年に、J・フリードマン、H・ケンドルとノーベル物理学賞を共同受賞。陽子や中性子が「クォーク」とよばれるより小さな粒子で構成されていることを実験で確認した業績による。
[馬場錬成 2018年3月19日]
アメリカの天文学者。フィラデルフィア生まれ。ハバーフォード大学を1963年に卒業。ハーバード大学での大学院時代には、宇宙からの電波を観測して天体現象を解明する「電波天文学」の研究を開始し、1968年に博士号を取得した。翌年からマサチューセッツ大学で教職を得て、後にプリンストン大学に移籍した。
マサチューセッツ大時代の1974年、周期的に電波をだすパルサーという星の仲間のなかに、中性子星とペアになって互いの周りを回りあう「連星パルサー」という種類があることを、指導していた大学院生のR・ハルスとともに初めて確認。この連星パルサーが回転する周期を詳細に観測し、アインシュタインの一般相対性理論で予言された「重力波」の存在も明らかにした。「重力波」は2015年に観測されたが、それ以前に、パルサーが回転して重力波を放出しながらエネルギーを失い、回転周期が短くなっていくことをとらえて、重力波の存在を間接的に証明した。連星パルサーの発見と、重力研究に新しい領域を開拓したことが評価され、1993年にノーベル物理学賞をハルスと共同受賞した。
[馬場錬成]
アメリカの舞踊家、振付家。ピッツバーグに生まれる。大学で絵画を学んだのち、ジュリアード音楽院舞踊科に進み、D・ハンフリー、M・グレアム、A・チューダー、J・リモンらに師事した。1953年にマース・カニンガム舞踊団創立メンバーとなり、J・ケージ、R・ラウシェンバーグらと活動する。1954年に自らの舞踊団を創立するが、同時にマーサ・グレアム舞踊団のソリストとしても活躍した。代表作となった『三つの碑文』(1956)には、軽いユーモアがあり、速い動きのギャグ・アクションなど、その独自な作風をうかがうことができる。そのほかの代表作には、時報を伴奏にした作品『エピック』(1957)、アスレティックな動きを新古典主義的に構成した『オレオール』(1962)、歩く、走るなどの動きを使った『エスプラナード』(1975)、『春の祭典』(1980)の新振付けなどがある。ダンス&ダンサーズ賞、カペツィオ賞、フランス政府文化騎士賞、ダンス・マガジン賞、ケネディ・センター名誉賞など受賞多数。来日公演も行っている。著書に『プライベート・ドメイン』(1987)がある。
[國吉和子]
『Private Domain(1987, Alfred A. Knopf, New York)』
アメリカの能率技師。科学的管理法の創始者で、アメリカ経営学の源流とされる。フィラデルフィアに生まれ、初め法律家を志望したが、眼疾のため断念し、機械工場の徒弟、ミッドベール製鋼所の機械工・職長・技師長、ベスレヘム製鋼所技師を経て、コンサルタントになった。工場勤務時代に労働者の怠業を目撃して科学を基礎とした作業管理の必要を痛感し、テーラー・システムとよばれる新しい手法を開発した。それは、(1)労働者の標準作業量(タスク=課業)を科学的に決定するための時間研究、(2)課業の達成を刺激するための差別的出来高給、(3)計画部門と現場監督部門を専門化した機能別組織、を軸とした管理システムであった。そのシステムは、鉄道会社の合理化を契機に広く採用されるようになり、科学的管理法とよばれるようになるが、労働組合の反対は一貫して強かった。しかし、作業管理に科学的思考を導入し、その後の発展の道を開いた点で、彼の業績は不滅である。
[森本三男]
『F・W・テーラー著、上野陽一訳・編『科学的管理法』(1957・技報堂出版/新版・1969・産業能率短期大学出版部)』▽『フレデリック・W・テイラー著、有賀裕子訳『新訳科学的管理法――マネジメントの原点』(2009・ダイヤモンド社)』
イギリスの数学者。ニュートンの直接の後継者にあたる。彼の名を冠するテーラー級数
は、1715年に、当時王立協会の書記であった彼の著書『増分法』Methodus incrementorumに初めて発表された。これを微分方程式を解くのに活用し、また弦の振動に関する先駆的な研究をしている。
実はテーラーの本にあるのは、x=0に相当し、今日、マクローリンの定理とよばれているものである。テーラー級数という名は、オイラーの命名(1755)であり、その重要性が認識されたのも、それ以降であった。テーラーは若死にし、以後のイギリスの数学界が不便なニュートンの記法を墨守したため、ヨーロッパ大陸に大きな後れをとったといわれている。
[一松 信]
アメリカの女優。ロンドン生まれ。3歳からバレエを習い、7歳のときカリフォルニアに移住した。1943年、名犬ラッシー主演の『家路』に出演して子役のスタートを切り、MGMの箱入り娘として『緑園の天使』(1944)、『若草物語』(1949)などに出演、1950年代には子役を抜け出し、『花嫁の父』(1950)、『可愛(かわい)い配当』(1951)、『陽(ひ)のあたる場所』(1951)、『雨の朝巴里(パリ)に死す』(1954)、『ジャイアンツ』(1956)と作品にも恵まれ、美人女優ナンバーワンとして不動の地位を築いた。『バタフィールド8』(1960)と『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966)でアカデミー主演女優賞を獲得している。結婚歴も、イギリス俳優マイケル・ワイルディング、興行師マイケル・トッド、歌手エディ・フィッシャー、そして俳優リチャード・バートンなど華やかで、第二次世界大戦後のハリウッドを象徴する大スターといえよう。1980年からは舞台出演に意欲をみせ、ブロードウェーで『子狐(こぎつね)たち』(1981)などに主演した。
[畑 暉男]
『筈見有弘編著『エリザベス・テーラー 20世紀のクレオパトラ』(1987・芳賀書店)』
アメリカの軍人。陸軍士官学校などに学び、第二次世界大戦中は第101空挺旅団長としてノルマンディー上陸作戦に参加。1945年陸軍士官学校校長、1955~1959年陸軍参謀総長。アイゼンハワー政権の大量報復論を批判して柔軟対応戦略を提唱したことから、1961年ケネディ政権の軍事顧問に就任。その後、統合参謀本部議長(1962~1964)、駐南ベトナム大使(1964~1965)を経て、1965~1969年ジョンソン大統領特別顧問。1961年11月に米軍事顧問団の増強と米地上軍の派遣を勧告するなど、柔軟対応戦略に基づくベトナム政策を推進するうえで大きな役割を果たした。
[藤本 博]
イギリスのロンドンに生まれ、1893年にオーストラリアに移住した地理学者。シドニー大学で工学と地質学を学び、1907年卒業と同時に同大学講師、1920年に教授となる。その間、スコットの南極探検に参加し、1916年に南極の地質研究でシドニー大学から学位を得た。1928年にアメリカのシカゴ大学教授に転じ、1935年からはカナダのトロント大学教授として1951年の退官まで務めた。『オーストラリアの地理』(1914)をはじめ、オーストラリアの地理に関する多くの論文がある。また、南極の氷河地形や、人種の分布・移動と氷期以降の気候変化との関係に独創的な業績を残した。自然・人文にわたり学際的研究に成果をあげたことも業績の一つにあげられる。また、古典教育、オペラ、未来芸術、競馬など広範囲の趣味をもっていた。
[市川正巳]
アメリカ合衆国第12代大統領(在任1849~50)。ケンタッキーの奴隷制農場主の家に生まれ、1808年から40年間軍務についた。メキシコ戦争(1846~48)で時の民主党政府、軍首脳と作戦をめぐって対立したが、カリフォルニアを侵略し、制圧に成功した。48年ホイッグ党から大統領に当選したのち、カリフォルニアにおける奴隷制導入の是非をめぐる南北対立に苦慮し、その解決をみずに50年6月9日に死んだ。彼は、生涯を軍務に服した初の職業軍人出身の大統領であった。
[安武秀岳]
イギリスの聖職者、散文家。理髪師の三男に生まれ、ケンブリッジ大学を出てからオックスフォード大学の特別研究員となる。その後、大主教ロードの家庭およびチャールズ1世の宮廷付牧師となり、説教家として名声を得た。ピューリタン革命の内乱後ウェールズに隠棲(いんせい)し、『聖なる生』(1650)、『聖なる死』(1651)、『黄金の森』(1655)などを書き、王政復古後アイルランドで主教になった。生き生きとした比喩(ひゆ)、律動的で華麗な文体で知られる。
[船戸英夫]
アメリカ植民地時代の代表的詩人。イギリス生まれ。1668年新大陸に渡り、ハーバード大学卒業後、辺境の地マサチューセッツ州ウェストフィールドで牧師となり、医業を営むかたわらイギリス形而上(けいじじょう)詩の詩風を継承する多くの詩を書いた。だが瞑想(めいそう)詩を中心とする彼の詩稿は長くうずもれたままで、1937年ようやく日の目をみ、改めて高い評価を受けた。
[酒本雅之]
H.フェイヨルとともに管理論の基礎を築いた人物で,〈科学的管理の父〉と呼ばれるアメリカの機械技師。フィラデルフィアに生まれ,18歳で地元のポンプ製造所の見習機械工となり,後にミッドベール製鉄所の技師長になった。これらの経験にもとづいて彼は,作業場の能率化を図るためのいくつかの手法を編み出した。その手法は〈テーラー・システム〉と呼ばれる。内容は,労働者の一定時間内における標準仕事量を決める時間研究・動作研究,差別出来高給制度,計画部門の設置,指図票の考案,機能別職長制度,などを包摂している。彼はこのシステムを採用することによって労働者の組織的怠業を防ごうとしたのである。そして1911年の鉄道運賃値上げ問題のなかで,彼のシステムが〈科学的管理〉と称賛を受け大きな反響を巻きおこした。しかしその後彼のシステムに対する労使,とくに労働者の反発が高まって,しだいに彼の活動も自説の弁護に明け暮れるようになった。
彼はその内容を四つの原則にまとめている。すなわち,(1)工員の古い体験的知識に代わる科学の育成,(2)工員の科学的選考と漸進的育成,(3)科学と科学的に選考・訓練された工員との結合,(4)現場の仕事についての工員側と経営者側の間でのほぼ平等な分担である。彼の考え方は,その後F.B.ギルブレスらによっていっそう精緻(せいち)化された。労働科学,人間工学,経営工学,インダストリアル・エンジニアリングなどの研究の道を開き,工場レベルの管理の科学化の原点としての地位を保っている。
→科学的管理法
執筆者:辻村 宏和
イギリス生れの地理学者。F.ラッツェルの地理思想を発展させ,歴史や人類の移動性を考慮しながら,地理的条件を重視した研究業績,地帯層序論や雨温図(ハイサーグラフ),地平和学geopacificsなどの提唱で知られる。シドニー大学やケンブリッジ大学で地質学や工学などを学び,氷河学に関心を抱き,スコットの南極大陸探検に参加。1916年にシドニー大学より南極大陸の地質に関する研究で博士号を取得。20-28年シドニー大学最初の地理学講座を担当したがオーストラリアの人口,入植問題で政治家と激しく対立し,28年オーストラリアを去り,シカゴ大学地理学講座を担当,45年にはトロント大学に移り70歳で退官。40冊以上の著書,150点をこえる論文等を残した。代表作には,《環境と人種》(1927。邦訳あり),《環境と国民》(1936),《都市地理学》(1949),《われらの進化する文明,地平和学序説》(1946)がある。
執筆者:西川 治
アメリカの黒人ジャズ・ピアニスト。ニューヨークに生まれ,ニューヨーク・カレッジ・オブ・ミュージックを経たのち,ボストンのニューイングランド音楽院でピアノ,編曲,和声を学び,近代音楽を専攻した。卒業後ジャズを演奏する機会が多くなり,56年秋デトロイトでトリオを結成。バルトーク的なジャズ・ピアノを弾き,ジャズ界を驚かせた。セシル・テーラー自身はデューク・エリントンを慕い,ブルースと黒人の伝統に立脚して音楽をつくっていると信じていたが,50年代には伝統から外れたジャズマンとみなされていた。60~70年代のフリー・ジャズ時代に入ると,フリー・ジャズのパイオニアとして特にヨーロッパから人気を得た。日本では初期の山下洋輔(1942- )に影響を与えた。代表作に《カフェ・モンマルトルのセシル・テーラー》(フォンタナ),《ユニット・ストラクチャーズ》(ブルーノート)などがある。
執筆者:油井 正一
イギリスのプロテスタント宣教師。中国名は戴雅各(徳生)。ヨークシャーのバーンズリーに生まれ,佈道会Chinese Evangelization Societyによって1854年(咸豊4)上海に派遣された。まもなく会を離れ独立宣教師として主として寧波(ニンポー)を中心に活動したが,健康を害して60年に帰国,65年に中国におけるプロテスタント伝道の危機と内陸伝道の必要を訴える書物を刊行した。この反響は大きく,力を得た彼は内地会China Inland Missionを設立し,66年に中国へもどり,精力的に内地伝道を指導した。1858年の天津条約では宣教師に内地伝道は許されていたが内地居住権は認められていなかった。しかし彼は11ヵ所に教会を設け既成事実を作ろうとした。この結果,68年の揚州事件などのキリスト教排斥運動(仇教案=教案)を誘発した。
執筆者:春名 徹
イギリスのプラトン学者。近代のプラトン主義者は数えきれないが,彼だけが特に〈プラトニスト〉と呼ばれているほど,一生をプラトンの研究,翻訳,注釈,祖述に打ちこんだ。貧しい家庭に生まれ,正規の教育を受けなかったが,銀行員として暮しを立てながら独学でプラトンを学び,キリスト教以前の密儀文明の解明と復興を志した。生前,学界からは完全に孤立し,無視されていたが,少数の熱心な後援者を得て,プラトン哲学の背後にある霊的伝統そのものの鼓舞と発揚を行った。この意味で,彼は〈プラトン主義者〉というより〈プラトン教徒〉と呼ばれる方がふさわしい。ロマン派の詩人,W.ブレーク,コールリジ,P.B.シェリーはその霊感を受けた信徒であり,エマソンやW.B.イェーツも彼から圧倒的な影響を受けている。彼の業績は今でも欧米の秘教結社の中で,きわめて高く評価されている。
執筆者:大沼 忠弘
アメリカの舞踊家,振付家。オレゴン州生れ。1953年,〈浮浪者バレエ〉で最初の振付を行い,54年自分の舞踊団を創設したが,55年から61年までM.グラーム舞踊団のソロイストも兼ねた。彼の踊りは絶えず変貌し,初期は因襲打破の前衛で,率直,純粋なアンチ・ダンスともいうべき作風だったが,のちに筋のない新古典主義的な作品もつくった。その後,しだいにユーモアを織り交ぜた想像力豊かなものとなり,人間関係,社会のたてまえ,偽善を風刺した。また,その舞踊は性的できわめて退廃的に見えるときもある。《三つの墓碑銘》(1956),《オーリオール》(1962。ヘンデル曲),《エスプラナード》(1975。バッハ曲)など作品は70を超える。
執筆者:木村 英二
アメリカ合衆国の第12代大統領。在職1849-50年。ケンタッキーの奴隷制農場主の家に育ち,1808年から40年間軍務についた。米墨戦争で時の民主党政府・軍首脳と作戦をめぐって対立したが,カリフォルニアを侵略し制圧に成功,国民的英雄となった。48年ホイッグ党から大統領に当選。カリフォルニアにおける奴隷制導入の是非をめぐる南北対立に苦慮し,その解決を見ずに50年に病死した。政治家としての業績にはほとんど見るべきものがないが,職業軍人出身の最初の大統領であった。
執筆者:安武 秀岳
アメリカの詩人。ピューリタンで,1668年イギリスから植民地に移住,ハーバード大学を卒業したのち牧師となった。自作の詩の公刊を禁じたので,死後200年(1937)たって,はじめてイェール大学の図書館で原稿が〈発見〉された。詩風が同時代のイギリス形而上詩に近い点で高い評価を得たが,最近では宗教的〈瞑想詩〉の系列に入れて読まれる傾向が定着している。ピューリタンのなかでは,きわだって優れた詩人だといえよう。
執筆者:秋山 健
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…近代になって洋服が普及すると,洋服の仕立職人が別に生まれ,〈舶来仕立屋〉と呼ばれたこともある。【遠藤 元男】【鈴木 晋一】
[西洋]
一般に男子服を扱うものをテーラーtailor,婦人服を扱うものをドレスメーカーdressmakerという。今日では,服飾デザイナー(フランス語ではクチュリエcouturier)の職種が現れ,デザイン,縫製,販売を行う服飾専門店が普及している。…
…日本の洋服業は,幕末の開港後の横浜で来航西洋人によって開かれた。1867年(慶応3)に,テーラー(男子洋服仕立業)の〈ラダーゲ=オエルケ商会〉(ドイツ),〈ロートムンド商会〉(ドイツ),ドレスメーカー(婦人洋服仕立業)の〈ミセス・ピアソン〉(イギリス)が開業した。これらに入店して技術を習得した増田文吉,関清吉らの洋服屋開業は明治初年であった。…
…中でも,産業の発展が急速であったアメリカにおいては,人手不足,多民族性,激しい企業競争という問題をかかえて,工業経営を効率的に進める必要性が強く認められていた。そのようなときに,F.W.テーラーが自分の勤務していた鉄鋼業に適用した経験をまとめた《工場管理Shop Management》という論文を1903年に発表した。その中で彼は,ストップウォッチを用いて作業を分析し標準時間を設定する方法,標準時間をもとにして能率給を支払う方法,監督者を機能別に配する方法,作業の指示を標準化されたカードを用いて具体的に行う方法などを提唱した。…
…F.W.テーラーを始祖とする工場管理の方法。狭義には,テーラーが提唱した工場労働の時間研究time studyによる標準時間と作業量の設定,職能別職長制度に,ギルブレスFrank Bunker Gilbreth(1868‐1924)が開発した作業方法の研究(動作研究motion study)による作業簡素化・標準化を加えた管理方式をいい,しばしばテーラー・システムと同義に用いられる。…
…こうして,標準作業方法,標準作業時間が定められ,その結果,標準作業量すなわち課業が科学的に設定される。以上のような動作研究,時間研究による課業の科学的設定を最初に試みたのは,F.W.テーラーの科学的管理法である。19世紀末のアメリカの多くの工場では,単純出来高給制度(能率給)が採用され,しかも出来高賃率の切下げがしばしば行われ,労働者はこれに組織的怠業systematic soldieringという手段をもって対抗したため,生産能率の低下が大きな社会問題となった。…
… アメリカ経営学の最初の問題意識は,分業を進行させていた生産活動を体系的に管理するための労務管理と生産管理にかかわっていた。1880年代から20世紀初頭にかけて,これらの問題に直面していた機械技師たちによってさまざまの議論がなされたが,そのうちの代表的なものの一つがF.W.テーラーによる科学的管理法である。これは企業経営の問題に初めて科学的に接近したものとして広く注目を集め,実践面にもまたその後の経営学の発達にも大きな影響をもった。…
…かつての内部請負人は,その蓄積した所得をてこに企業家に上昇転化するものと,熟練労働者,さらに生産管理のベテランとして企業の職長になるものとに分かれていった。後にとりあげるF.W.テーラーが科学的管理の名のもとに工場管理の合理化を行ったのは,ちょうどこのころにあたる。彼は,こうしてできた職長制度を,ありとあらゆることを1人でしなければならないが,結局はなにひとつ十分にできない万能式職長制度であると批判し,今まで1人の職長がやっていた仕事を職能別に分化させ8人の職長に代替させる職能的職長制を提案した。…
…この優れた作業システムの実現が作業研究の課題である。 作業研究は人間行動の歴史とともに存在してきたが,工場生産においてこれを組織的に行ったのがF.W.テーラーである。彼は20世紀初めころ,出来高賃金制度の基準となる作業量が1日の公正な仕事量として客観的に存在するはずだという思想に立って,これを見いだすため,時間研究time studyをはじめとする各種作業への実験科学的研究を行った。…
…こうしたなかで,経営体の人事・労務管理の基本単位として登場してきたのが職務jobという概念である。当時(1900年代初頭)の工場管理は職長に全権が集中し,採用・解雇や賃率の設定が恣意的に行われていたが,その現状を科学的に分析し,大量生産方式による大規模経営の管理に原則を与えたのは,F.W.テーラーである。彼の提唱する科学的管理法の手法は,同時代の能率技師であったF.B.ギルブレスやその後継者によって生産工学的な管理技法に展開されていった。…
…アメリカで19世紀末ころから始められた工場生産の作業能率を高めるための運動をいう。能率増進運動の最初の体系的提唱者は,アメリカのF.W.テーラーである。彼はアメリカ産業界における現場管理のシステム化について実験し研究してきた成果をまとめ,1903年に《職場管理Shop Management》,さらに11年に《科学的管理法の原理The Principles of Scientific Management》を出版した。…
…労働科学では人間の肉体的ないし精神的活動,たとえば特定の機器操作の手指作業やシミュレーターによる情報処理作業,温湿度,照明,振動,騒音等環境条件の人間の心身に及ぼす影響や特定の化学物質の有害性などについて実験室内の実験的研究も重視されるが,それは現実の労働をめぐる諸関連について科学的認識をより確実とするためで,なによりも各種産業の現場研究が最も重視される。F.W.テーラーは公平な1日の仕事量決定のため作業を単純な要素動作に分解し,その一々の要素動作を熟練者についてストップウォッチで計測し,最大の仕事の効率を収めるための標準作業動作を提唱し(1911),その流れが今日に至っているが(〈科学的管理法〉の項参照),このテーラー・システムに対し労働科学は労働の結果としての疲労とパフォーマンス(実際の仕事の質・量,生産高など)をともに客観的に把握し,労働力保全の視点を重視して望ましいパフォーマンスを収めうるような労働の組織と内容を問題とする。
[労働科学の起源]
産業はその発達の過程で人間労働の機械への従属や生産至上主義の経営管理を生みだし,働く人間にとって好ましくないさまざまな要素を労働条件の中に現出させてきた。…
…横軸に相対湿度,縦軸に湿球温度をとった直交座標において,各月平均値に基づいてプロットされた12点を月順に結びつけた線図。1915年G.テーラーが白人移住の際の気候適応の問題として体感気候を表現するために考案したもの。資料入手の便宜上,湿球温度の代りに乾球温度を用いることもある。…
※「テーラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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