服部之総(読み)ハットリシソウ

デジタル大辞泉 「服部之総」の意味・読み・例文・類語

はっとり‐しそう【服部之総】

[1901~1956]歴史学者。島根の生まれ。講座派一員として明治維新史研究を推進第二次大戦後は日本近代史研究会を創立。著「黒船前後」「親鸞ノート」など。

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精選版 日本国語大辞典 「服部之総」の意味・読み・例文・類語

はっとり‐しそう【服部之総】

  1. 歴史学者。島根県出身。講座派に属し、明治維新史を研究。主著「明治維新史」。明治三四~昭和三一年(一九〇一‐五六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「服部之総」の意味・わかりやすい解説

服部之総
はっとりしそう
(1901―1956)

歴史学者。明治34年9月24日島根県に生まれる。1925年(大正14)東京帝国大学文学部卒業。27年(昭和2)の『マルクス主義講座』、32年の『日本資本主義発達史講座』に執筆、マルクス主義歴史学に新生面を開いた。とくに「幕末厳マニュ時代説」の提唱者として有名。1850~60年代、アジア諸国はウェスタン・インパクトに直面し、インドはイギリスの植民地となり、中国は欧米諸列強の半植民地となったにもかかわらず、ひとり日本だけはなぜ明治維新で民族的独立を達成することができたのか、これに解答を与えたのが「幕末厳マニュ時代説」であり、服部は、幕末開港前の日本経済の発達段階はインド、中国よりも進んでおり、それはマルクスのいう「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」に相当すると規定したのである。この見解は、日本の民族的独立を可能にした国内的条件を初めて指摘したものであり、明治維新研究にコペルニクス的転回をもたらした。以後、1933~34年にかけて土屋喬雄(たかお)との間でマニュファクチュア論争が繰り広げられ、当時の論壇の注目を浴びた。第二次世界大戦後、天皇制のタブーが解かれると、服部は、絶対主義論と自由民権運動論に全精力を集中し、日本近代史の政治史的総合を図っていった。服部は同じ「講座派」に属しながらも、主流の山田盛太郎(もりたろう)・平野義太郎(よしたろう)と違って、国内の内発的発展を強調する立場にたち、上からのブルジョア革命と下からのブルジョア革命、政治史における指導と同盟、絶対主義天皇制の近代天皇制への性質転換など新しい見解を次々と発表していった。また史論家としても抜群の才能を発揮し、『黒船前後』『親鸞(しんらん)ノート』『近代日本のなりたち』などの名著を残し、『明治の政治家たち――原敬につらなる人々』上下巻は毎日出版文化賞を得た。文化運動にも熱心で、46年には鎌倉大学校(学長三枝博音(さいぐさひろと)、のち鎌倉アカデミアと改称)を創立し、教授となり、作家吉川英治らとも親交を深めた。昭和31年3月4日死去。

中村政則

『『服部之総全集』全24巻(1973~76・福村出版)』『『服部之総著作集』新装版・全七巻(1967・理論社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「服部之総」の意味・わかりやすい解説

服部之総 (はっとりしそう)
生没年:1901-56(明治34-昭和31)

マルクス主義歴史家。島根県の真宗寺院の長男に生まれ,東大文学部社会学科を卒業。在学中から社会的関心を深め,1927年労働農民党の書記局員となり,30年中央公論社の出版部長,33年唯物論研究会の創立に当たった。1928年《マルクス主義講座》に〈明治維新史〉を発表,マルクス主義史学による維新史研究に先鞭をつけ,33年《日本資本主義発達史講座》に執筆して以後講座派論客として自説展開。幕末の日本の発展段階を中国との対比で厳密な意味でのマニュファクチュア時代と措定,明治維新を絶対主義とブルジョア革命の契機が相克する複雑な過程ととらえ,〈地主・ブルジョアジー〉の独自な役割を強調した。この間労農派の土屋喬雄との間でマニュファクチュア論争を展開したが,やがて執筆活動も困難になり,花王石鹼(株)の社史編集に従事し敗戦を迎えた。46年三枝博音らと鎌倉アカデミアを開くとともに,精力的な執筆活動を開始,自由民権運動から1900年ころまでを〈上からのブルジョア革命〉論によって位置づけ,さらに天皇制ファシズムの成立から崩壊までの体系的理解を深めた。開放的な人柄により多くの後進を育て,52年法政大学教授に就任。戦前の《黒船前後》,戦後の《近代日本のなりたち》など啓蒙的著述では公式主義にとらわれない発想を展開,評伝《明治の政治家たち》や歴史随想《微視の史学》などでもその真価を発揮した。《親鸞ノート》《蓮如》には宗門出身者としての晩年の執着が示されている。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「服部之総」の解説

服部 之総
ハットリ シソウ

昭和期の日本史学者 日本近代史研究会主宰;法政大学社会学部教授。



生年
明治34(1901)年9月24日

没年
昭和31(1956)年3月4日

出生地
島根県那賀郡木田村(現・旭町)

学歴〔年〕
東京帝大文学部社会学科〔大正14年〕卒

主な受賞名〔年〕
毎日出版文化賞〔昭和30年〕「明治の政治家たち」

経歴
浄土真宗寺院に生まれる。大正14年東大副手、昭和2年産業労働調査所所員、3年労農党書記局長、5年中央公論社初代出版部長を経て、6年プロレタリア科学研究所所員となる。この間、3.15の共産党弾圧の際、検挙されるが釈放され、唯物史観の立場で維新を論じた「明治維新史」を刊行。7年刊行開始の「日本資本主義発達史講座」において講座派の代表的論客となる。13年唯物論研究会事件で検挙され戦時下での執筆を断念、同年花王石鹼に入社して上海に渡る。宣伝部長を経て、17年取締役。戦後21年三枝博音らと鎌倉大学校(のち鎌倉アカデミアと改称)を創立、教授となると同時に学界に復帰。24年日本共産党に入党、25年離党。26年日本近代史研究会を設立、翌27年法大教授に就任。他の著書に「黒船前後」「親鸞ノート」「明治の政治家たち」「蓮如」などのほか、「服部之総著作集」(全7巻 理論社)「服部之総全集」(全24巻 福村出版)がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「服部之総」の意味・わかりやすい解説

服部之総
はっとりしそう

[生]1901.9.24. 島根
[没]1956.3.4. 東京
日本近代史家。浄土宗正蓮寺に生れ,第三高等学校を経て東京大学文学部社会学科を卒業,1927年野坂参三の産業労働調査所員,翌年労働農民党書記局員を経て,30年中央公論社入社,初代出版部長となる。 33年唯物論研究会創立に加わり,マルクス主義歴史学者として明治維新史の研究に新生面を開いたが,38年検挙とともに維新史をやめ,釈放後は花王石鹸株式会社宣伝部に入って,同社五十年史などの編纂にあたった。第2次世界大戦後日本近代史研究を再開,若い研究者を育て,49年日本共産党に入り,52年法政大学社会学部教授となったが,56年に病死。『服部之総著作集』 (7巻,1955) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「服部之総」の解説

服部之総
はっとりしそう

1901.9.24~56.3.4

昭和期の歴史学者。島根県出身。東大卒。東洋大学講師をへて1927年(昭和2)産業労働調査所所員。28年「マルクス主義講座」に「明治維新史」を発表。31年プロレタリア科学研究所所員。同年「日本資本主義発達史講座」の執筆陣に加わり,間もなく「幕末=厳マニュ時代説」を提唱して土屋喬雄(たかお)と論争を展開。38年花王石鹸宣伝部長。第2次大戦後は法政大学教授。「服部之総全集」全24巻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部之総」の解説

服部之総 はっとり-しそう

1901-1956 昭和時代の日本史学者。
明治34年9月24日生まれ。昭和3年マルクス主義の立場から「明治維新史」を発表。中央公論社初代出版部長をへて,プロレタリア科学研究所員。講座派の論客として知られ,「幕末=厳マニュファクチュア」論で反響をよぶ。戦後,法大教授。昭和31年3月4日死去。54歳。島根県出身。東京帝大卒。著作に「黒船前後」「明治の政治家たち」など。

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367日誕生日大事典 「服部之総」の解説

服部 之総 (はっとり しそう)

生年月日:1901年9月24日
昭和時代の日本史学者。日本近代史研究会主宰;法政大学教授
1956年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の服部之総の言及

【安土桃山時代】より

…(2)は藤田五郎に代表される見解で,夫役経営(労働地代)を基本とする中世の農奴制的封建社会が,土一揆,一向一揆の過程を通じて,本百姓=隷農による小農民経営が成立し,生産物地代を中心とする,より純粋化した形の封建社会が成立したというものである。(3)は服部之総に代表される見解で,土一揆,一向一揆に代表される民衆の闘いと,倭寇から朱印船貿易にみられる海外発展は,あたかもヨーロッパの初期絶対主義時代に相当するという見解である。(4)は安良城盛昭に代表される見解で,中世=家父長的奴隷制社会のもとで名主百姓に従属していた名子・下人層が,みずから経営する土地を獲得することによって自立を達成し,領主―農奴という一元化された生産関係を基礎とした近世封建社会が成立したというものである。…

【鎌倉アカデミア】より

…戦争で手を汚さなかった教授陣を集め,文部省の中央集権的教育統制の外で,民主主義的な男女共学により,教授と学生とがお互いに鍛え合う学びの場をつくることを目ざした。初代校長飯塚友一郎の後をうけた三枝博音校長の下の陣容は,学監服部之総,教務課長菅井準一,文学科長林達夫,演劇科長村山知義,映画科長重宗和伸,産業科長早瀬利雄,図書部長片岡良一。のちに横浜市戸塚区小菅谷の旧海軍燃料廠に移転したが,財政難にアカの風評が重なり,50年9月に廃校となった。…

【親鸞】より

…近代になっても,伝統的な宗門組織のなかで生きる人々の間では,近世以来の親鸞伝が語り続けられていたが,昭和に入っても,親鸞の思想に傾倒した知識人は,三木清,亀井勝一郎をはじめ数多い。また親鸞を時代的な背景のなかで理解しようとした服部之総(はつとりしそう)の論は,第2次大戦後の親鸞理解に大きな影響を与えた。【大隅 和雄】。…

※「服部之総」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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