フランスの劇詩人。土木技師の息子としてオート・ビエンヌ県ベルラックに生まれる。ベルラックは、寒気、湿気の強い人口5000ほどの小都市で、彼の作品にみられる地方色と中流階級の人物群はこの環境の反映である。小学校以来首席で通し、文科系の秀才校高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)に入り、ドイツ文学を専攻、卒業後ドイツに留学、ロマン派文学を研究し、夢幻的情緒に傾倒した。このほか古代ギリシアのピンダロス、中世フランスのロンサールなどの叙情詩人を愛し、また古代の万物流転思想や近代の万物照応説などに影響された。アメリカのハーバード大学講師を務め、帰国後『マタン』紙文芸欄を担当、幻想的作家トゥーレPaul-Jean Toulet(1867―1920)と親交を結び、創作を始めた。宇宙に秩序と調和をみ、人間はこれに一致すべきだという考えから、短編3作からなる『無頓着(むとんじゃく)者学校』(1911)などを発表した。1910年外務書記生試験に合格、外交官職についた。第一次世界大戦に従軍、ダルダネロスで負傷、除隊した。
こののち、小説『情熱家シモン』(1918)で、人生の瑣事(さじ)を超越して宇宙に向かって自我を開けば運命に恵まれるという楽天的思想を述べたが、1921年、初めて想像力だけで創作した小説『シュザンヌと太平洋』で宇宙と人間の調和の困難を感じ孤立感が生じた。『男の国のジュリエット』(1924)もその延長線上の作品だが、宇宙との直接交感の可能性を乙女に仮託する発想がみえる。このあたりの機知と幻想をあわせた文体は文壇の一部の注目をひいたが、一方、外務省内の恩人ベルトロPhilippe Berthelot(1866―1934)が省内の対立で失脚した事件をモデルとした『ベラ』(1926)とその系列の連作がかなり成功した。当時、宇宙と人間の齟齬(そご)の象徴として独仏関係を眺めた小説『ジークフリートとリモージュ人』(1922)を、劇作家ジンメルBernard Zimmer(1893―1964)や名優ルイ・ジューベの勧めで戯曲に改稿し、ジューベの演出・出演、ルノワールPieer Renoir(1885―1952)とテシエValentine Tessier(1892―1981)の主演で、1928年5月コメディ・デ・シャンゼリゼで初演、画期的な成功を収めた。当時、安易な商業演劇や観念的問題劇に飽きていた観客は、文学性と舞台性のみごとな融合に歓喜した。以後ほぼ全戯曲がジューベの手で演じられた。
こののちの劇作『アンフィトリオン38』(1929)は神話、現代劇『間奏曲』(1933)は記憶のなかの人物や事件を素材にする方法をとったが、いずれも幻想的喜劇である。この間に宇宙と人間の齟齬感から宿命感が深まり、『旧約聖書』に取材し汎神(はんしん)論に立脚した『ユディット』(1931)の失敗にもかかわらず悲劇を志向し、英雄を人間と超自然の中間的存在として、限界状況で運命に当面したその苦悩を描く方向に進み、『トロイ戦争は起こらない』(1935)、『エレクトル』(1937)を書いた。前者は中期の傑作である。短編集『感情的フランス』(1932)、小説『天使とのたたかい』(1934)などにも精神の危機感が現れた。1939年、戦時情報局長となり講演活動のかたわら、悲劇的叙情劇の大作『オンディーヌ』を発表、翌年公職を辞任しキュッセに引退。原罪と男女の対立を描く『ソドムとゴモラ』(1943)ののち、1944年1月尿毒症で死去。翌年物質主義を攻撃した『シャイヨの狂女』初演。さらに1953年、ジャン・ルイ・バローが、女性の純潔をたたえる『ルクレチアのために』を上演した。饒舌(じょうぜつ)な機知と幻想で読者観客を魅了しつつ基本的主題に誘導する技法の妙は他に比類がなく、20世紀前半世界演劇の王者とされている。ほかに一幕喜劇と小説数編、評論その他があるが、『文学』(1941)はとくに重要な評論集である。
[岩瀬 孝]
『内村直也・鈴木力衛編『ジロドウ戯曲全集』全6巻(2001・白水社)』▽『岩瀬孝訳『ジークフリート』(角川文庫)』
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