翻訳|anarchism
通常,無政府主義と訳す。無秩序な無政府状態を指すanarchiaは古代ギリシアに起源をもつ語であるが,アナーキーという言葉はそのように否定的な意味においても,また一部の宗教思想やユートピア的社会思想にみられるように,既成の権威を否定して個人中心の調和的社会結合を目指すという積極的な意味においても,西欧の精神史のうちに深い根をもっている。近代アナーキズムはフランス大革命を頂点とする時期に発展してきた。すでにロックやルソーのいう自然状態のうちにアナーキズムの原型を見いだすことができるが,そのより具体的な性格づけは18世紀フランスの啓蒙的社会主義者であるJ.メリエやモレリーによってなされた。そして,大革命の流れの中で,1791年にはみずからアナーキストを名のる一派も現れた。こうした現実の運動を昇華した形でアナーキズムに最初に哲学的表現を与えたのはイギリスのW.ゴドウィンであった(《政治的正義》1793)。彼は正義と幸福の達成を財産および国家の廃絶のうちに求めたが,それはなんら実現の方法論を伴うものでなく,個人としての人間の完成可能性を示すにすぎなかったといえる。これに対し,アナーキズムに一定の社会組織のイメージと理論的基礎づけとを与えようとしたのは,19世紀中葉のフランスにおけるプルードンであったが,ここにはサン・シモン,フーリエ以来の社会主義思想の蓄積が生かされており,これを集産主義的アナーキズムと呼ぶ論者もある。同じような系譜に立ちながらも,国家と権威の否定をより強力に叫び,さらにはネチャーエフとの関係などでアナーキズムにテロリズムの色彩を与えさえしたのは,ロシアから出て欧米諸国に広く足跡を残したバクーニンである。彼は第一インターナショナルの中でのマルクスとの論戦を通じて,アナーキスト勢力を一つの党派にまでまとめ上げたといえる。この後に直接的テロ行動と,アナルコ・サンディカリスム運動との一時期が続くが,19世紀末におけるアナーキズム理論の集大成者はクロポトキンであり,彼は〈無政府共産制〉という標語で平等思想を徹底させ,明治・大正期の日本にも影響を与えた。
日本では明治30年代末に煙山専太郎や久津見蕨村によって無政府主義の紹介がなされているが,社会運動の中でそれを推進したのは,クロポトキンとも文通して1908年に《麵麭(パン)の略取》を翻訳公刊した幸徳秋水や大杉栄らである。このグループは1907年以来〈直接行動派〉と呼ばれるが,20年代初頭のアナ・ボル論争を経て勢力は衰退し,大正末から昭和初めにかけては無産運動の周辺部にとどまった。だが56年まで生きた石川三四郎の理論的活動や,三好十郎,埴谷雄高などの文学者の寄与は注目に値する。
アナーキズムは,国家を含むいっさいの権威を否定して個人主体の独自性を主張する点で,ゴドウィン以後にもドイツのM.シュティルナーのうちにユニークな哲学的表現を見いだすとともに,他方,スペイン,イタリア,アメリカなどの国々に多くの実践的活動家を生み出した。だが,今日の社会運動の中で,アナーキズムは十分広い基盤をもっているとはみられず,アナーキズム的意味における自由社会の理想あるいはプルードン的な連合主義理論の形において,一定の批判的機能を果たしているにすぎないということができよう。
執筆者:田中 治男
ヨーロッパの国々のうち,アナーキズムが最も強く,最も後まで影響力をもったのはスペインであった。
1836年,スペイン政府は教会の土地を強制収用し,都市ブルジョアなど新たな支持者層への土地供与に便宜を図った。その結果,大土地所有制のため大多数が日雇いであった南部アンダルシア地方の農民は,それまで教会によって与えられていた借地などの救済措置の適用を受けることが不可能となり,当時急速な経済発展をとげていた東部カタルニャ地方へ流出した。旧体制のエリートや都市ブルジョアの支援を受け,54年と68年の革命後樹立された軍人政権は,革命に参加した労働者と農民の要求を無視し,さらに教会が政府との関係を1857年に修復すると,特に南部農民は教会への信頼感を失っていった。
こうした状況下に,68年10月,バクーニンの使者が訪れ,これを契機に労働者・農民による初めての全国組織である第一インターナショナル・スペイン支部〈スペイン地方連合〉が70年6月に結成された。加盟者数は72年12月で2万2900人。支部はカタルニャ地方に集中し,次いでアンダルシア地方が多かった。そして〈地方連合〉は,政治権力の掌握を目ざすマルクスよりも,その破壊を求めるバクーニンの主張に進路を定め,72年6月にはマルクス派を除名した。教会と袂を分かった労働者・農民にとって,アナーキズムは新たな福音として機能したのである。しかし,集団指導体制と個人の自発性を重視するあまり,〈地方連合〉は20世紀初頭まで実践面での成果は皆無であった。そして19世紀末,ピレネー山脈の北のヨーロッパからニヒリズムが流入すると,個人のテロ活動が戦術面の低迷を脱する手段となり,1897年と1912年には時の首相を暗殺した。
20世紀初頭,フランスから導入されたサンディカリスムは戦術上の活路を開き,1911年にはアナルコ・サンディカリスム系全国組織〈全国労働者連合(CNT)〉が結成され,19年にその加盟人数はカタルニャ,アンダルシア両地方を中心に約71万にも及んだ。結成後CNTがすぐに直面したのは,マドリードやアストゥリアス地方に勢力基盤があった社会党系労組〈労働者総同盟(UGT)〉(1920年加盟人数約21万)との提携問題であった。さらにロシア革命の影響で,戦術上政治結社との接触に関して柔軟な姿勢をとるグループと,あくまでも接触を断とうとするグループとの確執が生まれた。プリモ・デ・リベラの独裁(1923-30)下,CNTは地下活動に入った。27年,マルクス主義がCNT内に浸透することを阻み,アナーキズムの理論的純粋性を維持する目的で,CNTとは別個に〈イベリア・アナーキスト連合(FAI)〉が結成された。その後FAIはCNTの実行委員会のような役割を担うが,内部対立が氷解したわけではなかった。31年,第二共和国が成立すると,CNTは全国的に直接行動による活動を開始した。しかし34年の総選挙で右派が勝利し,以後その弾圧の対象となったため,36年2月の総選挙では,組織としては選挙を無視し,投票は加盟員個人の自由意思にゆだねる方針を打ち出した。そのためもあって,選挙では人民戦線側が勝利を収めた。
36年7月,スペイン内戦が勃発すると,CNTは戦争と革命の同時進行を図り,戦いに参加する一方,バルセロナの大工場などでは集産化の実験も行った。しかし,ソ連の援助を盾に共和国陣営内の発言力を増す共産党と他の党派との間に主導権争いが生じ,CNTも共産党の攻撃に対し,37年8月ころから守勢に立たされた。この主導権争いは陣営内の結束を弱め,CNTにとっては戦争とともに革命をも失う原因となった。そしてフランコの時代を通してCNTは完全に力を失い,現在の左翼陣営の中でも少数派にとどまっている。
→サンディカリスム
執筆者:鈴木 昭一
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無政府主義ともいう。国家権力を否定し,完全に自由な社会をめざす思想で,近代的なアナーキズムは1840年代にプルードンによって定式化された。その後バクーニンやクロポトキンによって革命運動に結合され,政治行動を否定し労働者の直接行動を強調する点で,第1インターナショナルの時代にはマルクス主義と対立した。95年以後はアナルコ・サンディカリスムに継承され,南欧の労働運動に影響を与えた。
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