アクバル(英語表記)Akbar

精選版 日本国語大辞典 「アクバル」の意味・読み・例文・類語

アクバル

(Akbar) インドのムガール帝国第三代皇帝(在位一五五六‐一六〇五)。デカン地方を除く全インドを征服。中央集権的体制を確立し、イスラム教ヒンドゥー教の融合をはかって帝国の最盛期を築いた。アクバル大帝。(一五四二‐一六〇五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「アクバル」の意味・読み・例文・類語

アクバル(Jalāl al-Dīn Muḥammad Akbar)

[1542~1605]インドのムガル帝国第3代の皇帝。在位1556~1605。帝国の基礎の確立者。寛容な宗教政策によって、イスラムヒンズー両教徒の融和に努めた。アクバル大帝。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「アクバル」の意味・わかりやすい解説

アクバル
Akbar
生没年:1542-1605

ムガル帝国第3代皇帝。在位1556-1605年。父皇帝フマーユーンが玉座を追われ,インド西部を逃亡中に生まれた。フマーユーンが再び玉座にもどってまもなく死んだため,弱冠13歳で皇帝の座についた。この時点ではフマーユーンをインドから追ったスールSūr朝の残存勢力がまだ根強く,その中心となる部将にヒンドゥー教徒のヘームーHemūがおり,彼はフマーユーン死後の混乱に乗じて,一時デリーアーグラを占領した。1556年11月,デリー近郊パーニーパットの地で,ムガル軍はヘームー軍を破り,ここにアクバル支配が始まった。アクバルは,幼少時・少年期はバイラーム・ハーンBairām Khānらフマーユーン時代の強力な遺臣および乳母マーハム・アナガの一族に帝国支配の実権をにぎられていた。それらの勢力を倒したあと,60年代後半になると,絶対君主としての地位を固める方策をとっていった。シャイフ・ムバーラクShaykh Mubārakおよびその2人の息子アブール・ファイズ・ファイズイー,アブール・ファズルらを側近にし,自らの支配を理論的に擁護させようとしたのはその一つのあらわれである。また,彼は,バーブル,フマーユーン以来の,中央アジア出身の部族の伝統を継ぐ軍事体制を改革して,ラージプート軍団を主力にとり入れた新たなムガル軍事体制をつくりあげようと試みた。70年代半ばには,帝国統治制度の一大改革を開始した。それは,それ以前に試みられてきた一つ一つの小さな改革をまとめて,税制,軍事,官僚制の全般にわたって,一気に革新を試みる一大改革であった。マンサブダーリー制はこのとき成立した制度の一つであり,これは単なる軍事制度ではなく,ムガル官僚制としても機能するものであり,のちのムガル支配の根幹をなす制度である。アクバルはまた,ヒンドゥー上層,ムスリム上層,その他インド内諸勢力の有力層を自らの内にとりこんで,皇帝の絶対支配を固める政策をとった。アブール・ファズルは,それを〈スルヘ・クルṣulḥ kull(万民との平和)〉なる用語で表現した。アクバル時代の帝国領は,今日のアフガニスタンの一部から北インド全体にまたがるが,デカンにはまだ別のムスリム諸国家が存在していた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アクバル」の意味・わかりやすい解説

アクバル
Akbar, Jalāl ud-Dīn Muhammad

[生]1542
[没]1605.10.16. アーグラ
インド,ムガル帝国第3代の皇帝 (在位 1556~1605) 。父帝フマーユーンがスール朝のシェール・シャーに敗れ,インドから追われた亡命中に生れた。その後フマーユーンはデリーの王座を回復したが,すぐに事故死し,アクバルが 13歳という若年でムガル帝位についた。 1560年には執政バイラム・ハーンを解任してみずから実権を掌握した。彼の治世はスール朝に敗れて基礎のゆらいだムガル帝国を内政,外交,軍事,宗教政策などのあらゆる面で再建し,ムガル帝国の繁栄の礎石を築いた時代であり,のちにムガル帝国歴代の皇帝中最も偉大な皇帝としてアクバル大帝と称された。彼は重臣にアブル・ファズルなどのイスラム教徒だけでなく,トーダル・マルらのヒンドゥー教徒も登用し,ジズヤ (非イスラム教徒に課する人頭税) を廃止するなどヒンドゥー教徒との融和に努力した。インド西部に割拠したラージプート諸勢力との同盟にも努力し,アンベールの王女を妻とするなどの政策により,ラージプート諸族のほとんどを味方につけた。このような政策によってデリーを中心とする北インドを安定させたのち,北西はカシミールカンダハール,南はデカン地方のハンデシュ,ベラール,アーマドナガルなどに軍を進め,ムガル帝国の版図を拡大した。内政の面では,トーダル・マルに土地の測量を行わせ,地味によって等級に分け,単位面積あたりの税率を決定する地税徴収方法を採用した。彼は宗教の面でも,イスラム教,ヒンドゥー教,ゾロアスター教などの諸宗教の融和に努力しただけではなく,みずから諸宗教を融合した新しい宗教ディーネ・イラーヒー (神聖宗教) を創始したが,それへの改宗を強制することはなかった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アクバル」の意味・わかりやすい解説

アクバル
あくばる
Jalāl al-Dīn Muammad Akbar
(1542―1605)

インドのムガル帝国第3代の皇帝(在位1556~1605)。帝国の基礎の確立者。父フマーユーンがスール朝のシェール・シャーにインドを追われ、亡命の途次に生まれた。父がデリー奪回後1年で急死すると13歳余で即位し、同年、摂政(せっしょう)のバイラームの助けを受けてスール朝軍をパーニーパットで撃退した。1560年バイラームを失脚させて親政を実現。懐柔策と武力を併用してラージプート人のほとんどを服属させるなど、ヒンドゥー・クシ山脈以南のアフガニスタンおよび全北インドを支配下に置き、これを12州に分け、晩年にはベラールなどデカンの3州も加えた。彼は中央集権の実をあげるため、州―県―郡(=徴税区)の行政区分を敷き、徴税制度を整備した。とくに帝国中央部では、各徴税区ごとに、過去10年間の平均収量や平均価格をもとにした作物ごとの単位面積当り収量(貨幣換算したもの)の3分の1を地租額として確定し、年々の作付面積(実測)に応じて現金納させた。また、官僚(軍人)を等級に分け、それに応じて常備すべき騎兵数とジャーギール(給与地)の大きさを定め、厳格な軍馬登録制とジャーギールの数年ごとの転封を実施した。彼はこれらの中央集権化政策を、ペルシア人、インド人イスラム教徒、同ヒンドゥー教徒らを用いて、古参の軍人たち(おもに中央アジア出身)を抑えつつ実施していった。彼の宗教政策も政治情勢に応じて変遷したが、最終的にはジズヤ(非イスラム教徒に課する人頭税)を廃止するなど宗教的寛容政策をとり、各宗教、宗派の平和共存を奨励した。彼が創始したとされるディーン・イラーヒー(神の宗教)は、宗教というよりは臣下の君主に対する忠誠心を、弟子の導師に対するそれのように高めることをねらったものであった。彼の時代にはポルトガル語書物などのペルシア語への翻訳、アブル・ファズルらによる歴史書の記述、新都ファテプル・シークリーなどにおけるイスラム様式にヒンドゥー様式を加味した多くの優れた建築物の造営、特色あるムガル細密画(ミニアチュール)法の創出もなされた。

[長島 弘]

『石田保昭著『アクバル大帝』(1972・清水書院)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「アクバル」の解説

アクバル
Akbar

1542~1605(在位1556~1605)

ムガル帝国の第3代皇帝。父フマーユーンシェール・シャーによってインドから追われ,シンド地方を逃亡中に生まれた。フマーユーンはデリーを回復したが急死したため,1556年若干13歳で皇帝位についた。80年代には北インドを平定し,税制,軍制,官僚機構を整え,ムガル帝国の支配を確立した。幼少期に読み書きを習う機会を逃したが,彼の近従としてアブル・ファズル他優れた人物に恵まれていたため統治を行うことができた。彼はヒンドゥー教をはじめ諸宗教に対しきわめて寛大で,80年代初め副都ファテープル・シークリーで宮廷を訪れたイエズス会神父等さまざまな宗教の学者を集め討論会を開いた。彼の宗教思想は詳しくは明らかでないが,スーフィー的要素が強かったようである。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「アクバル」の意味・わかりやすい解説

アクバル

インド,ムガル帝国第3代の皇帝(在位1556年―1605年)。1556年パーニーパットの戦に勝った後,ベンガル湾からアラビア海にいたる広大な領土を平定し,ムガル朝の基礎を築いた。デリーからアーグラへ遷都し,法制・税制・貨幣制度を改革した。文化にも深い理解をもち,ムガル文化の保護者となった。ムスリム,ヒンドゥー,その他の各有力者層を自らの勢力にとりこんで支配を強化した。
→関連項目アーグラ城塞ファテープル・シークリー

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「アクバル」の解説

アクバル
Jalāl al-Dīn Mohammad Akbar

1542〜1605
ムガル帝国の第3代皇帝(在位1556〜1605)
ヒンドゥー教徒との融和をはかり,ムガル朝をデカン高原の一部をも含む大帝国に発展させた,実質上の建国者。1558年にデリーからアグラに遷都。統治・租税制度・社会改革にも手腕を発揮し,文化面にも深い理解をもち,ムガル美術を発展させた。また世界の諸宗教の長所を集めたディーネ−イ−イラーヒー(神聖宗教)を創始したが,失敗した。なお,彼の統治の記録が,廷臣アブル=ファズルによってペルシア語で著わされたのが『アクバル−ナーマ』である。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアクバルの言及

【インド】より

…だが支配層は部族を軸として党派を組んで党争し,しだいにトルコ系部族よりもアフガン系部族が有力となった。 ムガル帝国では,第3代皇帝アクバルが支配体制を確立し,それはデリー諸王朝,とくにシェール・シャーの制度を発展させたものである。第1に,スーバ(州)からパルガナ(郡)に至る地方支配体制を整備し,中心的な地域では,土地を測量して生産物によって単位面積の地税を定め,それを銀貨で徴収するなど,安定した財政を確保した。…

【人頭税】より

…ウマイヤ朝カリフのウマル2世(在位717‐720)が征服地の住民のイスラムへの改宗を奨励するに及び,ジンミーとイスラムに改宗したマワーリーとの租税負担に差を設ける必要が生じ,人頭税はジンミーだけに課することとして,それがイスラム法の規定となった。しかしムガル帝国の皇帝アクバル(在位1556‐1605)のように,ジンミーへの人頭税を廃止した君主もある。【嶋田 襄平】
[中国]
 旧中国の税制は,土地税と専売を2本の柱としたが,古代・中世には人頭税も重要な役割をになった。…

【ファテープル・シークリー】より

…インド北部,ウッタル・プラデーシュ州アーグラ市の西約40kmの岩丘上にある〈勝利の市〉という意味の古城。ムガル朝のアクバル帝によって1569‐74年に建設され,85年まで居城として用いられた。石材はほとんどが赤色砂岩で,構造は簡素であるが,細部に精緻な装飾彫刻を施している。…

【ブリンダーバン】より

…町には数えきれないほど多くの大小の寺院が建立されている。なかでも最大の寺院は,ゴビンド・デオで,16世紀末にアクバル帝がヒンドゥー教の栄光を祈って建立したとされる。また,ニクンジャ・バンと呼ばれる壁で囲まれた公園は,クリシュナ神が信者の前に現れた場所と信じられている。…

【マンサブダーリー制】より

…インドのムガル帝国における軍事・官僚機構。第3代皇帝アクバル時代(1556‐1605)の中期,1570年代半ばから90年代にかけて成立したといわれる。マンサブmanṣabはアラビア語で〈位階〉を意味し,ダールdārは〈持つ〉の意のペルシア語dāshtanの語根で,〈マンサブダールmanṣabdār〉は位階を持つ者の意。…

【ムガル細密画】より

…その最初期は,ペルシアのサファビー朝のタブリーズ派の画家が招かれ,多数の挿絵入り写本がもたらされて,もっぱらペルシア細密画の技法を消化吸収した時代である。第3代皇帝アクバル(在位1556‐1605)のときには,インド人の画家がしだいに指導的地位につき,インド的傾向が強まってムガル絵画独自の様式が明瞭になった。ポルトガルの大使やキリスト教宣教師団によってもたらされた西洋絵画の影響も見のがすことはできない。…

【ムガル帝国】より

…フマーユーンも即位してほどなくアフガン系のスール朝のシェール・シャー(在位1538‐45)と戦って敗れインドを追われた。シェール・シャーの死後,1555年,フマーユーンはやっとデリーの王座にかえりついたが事故がもとでまもなく死に,13歳のアクバル(在位1556‐1605)が王位についた。ムガル帝国が北インド一帯の支配王朝として安定したのは,このアクバルが成人して自ら帝国の統治に乗り出してからのことである。…

※「アクバル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android