イランのパーレビ王朝(1925~79年)を打倒し、今に続くイスラム共和制を樹立した政治運動。親欧米路線を掲げた2代目国王が急進的な改革を進め、貧富の格差や異論の弾圧が広がった状況への不満が引き金になったとされる。78年にイスラム教シーア派の聖地コムで反政府暴動が発生し、全土に拡大した。79年1月に国王が出国。亡命先から王制批判を続け、2月に帰国したイスラム聖職者ホメイニ師が、革命体制の初代最高指導者となった。(ワシントン共同)
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1979年2月,パフラビー朝の国王独裁を打倒し,ホメイニーの指導のもとにイスラム政体を樹立した革命。その課題と目標はイスラム革命enqelāb-e Islāmīとして表明された。イランが米ソ冷戦の焦点となって以来,国王モハンマド・レザー・パフラビーはアメリカに支えられ,国内の民主主義を抑圧してきた。1953年モサッデク打倒後,国王は軍と治安警察を強化して独裁機構を確立し,63年農地改革,国営工場の民間払下げ,企業利潤の労働者への分配,婦人参政権,文盲撲滅などの目標を掲げた白色革命の発足とともに,上からの改革を強権でもって進めようとした。これを不当として国民戦線と宗教指導者が反対し,ホメイニーも逮捕・追放された。71年からフェダーイーヤーネ・ハルクやモジャーヘディーネ・ハルクのゲリラが孤立して活動した。74年からイランの石油収入が急増したが,一部の国王側近だけが経済ブームに便乗し,バーザール商人の多くは破産に追い込まれ,農民は農業を棄てて建設労働者となって都市に流入した。国王は国民の経済的不満を抑えられなかった。78年1月,聖地コムで宗教学生デモに治安警察が襲いかかり犠牲者を出した。この追悼デモが40日ごとに他の都市に波及し,瞬く間に全国に反国王デモが拡大した。8月アバダーン映画館“放火”が国民の怒りを高め,9月テヘランの広場のデモに対する発砲で数千の〈殉教者〉を出した(黒い金曜日)。10月石油労働者スト,12月10~11日,アーシューラーの日,大デモで反国王の声が表明された。79年国王は脱出し,代りにホメイニー師が帰国,2月11日,革命政府が全権力を掌握した。
イラン革命は,初めからイスラムの国家理念を目指したのではなかった。しかし商工業の組織バーザールを中軸として,自発的に全国民的に盛り上がった反国王運動を全体的に代表できたのは,宗教指導者アーヤトッラーのホメイニーであった。全国の宗教指導者たちも呼応して決起した。近代的中間層にもイスラムの再生を模索する潮流があって,これに結びついた。社会主義者もイスラム的な正義と公正の訴えに社会的内容を与えようとした。革命成就後,革命で功績のあった宗教指導者たちがイスラム議会に進出した。民主主義・民族主義の主張を圧して採択されたイラン・イスラム共和国憲法では,イスラム法学者による権力行使を実現させ,最高指導者に三権分立を超える地位を与え,宗教指導者たちによる超議会的な憲法監視評議会を定めた。イスラム革命の理念として,経済的自立と搾取根絶を目指し,全世界の被搾取者の解放が強調され,この主張は他の国々のムスリム大衆にも強力な影響を与え,呼応する運動を引き起こさせている。
執筆者:加賀谷 寛
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1979年2月11日、パフラビー王朝が崩壊し、イランが共和国として再生した革命。革命の過程については「イラン」の項に譲り、ここでは主として、この革命が現代世界の新しい革命の姿である点について述べる。イラン革命は、反王制国民運動の発展から革命後の国家理念に至るまで、イスラム・イデオロギー(とくにイスラム原理主義)に貫かれており、イラン側ではイスラム革命とよんでいる。イスラムが現代世界の変革のイデオロギーとして重要性をもっているのは、現代世界の矛盾の焦点の一つが中東であり、そこで疎外と抑圧を味わい、しかも圧倒的にイスラム教徒である人々に、イスラム原理主義が解放の展望を与えているからである。その典型例がイラン革命であるといえよう。
第二次世界大戦後のパフラビー王朝の歩みは、米ソ冷戦下でのアメリカの支援と莫大(ばくだい)な石油利潤とに安定基盤を求め、国民に対しては弾圧政治に終始してきた。1962年以来の「白色革命」や、70年代の法外な石油利潤をてことする近代化は、新興特権階層の台頭を促す一方、農村や都市の商工業バザールの破産をもたらし、急膨張する都市化のなかで民衆は疎外と抑圧を受けるようになった。王朝の繁栄とは裏腹に、同国は秘密警察サバクが支配する暗黒政治に覆われていた。
イラン国民の大半が属するイスラム教シーア派の宗教指導者層ホメイニらは、国民の窮状をイスラム教徒の共同体(ウンマ)の危機ととらえた。彼らは、本来のイスラム原理に基づくウンマの再生と結び付けて王制打倒を国民に提唱、反国王運動の先頭にたつことになった。イラン左翼勢力は、イスラム原理主義によるイスラム的正義と公正の実現を訴えるイスラム変革運動のなかに社会的変革の糸口をみいだして共感し、さらにバザール商人層も呼応した。こうした、イスラム原理主義を軸とする広範な国民結集の大運動のなかで、強大な軍事力を誇ったイラン王制も崩壊せざるをえなかったのである。
ところで、イスラムのウンマとは、民族、部族の単位ではなく、神が人類救済の歴史のなかで使徒を遣わし、人間に呼びかけるその単位集団としての意味をもつものとされる。ここに、イラン革命を推進するシーア派イスラムの原理主義が、ウンマの再生のイデオロギーとして、宗派、国籍、民族の違いを超えて、広くイスラム教徒をとらえていく側面がみいだされる。ペルシア湾岸諸国や内戦下のレバノンまでが「革命の輸出」としてこれを危惧(きぐ)するのは、イラン革命のいわば国際的な性格を物語っていよう。ただし、イラン革命政権が、イラン国境内部に生活する他民族集団や他宗派集団に対して、その自治権を抑圧する傾向を強めている事実も否めない。シーア派イスラムに根ざす変革のイデオロギーが、新たな民族的差別の危険をどう断ち切っていけるかに、イラン革命の成否がかかっていよう。
[藤田 進]
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(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)
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パフラヴィー朝が打倒され,イラン・イスラーム共和国が樹立された「イスラーム革命」。近代化を強権的に押し進めたパフラヴィー2世への種々の不満は,石油収入急増(1974年)に際する富の不公平な分配などによって急速に高まった。78年1月の聖地コムにおける神学生デモ弾圧事件以後,幅広い反国王勢力が亡命中のホメイニーを核に結集した。同年12月10~11日のアーシューラーの大デモなどをへて国王は国外に退去。ホメイニーの帰国の後,79年2月11日に革命政府が全権を掌握した。
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