イギリスがインドを直接支配した期間のインドの呼称。インドがイギリス王領に移管されてしばらくした1877年から,イギリス女王ビクトリアは〈インド女帝Empress of India〉の称号を合わせ持つことになり,その後のイギリス国王も代々インド皇帝と名のった。帝国の中にもう一つ帝国ができたことになる。その後イギリスの領土拡張の時代になったが,インドはイギリス帝国の中で常に一つの独自な構成部分とみなされ,自治領や他の植民地とは区別されていた。イギリスはインドをインド大臣からインド総督へというラインを通じて統治したが,インドにおける中央政府の性格は,独立前年の1946年の暫定政府の誕生までは専制的というに近いものであった。1869年にスエズ運河が開通してからは,イギリスはスエズを通るインドへの交通路を他の列強から確保するためエジプトをはじめとする周辺地域の征服に力を入れた。第2次大戦の開始当時,インド帝国は人口の点でイギリス帝国全体の約7割を占めていた。
1901年のインドの人口は,ビルマ(現ミャンマー)をいれて3億近くだが,イギリスのそれは4100万である。イギリスが面積,人口ともはるかに大きなインドを2世紀近く支配することができたのにはいくつかの理由がある。第1はイギリスの統治機構が全く硬直したものではなく,インド統治法の制定にみられるように民族運動の要求にたいし少しずつ譲歩を行い,穏健派をその内部にとり込んできたことである。第2はインド人内部のさまざまな生得の区分を利用して分割統治を行うことにかなり成功したことである。まず宗教の違いにイギリスは注目した。その結果はヒンドゥーにたいするムスリムの重視を制度化した分離選挙制度の実施となって表れ,ヒンドゥーとムスリムの政治的対話を困難なものとした。ムスリムの重視は第1次大戦でのムスリム兵士の活躍の結果でもあるが,兵士を多く出したパンジャーブ人などの特定の集団も軍人集団martial racesとして尊重し,兵士をほとんど出していないベンガル人などと対立させた。次にやはり第1次大戦での貢献にたいする報酬の意味から,1919年インド統治法下で藩王たちの発言権が拡大され,35年インド統治法の中で最後まで実現しなかった連邦構想では,彼らに非常に重要な役割が与えられようとしていた。さらに不可触民や部族民を特別扱いにし,またヒンドゥーの多数のカーストが国勢調査のおりに高いランクを与えられることを願って運動し相互に対立した。
第3は強力な行政・軍事機構の存在である。独立までのインドではインド文官職Indian Civil Service(ICS)と呼ばれる約1300人のエリート官僚が中央から州・県にいたる主要な行政ポストを占め,行政機構全体を動かしていた。その中のインド人の比率も少しずつ上昇したが,平等な競争試験によって被支配者側からも人材を吸収したのもイギリスの強味であった。しかし統治の究極の拠り所は,イギリスがインドに駐屯させていた本国軍およびインド兵士を訓練して編成したインド軍からなる軍事力であった。
イギリスの強味は以上のような点にあったので,さまざまな形での譲歩や分割統治をもってしても民族運動の力をおさえることができず,ICSや本国軍の補充が滞り,インド軍の統制も十分に保ちえないという状態になると,イギリスのインド統治の命運はつきることになるのであった。第2次大戦によって訪れたのがそのような事態である。1919年インド統治法の検討のために任命されたサイモン委員会Simon Commissionは,30年に発表した報告で州の両頭制度Dyarchyの廃止を勧告したが,中央政府については言うに足るほどの改革を提案しなかった。30年の塩の行進に始まる大規模な反英運動は,この報告をその発表前にすでに無効とし,中央における両頭制度を含んだ1935年インド統治法を制定させた。1919年インド統治法から35年インド統治法への変遷をみると,理論的には次の一歩は中央における両頭制度の廃止,つまり議院内閣制の実現,言いかえれば独立ということになる。35年インド統治法の連邦構想が実現しなかったため,実際には独立によって2段階の改革が一度になされたのだが,それを可能にしたのが戦争によるイギリスの危機と,戦後におけるその弱体化である。同時に国民会議派とムスリム連盟は,35年インド統治法にもとづく37年の州議会選挙で大量の中堅幹部を当選させ,それぞれが多数党となった州で政府をつくり,行政と立法の経験をつんで,イギリスから権力委譲をうける主体的条件を形成しつつあった。
しかし,もしもイギリスにとってのインドの経済的有用性が低下していなかったならば,以上のような事態の推移があったとしてもイギリスはインドを引き続いて確保すべく必死の努力と犠牲を払ったかもしれない。1870年ころにでき上がった多角的決済体系の中で,インドの貿易はイギリスにたいしては入超だが,全体としては出超であるという二重の有用性をもっていた。世界貿易におけるその比重も今日よりはるかに高いものであった。輸出のためのモノカルチャー経済をつくるためにイギリス資本が投下され,鉄道と港湾が輸出入の目的にそって発展させられた。しかしこの二重の有用性は両大戦間期にしだいに消滅して,1936年度にはついにそれまでの対英入超が出超に転ずるという画期的変化が起こり,第2次大戦中にはこれに加えてインドに巨額の対英債権が生じて,イギリスにとってのインドの価値は大きく低下した。
インドとパキスタンの独立は,ビクトリアから数えて5人目のジョージ6世のときだが,イギリス議会の制定したインド独立法によって,彼はインド皇帝の称号を失っている。両国の独立は第2次大戦後のイギリス植民地の独立の第一陣であった。イギリスにとって有事の際に非常に重要な役割を果たしていたインド軍が利用できなくなったことは,イギリスの大きな損失であった。今日1000万人に近いと推定される世界各地のインド系住民は,インド帝国の遺産である。
執筆者:山口 博一
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1876年,イギリス国王がインド皇帝の称号を併せ持つようになると,植民地インドは皇帝に統治される帝国となった。58年に直接統治下に置かれたとき,インドは他の植民地とは区別され,植民地省ではなくインド省の管轄下に置かれ,専任の閣僚としてインド担当国務大臣を持った。またインド総督は,イギリス国王の代理人という意味で「副王」とも呼ばれるようになった。イギリス帝国のなかで格段に大きな比重を占めることから,インドはイギリス国王を皇帝に戴く帝国という特別の扱いを受けたのである。同時にこの扱いには,ムガル帝国の正統な継承者であるという意味もこめられていた。インド帝国は,直接支配が行われるイギリス領インドと,間接支配が行われる藩王国からなっていた。藩王国の数はおよそ600。その主なものは,ヨーロッパの独立国と同じくらいの規模があった。またインド帝国はアデンを支配下に置き,ペルシア湾岸地域に大きな影響力を保持した。1937年までビルマもインド帝国の一部を構成した。
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イギリスの植民地であったインドの独立までの一呼称。1876年の王位称号法により、イギリス国王(当時はビクトリア女王)は翌年からインド皇帝を名のるようになり、ここにインド帝国が成立したことになるが、これは統治組織の実質的改編を伴うものではなかった。インド皇帝は、帝国への功績ありと認めたインド人にさまざまの名誉称号やイギリスの位階を賜与して彼らの忠誠心を鼓舞した。1877年、1903年、1911年にデリーで開かれたダルバールDelhi durbar(接見式)においては、皇帝の即位を慶祝し、インド人の叙勲が大規模に行われた。これは優れて帝国的な行事であった。
[高畠 稔]
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