アルバート

百科事典マイペディア 「アルバート」の意味・わかりやすい解説

アルバート

英国,ビクトリア女王の夫。ドイツザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男としてロゼナウ城に生まれる。ベルギーとボンで学ぶ。ビクトリアとはいとこの関係にあり,双方の伯父のベルギー国王レオポルド1世の仲立ちで1840年結婚にいたった。当初外国人嫌いの英国の政界・上流階級に疎(うと)んじられ,〈女王の夫君Prince Consort〉の称号を得たのも,結婚後17年も経ってからのことであった。この間,とかく政治に嘴(くちばし)を入れ,政治家の好き嫌いがはなはだしかった女王に対して,立憲君主としてのありかたを教えて教育にあたった。世界で最初の万国博覧会が1851年にロンドンで開かれたのも,彼の熱心な働きかけが大きかった。女王夫妻を中心にする幸福で健全な家庭生活は,おりから発展しつつあった新聞を通じて報道され,中流階級模範と仰がれるようになった。1861年恋愛事件を起こした皇太子を諌(いさ)めるためにケンブリッジに赴き,腸チフスに罹(かか)って急死。深く死を悼(いた)んだ女王は喪に服すと称して引きこもってしまった。現在ロンドンのハイド・パークとその向かいにあるアルバート公記念碑とアルバート・ホールは,彼を記念して万国博覧会の剰余金で建てられたもの。→ビクトリア時代

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改訂新版 世界大百科事典 「アルバート」の意味・わかりやすい解説

アルバート
Albert Francis Charles Augustus Emanuel, Prince Consort of England
生没年:1819-61

イギリス女王ビクトリアの夫。ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男としてローゼナウに生まれる。彼とビクトリアとは,もともと従姉弟の関係にあり,双方の伯父であるベルギー王レオポルト1世の尽力でたがいに親しくなった。1837-38年にボン大学に学んだあと,40年に結婚,イギリスに帰化した。彼は,女王の夫Prince Consortということ以外,とくに憲法上の地位を与えられなかったが,深く女王を愛し,その包容力ある人格と高い識見をもって彼女の国事を補佐した。41年のピール・トーリー党内閣の成立に際し,ホイッグ贔屓(ひいき)の女王に議会政治における二大政党制の意味を教えさとしたのは彼であった。またドイツ人らしく,とくに科学・技術の振興に熱心で,第1回ロンドン万国博覧会(1851)の推進者となった。61年,腸チフスに倒れ,惜しまれて死去した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルバート」の解説

アルバート
Prince Albert

1819~61

イギリスのヴィクトリア女王の夫君。ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ家の出身で,女王とはいとこにあたる。1840年結婚。当初は外国人としてうとまれたが,真摯で教養深い人柄で女王にも大きな影響を与え,女王と営む家庭生活は国民敬愛を集めた。51年のロンドン万国博覧会の実現に貢献した。

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世界大百科事典(旧版)内のアルバートの言及

【ビクトリア女王】より

…ケント公妃が娘の養育にあたり最も頼りにしたのは,彼女の兄レオポルド公(後のベルギー王レオポルド1世)であり,ビクトリアの養育係に任命されたのは,ザクセン・コーブルク出身のレーツェン男爵夫人であった。1840年,21歳のとき,彼女と同年で従弟にあたるザクセン・コーブルク・ゴータの王子アルバートと結婚する。彼女は直情径行の人で,高貴な生れと育ちに特有な我の強さをもち,ドイツびいきで,しばしば外交をはじめとする国家の諸問題に干渉しようとした。…

※「アルバート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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