アルビジョア十字軍(読み)アルビジョアじゅうじぐん

改訂新版 世界大百科事典 「アルビジョア十字軍」の意味・わかりやすい解説

アルビジョア十字軍 (アルビジョアじゅうじぐん)

13世紀初頭アルビジョアAlbigeois派異端討伐のため,フランス南部トゥールーズ伯領に進攻した十字軍戦乱オック語による南仏文芸を壊滅させたが,カペー王権の南部進出をもたらし,フランス統一の大きな里程標となった。この異端への対抗伝道からドミニコ会が誕生し,また渦中で新設された異端審問は長くヨーロッパに猛威を振るった。アルビジョア派とは,カタリ派異端の地方的呼称である。1145年聖ベルナールの巡回以来,ドミニコ会の登場まで教会の異端対策はシトー会が指導した。1208年教皇使節がトゥールーズ伯の家臣に殺害されると,教皇インノケンティウス3世は十字軍を宣布した。09年十字軍はリヨンに集結,ローヌ川沿いに南下する。十字軍士は主として北フランスの諸侯や騎士から構成されていた。教皇代理として十字軍を後見したのは,シトー会士アルノー・アマルリックArnaud Amarlic。同年ベジエを襲撃して全市民を虐殺し,西進してカルカソンヌを占拠した。ここで俗人の十字軍指導者としてシモン・ド・モンフォール(英国史に登場する同名人物の父)が選任される。以後十字軍はカルカソンヌを拠点として周辺への出撃を繰り返す時期が続くが,13年ミュレ合戦にアラゴン王,トゥールーズ伯,フォア伯の南欧連合軍を粉砕して,一挙に南フランスの大半を制圧した。18年シモン・ド・モンフォールの戦死を機に現地勢力の反抗が再燃し,十字軍は苦境に陥った。結局26年フランス王の介入によって十字軍が再組織され,南部平定が完成した。29年王とトゥールーズ伯の間に結ばれたパリ和約は,十字軍を終結させるとともに,伯領の相続人を王弟に嫁がせることによって王領編入の道を開いた。44年異端の最後の拠点モンセギュールが陥落する。宗教戦争として出発した十字軍が,結局フランス王の南部征服戦として終わったのは,異端支持者に現地領主が多かったという,この地独特の事情が関係している。
異端審問
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルビジョア十字軍」の意味・わかりやすい解説

アルビジョア十字軍
あるびじょあじゅうじぐん
Croisade albigeoise

南フランスのアルビジョア派(カタリ派)に対して、ローマ教皇の指令に基づいて、シモン・ド・モンフォールを中心に北フランス諸侯によって組織された十字軍(1209~1229)。ローヌ川以西の南フランスに多かったカタリ派が「アルビジョア派」とよばれるようになるのは十字軍の過程においてであって、アルビAlbi地方にとくに異端が多かったわけではない。むしろ異端の活動はベジエやカルカソンヌ、そしてトゥールーズなどで活発であった。1198年、インノケンティウス3世は教皇位につくとともに異端対策を強化し、シトー派の伝道団を派遣したが、南フランスのカタリ派がトゥールーズ伯レイモン6世をはじめ大小貴族や都市の有力市民層に支持されたため、ほとんど実効はあがらなかった。そのうえ、1208年1月、教皇特使ピエール・ド・カステルノーがアルルに近いローヌ河畔でレイモン6世の家臣に殺害されるという事件が起こり、これがきっかけとなって、翌1209年6月、教皇により、いわゆるアルビジョア十字軍が宣布された。以来約20年間、シモンのもとに編成され、そしてトゥールーズに再起したアルビジョア派の襲撃によってシモンが死去(1217)したのち、その子アモーリに率いられた十字軍は、南フランスの各地に転戦し、おびただしい血が流された。

 1226年、フィリップ2世以来機の熟するのを待っていたフランス王ルイ8世Louis Ⅷ(在位1223~1226)がアモーリの権利を引き継ぎ、カペー家が十字軍の主体となってから、戦局はにわかに好転した。1229年、ルイ9世がトゥールーズ伯レイモン7世と結んだパリ和約により、南フランスの王領化の基礎が置かれた。しかし、十字軍の終結後もカタリ派の活動はやまず、1233年、教皇グレゴリウス9世Gregorius Ⅸ(在位1227~1241)はトゥールーズ大学開設を公許するとともに、教皇直属の、異端審問の特設法廷を設置し、その任をドミニコ修道会に託した。

[井上泰男]

『渡邊昌美著『異端者の群れ』(1969・新人物往来社)』

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百科事典マイペディア 「アルビジョア十字軍」の意味・わかりやすい解説

アルビジョア十字軍【アルビジョアじゅうじぐん】

1208年教皇インノケンティウス3世の命を受けたフランス国王軍が興したアルビジョアAlbigeois派異端討伐戦。アルビジョア派とはフランス南部アルビAlbiを中心としたカタリ派の地方的呼称。攻防の末,1229年,王とトゥールーズ伯の間にパリ和約が結ばれて終結,1244年にはカタリ派最後の拠点モンセギュールも陥落した。カペー王権の南仏支配,ドミニコ会創設,オック語文芸(トルバドゥール)の壊滅なども招来した重要事件。
→関連項目インノケンティウス[3世]十字軍フィリップ[2世]ラングドック

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルビジョア十字軍」の意味・わかりやすい解説

アルビジョア十字軍
アルビジョアじゅうじぐん
Croisade des Albigeois

アルビジョア派 (→アルビ派 ) の異端討伐のため,ローマ教皇インノケンチウス3世の呼びかけで組織された十字軍 (1209~29) 。アルビジョア派はマニ教の流れをくみ,善 (神,霊魂) ,悪 (悪魔,肉体) の2原理,2創造主の存在を信じ,不殺生,菜食主義,私有財産と結婚の否定など厳格な戒律をもった。この教えはツールーズ伯レイモン6世,彼の封臣フォア伯,ベジェ副伯ら南フランス諸侯の熱烈な支持を受けて 12~13世紀にツールーズ,アルビ地方に広まった。これに対しインノケンチウス3世は教皇特使ピエール・ド・カステルノーの暗殺 (08) をきっかけとして,北フランス諸侯に十字軍を要請した。シモン・ド・モンフォール (→モンフォール家 ) に率いられた十字軍は,ベジェ,ナルボンヌ,カルカソンヌなど南フランス諸都市を攻略し,1213年のミュレの戦い (アルビジョア派側のアラゴン王戦死) ,ツールーズの戦い (モンフォール戦死) でアルビジョア派を破った。戦いはパリの和約 (29) で終結,結果として国王ルイ8世による南フランスの王領化が促進された。アルビジョア派はモンセギュール城の破壊 (44) 後,急速に消滅した。

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世界大百科事典(旧版)内のアルビジョア十字軍の言及

【カペー朝】より

…ルイ7世の子フィリップ2世(尊厳王,在位1180‐1223)は,フランス領に関するかぎり,いかなる君主もカペー家の家臣であるとし,家臣としての誠実義務違反を根拠として〈奪封宣言〉という挙に出た。こうして彼はノルマンディー,アンジュー,メーヌ,ポアトゥーの諸地方をジョン欠地王から奪還し,さらにアルビジョア十字軍をおこして,南フランスの王領化と南北フランスの統一を促進した。彼は都市コミューンに対しても積極政策をとり,プランタジネット家やフランドル伯など王権に敵対的な諸侯領の都市に王権を浸透させることにより,ブービーヌの戦(1214)を有利に導いた。…

【カルカソンヌ】より

…その後400年トゥールーズ伯支配下の伯爵領,子爵領として栄えた。13世紀異端者懲罰を目的としたアルビジョア十字軍(1208‐14)によってフランス王家とトゥールーズ伯との争いの舞台となり,1247年フランス王家に属した。 町は二つの部分から構成される。…

【ラングドック】より

…この十字軍は,ベジエ,アルビなど都市全体を挙げての抵抗にあって苦戦し,29年までの20年間を費やして,ようやく異端運動を鎮圧した。城壁化された教会に拠ったアルビ市の籠城戦にちなんで,アルビジョア派,アルビジョア十字軍とも呼ばれる。アルビジョア十字軍は,キリスト教異端の騒動鎮圧にあたったが,実際にはカペー王朝をはじめとする北フランス諸侯による南フランス征圧戦という性格を強くもっている。…

※「アルビジョア十字軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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