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イタリア政策 イタリアせいさく

百科事典マイペディアの解説

イタリア政策【イタリアせいさく】

10―13世紀ドイツ国王・神聖ローマ皇帝の対イタリア干渉政策。歴代ドイツ国王は古代ローマ帝国の理念的継承者と自任,イタリア経略に精力を傾けた。オットー1世の教会政策に端を発し,ハインリヒ4世のときには叙任権闘争にまで発展した。
→関連項目ザクセン朝神聖ローマ帝国

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世界大百科事典 第2版の解説

イタリアせいさく【イタリア政策】

ザクセン朝,ザリエル朝,シュタウフェン朝のドイツ国王・神聖ローマ皇帝がおこなったイタリア支配政策。皇帝政策ともいう。カロリング帝国が三つに分裂したのち,イタリア,ブルグントを含む中部地域では早くにカロリング家の血統が絶え,各地の有力者が王を自称して対立抗争を続けた。ザクセン朝のオットー1世はイタリア王ロタール2世の寡婦アーデルハイトの援助を名目に,2回にわたりイタリアに遠征し(951,961),教皇ヨハネス12世から神聖ローマ皇帝の冠を受けた(962)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イタリア政策
イタリアせいさく

皇帝政策」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イタリア政策
いたりあせいさく
Italienpolitikドイツ語

ザクセン朝、ザリエル朝、シュタウフェン朝の歴代ドイツ国王、すなわち神聖ローマ皇帝が行ったイタリア支配の政策。「皇帝政策」Kaiserpolitikともよばれる。イタリア政策は、ザクセン朝の国王オットー1世が、父王ハインリヒ1世の遺志を継ぎイタリア遠征を行い、951年パビアでランゴバルド王の位につき、その後62年ローマでローマ皇帝の帝冠を受けた(神聖ローマ帝国の成立)ことに始まる。これによりイタリアはドイツ王国に結び付けられ、ドイツ国王はカール大帝の皇帝権の後継者として皇帝の称号を受け、ローマ教皇権ならびに西欧キリスト教世界の保護者としての使命を帯びることとなった。だが、このことは同時に、ドイツを教皇権と皇帝権との争いに巻き込む大きな原因ともなり、ザリエル朝のハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との間に争われた聖職叙任権闘争は、その一つのピークをなすものであった。この闘争は、ウォルムス協約(1122)によりいちおうの収束をみたが、闘争期間中の国内諸侯の離反により、ドイツ王権の弱体化をもたらした。シュタウフェン朝のフリードリヒ1世は、王権再建の一つの支柱をイタリア支配の強化に求め、精力的なイタリア政策を展開したが、北イタリア諸都市の反抗を受け、シュタウフェン朝の崩壊とともに、イタリア政策も終止符を打った。
 イタリア政策の歴史的評価に関して、19世紀中葉以降ドイツ史学界で大きな論争が起こった。皇帝政策論争とよばれるもので、当時のドイツ統一をめぐる小ドイツ主義派と大ドイツ主義派の両者の主張に深く結び付いている。前者を代表するジーベルは、近代ドイツの領邦分裂の原因が中世ドイツ皇帝のイタリア政策にあるとしてこれを断罪したのに対し、後者を代表するフィッカーは、イタリア政策がドイツ国内統治の必要から出たものとして擁護論を展開した。論争は現在まで尾を引いているが、フィッカー的な現実論がしだいに優位を占めてきつつあるといえよう。[平城照介]
『増田四郎著『独逸中世史の研究』(1951・勁草書房) ▽G・バラクラフ著、前川貞次郎・兼岩正夫訳『転換期の歴史』(1954・社会思想社)』

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