イラン革命(読み)イランカクメイ

デジタル大辞泉 「イラン革命」の意味・読み・例文・類語

イラン‐かくめい【イラン革命】

1979年、パフラビー朝独裁を廃して、イスラム教に基づく共和国を樹立した革命。亡命中のホメイニ師が帰国して指導者となった。イスラム革命。

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共同通信ニュース用語解説 「イラン革命」の解説

イラン革命

イランのパーレビ王朝(1925~79年)を打倒し、今に続くイスラム共和制を樹立した政治運動。親欧米路線を掲げた2代目国王が急進的な改革を進め、貧富の格差や異論の弾圧が広がった状況への不満が引き金になったとされる。78年にイスラム教シーア派の聖地コムで反政府暴動が発生し、全土に拡大した。79年1月に国王が出国。亡命先から王制批判を続け、2月に帰国したイスラム聖職者ホメイニ師が、革命体制の初代最高指導者となった。(ワシントン共同)

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精選版 日本国語大辞典 「イラン革命」の意味・読み・例文・類語

イラン‐かくめい【イラン革命】

  1. 一九七九年、パーレビー朝の独裁を廃して、イスラム教にもとづく共和国を樹立した革命。亡命中のホメイニ師が帰国して指導者となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「イラン革命」の意味・わかりやすい解説

イラン革命 (イランかくめい)

1979年2月,パフラビー朝の国王独裁を打倒し,ホメイニーの指導のもとにイスラム政体を樹立した革命。その課題と目標はイスラム革命enqelāb-e Islāmīとして表明された。イランが米ソ冷戦の焦点となって以来,国王モハンマド・レザー・パフラビーはアメリカに支えられ,国内の民主主義を抑圧してきた。1953年モサッデク打倒後,国王は軍と治安警察を強化して独裁機構を確立し,63年農地改革,国営工場の民間払下げ,企業利潤の労働者への分配,婦人参政権,文盲撲滅などの目標を掲げた白色革命の発足とともに,上からの改革を強権でもって進めようとした。これを不当として国民戦線と宗教指導者が反対し,ホメイニーも逮捕・追放された。71年からフェダーイーヤーネ・ハルクやモジャーヘディーネ・ハルクのゲリラが孤立して活動した。74年からイランの石油収入が急増したが,一部の国王側近だけが経済ブームに便乗し,バーザール商人の多くは破産に追い込まれ,農民は農業を棄てて建設労働者となって都市に流入した。国王は国民の経済的不満を抑えられなかった。78年1月,聖地コムで宗教学生デモに治安警察が襲いかかり犠牲者を出した。この追悼デモが40日ごとに他の都市に波及し,瞬く間に全国に反国王デモが拡大した。8月アバダーン映画館“放火”が国民の怒りを高め,9月テヘランの広場のデモに対する発砲で数千の〈殉教者〉を出した(黒い金曜日)。10月石油労働者スト,12月10~11日,アーシューラーの日,大デモで反国王の声が表明された。79年国王は脱出し,代りにホメイニー師が帰国,2月11日,革命政府が全権力を掌握した。

 イラン革命は,初めからイスラムの国家理念を目指したのではなかった。しかし商工業の組織バーザールを中軸として,自発的に全国民的に盛り上がった反国王運動を全体的に代表できたのは,宗教指導者アーヤトッラーのホメイニーであった。全国の宗教指導者たちも呼応して決起した。近代的中間層にもイスラムの再生を模索する潮流があって,これに結びついた。社会主義者もイスラム的な正義と公正の訴えに社会的内容を与えようとした。革命成就後,革命で功績のあった宗教指導者たちがイスラム議会に進出した。民主主義・民族主義の主張を圧して採択されたイラン・イスラム共和国憲法では,イスラム法学者による権力行使を実現させ,最高指導者に三権分立を超える地位を与え,宗教指導者たちによる超議会的な憲法監視評議会を定めた。イスラム革命の理念として,経済的自立と搾取根絶を目指し,全世界の被搾取者の解放が強調され,この主張は他の国々のムスリム大衆にも強力な影響を与え,呼応する運動を引き起こさせている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イラン革命」の意味・わかりやすい解説

イラン革命
いらんかくめい

1979年2月11日、パフラビー王朝が崩壊し、イランが共和国として再生した革命。革命の過程については「イラン」の項に譲り、ここでは主として、この革命が現代世界の新しい革命の姿である点について述べる。イラン革命は、反王制国民運動の発展から革命後の国家理念に至るまで、イスラム・イデオロギー(とくにイスラム原理主義)に貫かれており、イラン側ではイスラム革命とよんでいる。イスラムが現代世界の変革のイデオロギーとして重要性をもっているのは、現代世界の矛盾の焦点の一つが中東であり、そこで疎外と抑圧を味わい、しかも圧倒的にイスラム教徒である人々に、イスラム原理主義が解放の展望を与えているからである。その典型例がイラン革命であるといえよう。

 第二次世界大戦後のパフラビー王朝の歩みは、米ソ冷戦下でのアメリカの支援と莫大(ばくだい)な石油利潤とに安定基盤を求め、国民に対しては弾圧政治に終始してきた。1962年以来の「白色革命」や、70年代の法外な石油利潤をてことする近代化は、新興特権階層の台頭を促す一方、農村や都市の商工業バザールの破産をもたらし、急膨張する都市化のなかで民衆は疎外と抑圧を受けるようになった。王朝の繁栄とは裏腹に、同国は秘密警察サバクが支配する暗黒政治に覆われていた。

 イラン国民の大半が属するイスラム教シーア派の宗教指導者層ホメイニらは、国民の窮状をイスラム教徒の共同体(ウンマ)の危機ととらえた。彼らは、本来のイスラム原理に基づくウンマの再生と結び付けて王制打倒を国民に提唱、反国王運動の先頭にたつことになった。イラン左翼勢力は、イスラム原理主義によるイスラム的正義と公正の実現を訴えるイスラム変革運動のなかに社会的変革の糸口をみいだして共感し、さらにバザール商人層も呼応した。こうした、イスラム原理主義を軸とする広範な国民結集の大運動のなかで、強大な軍事力を誇ったイラン王制も崩壊せざるをえなかったのである。

 ところで、イスラムのウンマとは、民族、部族の単位ではなく、神が人類救済の歴史のなかで使徒を遣わし、人間に呼びかけるその単位集団としての意味をもつものとされる。ここに、イラン革命を推進するシーア派イスラムの原理主義が、ウンマの再生のイデオロギーとして、宗派、国籍、民族の違いを超えて、広くイスラム教徒をとらえていく側面がみいだされる。ペルシア湾岸諸国や内戦下のレバノンまでが「革命の輸出」としてこれを危惧(きぐ)するのは、イラン革命のいわば国際的な性格を物語っていよう。ただし、イラン革命政権が、イラン国境内部に生活する他民族集団や他宗派集団に対して、その自治権を抑圧する傾向を強めている事実も否めない。シーア派イスラムに根ざす変革のイデオロギーが、新たな民族的差別の危険をどう断ち切っていけるかに、イラン革命の成否がかかっていよう。

[藤田 進]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イラン革命」の意味・わかりやすい解説

イラン革命
イランかくめい
Iranian Revolution of 1978-79

1978~79年イランのパフラビー朝を倒してイスラム共和制を樹立した革命。ムハンマド・レザー・シャー(在位 1941~79)は,いわゆる「白色革命」によって上からの急激な近代化政策を強行し,土地改革,女性参政権,識字教育などの実施を推進したが,地主層や宗教指導層が反発。1973年の石油危機を契機に打ち出した経済成長政策も失敗して,かえってインフレーション,農業の停滞,都市のスラム化の拡大,極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした。1978年1月以降反国王デモやテロ事件が全国的に続発。これに対して国王は同 1978年11月軍人内閣を発足させ弾圧を強化したが,反政府運動は熾烈となり,フランスのパリに亡命中のホメイニ師の指導のもとに王制打倒を叫ぶにいたった。1979年1月国王は国外に脱出,王制最後の S.バクチアル内閣も瓦解した。同 1979年2月1日ホメイニ師が帰国し,2月11日革命政府が全権力を掌握,国民投票の結果,4月1日イスラム共和制が初代最高指導者ホメイニ師のもとに宣言された。初代大統領はアボルハサン・バニサドル。王制打倒に結集した勢力はイスラム勢力のほか,マルクス=レーニン主義の影響を受けたものから,民族主義者,新左翼グループ,自由主義者,バザール商人などさまざまで,そのすべてがイスラムに基づく国家理念に同調していたわけではなかった。
革命後,国家体制のあり方をめぐって激しい抗争が繰り広げられたが,1980年5月の国会選挙ではイスラム聖職者を中心とするイスラム共和党が圧勝し,その結果採択されたイスラム共和国憲法ではホメイニ師に三権分立をこえる国家最高指導者の地位を与え,イスラム指導者たちによる超議会的な憲法監視評議会の設置を定めた。その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清,排除され,ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められたが,それは周辺のアラブ諸国ばかりでなく,全世界のイスラム復古運動に大きな影響を与えることになった。

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百科事典マイペディア 「イラン革命」の意味・わかりやすい解説

イラン革命【イランかくめい】

1979年イランのパフラビー朝の独裁体制を打倒し,イスラム共和制を樹立した革命。イランでは〈イスラム革命〉と呼ぶ。アメリカの支持のもと,石油収入により急速な近代化を進める国王は,土地改革を中心とする上からの〈白色革命〉を断行。さらに経済格差の拡大や都市への人口集中等が重なり,伝統的土地所有者,商人,民衆などから強い反発を受けた。これに宗教界も加勢し,1978年,聖地コムでの学生デモ弾圧をきっかけに全国的な蜂起となった。1979年国王が国外脱出,同年2月,亡命中の宗教指導者ホメイニーが帰国して革命政府を樹立した。革命には民族主義派や社会主義者なども積極的に関わったが,1981年,〈法学者の統治〉論を取り入れたイスラム共和国が成立。宗教上の最高指導者が立法・行政・司法を超える監督権をもつ体制を布いた。その後イランは〈革命の輸出〉を唱えて,欧米諸国のほか周辺イスラム諸国からも警戒されることになった。
→関連項目イランイラン・イラク戦争中東モハンマド・レザー・パフラビー

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知恵蔵 「イラン革命」の解説

イラン革命

1979年、イランのパーレビ王朝が倒壊し、イラン・イスラム共和国が成立、ウラマー(イスラム法学者)の統治(ベラーヤテ・ファギーフ)と呼ばれる宗教指導者による支配体制が樹立された。反パーレビ運動を一貫して推進してきたカリスマ的指導者ホメイニがこの体制を指導した。しかし、88年に対イラク戦争の停戦を受諾することで、革命を武力で輸出しようという路線は挫折した。89年ホメイニの後継者とされていたモンタゼリが退けられ、同年6月にホメイニが死去すると、2代目の最高指導者にハメネイが就任した。だが、ホメイニのカリスマ性は継承できず、イランのイスラム体制は民衆への磁力を弱めた。さらに問題なのは、経済の停滞であり、少なからぬ数の国民は生活苦から革命体制への倦怠感をあらわにし始めている。宗教に指導された近代化、というイランの革命政権が掲げた理念は厳しい現実に直面している。

(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イラン革命」の解説

イラン革命(イランかくめい)

パフラヴィー朝が打倒され,イラン・イスラーム共和国が樹立された「イスラーム革命」。近代化を強権的に押し進めたパフラヴィー2世への種々の不満は,石油収入急増(1974年)に際する富の不公平な分配などによって急速に高まった。78年1月の聖地コムにおける神学生デモ弾圧事件以後,幅広い反国王勢力が亡命中のホメイニーを核に結集した。同年12月10~11日のアーシューラーの大デモなどをへて国王は国外に退去。ホメイニーの帰国の後,79年2月11日に革命政府が全権を掌握した。

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世界大百科事典(旧版)内のイラン革命の言及

【ホメイニー】より

イラン革命の指導者。イラン中部のホメイン村に生まれ,アラーク,コムで修学,有力アーヤトッラーの一人となった。…

※「イラン革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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