ウィーラント(その他表記)Christoph Martin Wieland

デジタル大辞泉 「ウィーラント」の意味・読み・例文・類語

ウィーラント(Heinrich Otto Wieland)

[1877~1957]ドイツの有機化学者。胆汁酸の構造を研究。また、生体内の化学反応における脱水素反応説を提唱し、酸化説をとる、ワールブルクとの論争が有名。1927年、ノーベル化学賞受賞。

ウィーラント(Christoph Martin Wieland)

[1733~1813]ドイツの詩人・小説家レッシングと並んで、ドイツ啓蒙主義の代表者叙事詩オーベロン」、小説「アガトン物語」。

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精選版 日本国語大辞典 「ウィーラント」の意味・読み・例文・類語

ウィーラント

  1. [ 一 ] ( Christoph Martin Wieland クリストフ=マーティン━ ) ドイツの詩人、小説家。レッシングと並んで、ドイツ啓蒙主義の代表者。叙事詩「オーベロン」、小説「アガトン物語」。(一七三三‐一八一三
  2. [ 二 ] ( Heinrich Otto Wieland ハインリヒ=オットー━ ) ドイツの有機化学者。窒素の化合、アルカロイド、胆汁酸類の構造などに関する研究がある。一九二七年ノーベル化学賞受賞。(一八七七‐一九五七

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改訂新版 世界大百科事典 「ウィーラント」の意味・わかりやすい解説

ウィーラント
Christoph Martin Wieland
生没年:1733-1813

ドイツの小説家,詩人。南ドイツの小都市ビーベラハで牧師の家庭に育つ。はやくから詩才を示し,チュービンゲンで法学を修めたのち,チューリヒの高名の批評家ボードマーの庇護を受け,作家としての教養を積んだ(1752-60)。さらに故郷ビーベラハで市政にたずさわる間(1760-69)に人間として作家として成長を重ね,長編《ドン・シルウィオ》(1764)と《アーガトン物語》(1766-67),物語詩《ムザーリオン》(1768)を発表。エルフルト大学で哲学と歴史を講じながら創作をつづけ(1769-72),政治小説《黄金の鏡》(1772)を機縁にワイマール公国の嗣子カール・アウグストの教育官に任ぜられた。この職務が終わったのちも生涯ゲーテをはじめワイマールの古典主義者たちのサークルにとどまり,風刺小説《アブデラの人びと》(1774-76),物語詩《オーベロン》(1780)などの傑作を発表。初期の物語詩はロココ趣味の官能性のため非難を浴びたが,円熟期の作品は,スペインギリシア,東方に舞台を借りながら,善と美,理性と感性の調和を説き,教訓性と娯楽性の均衡,優美で明快な文体によってヨーロッパ文学の水準に達している。翻訳家としてもすぐれ,シェークスピア(散文訳8巻,1762-66)のほか,多くの古代著作家のものを手がけた。彼が主宰した《ドイツのメルクール》(1773-1810)は当時もっとも有力な文芸雑誌。その数編の随想からは,フランス革命前後の彼の冷静・中庸な政治思想がよくうかがえる。
執筆者:


ウィーラント
Heinrich Otto Wieland
生没年:1877-1957

ドイツの有機化学者,生化学者。ミュンヘン工科大学,フライブルク大学教授を経て,1925年R.ウィルシュテッターを継いでミュンヘン大学教授。当時隆盛しつつあった天然物有機化学に取り組み,胆汁酸やアルカロイドの研究に成果をあげ,27年ノーベル化学賞を受けた。3種の胆汁酸が基本的にはステロイドであることを示した。このころから天然物有機化学の研究に対してノーベル賞が与えられることが多くなる。その後,生体内の酸化還元反応の研究に移り,生体内の重要な反応が脱水素であることを示した。著書に《On the Mechanism of Oxidation》(1932)などがある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィーラント」の意味・わかりやすい解説

ウィーラント(Christoph Martin Wieland)
うぃーらんと
Christoph Martin Wieland
(1733―1813)

ドイツの小説家、詩人。9月5日、南ドイツ、ビーベラハ近郊に生まれる。ドイツ・ロココ文学の代表者で、創作活動の豊かさは当代随一であった。若いころには敬虔(けいけん)主義的思想の影響を受けて、宗教的、夢想的詩作も残したが、その後、故郷で官吏となり、フランス風の優雅なサロンで理神論およびギリシア思想に触れてからは、もっぱら現世的な生の賛美に、その流麗典雅な文筆を駆使した。エルフルト大学哲学教授、ワイマール公国の公子たちの傅育(ふいく)官、枢密顧問官を務め、人望厚く、やがてワイマールに招かれたゲーテとも親交を保ち、平和な生涯を送った。1813年1月20日、ワイマールで没。

 数多くの作品を残したが、重要なものはまず長編小説『アガトン物語』(第1稿1766、第2稿1773、第3稿1794)である。これはドイツ教養小説の始祖で、ギリシアを舞台とし、青年アガトンが「まことの徳」を杖(つえ)として諸方を遍歴しながら、ついに「理性を最高の法とする神の国」の地上における実現を期待するまでの成長過程を描く。長編小説『アブデラの人々』(1774)はこれと趣(おもむき)を異にする風刺小説で、ギリシアの愚民の町アブデラに起こる珍妙な事件の数々を、ユーモアと皮肉たっぷりに描くが、彼の物語芸術はこの作で最高に達しているといえる。韻文物語『ムザリオン』(1768)と叙事詩『オーベロン』(1780)は、それぞれ優雅と貞節を主題とした名作である。そのほか、多数の創作、評論のほかに、シェークスピアの戯曲、および古代ギリシア・ローマの詩人たちの著作や書簡集の翻訳がある。

 ウィーラントが当時の文壇の向上に果たした功績は大きく、ゲーテはおりに触れて賞賛を惜しまなかったが、一方では彼の文学思潮をいわゆるドイツ的でないとして忌避する傾向もあり、彼は文学史上、かならずしもつねに正当な評価を受けてきたとはいいがたい。

[義則孝夫]


ウィーラント(Heinrich Otto Wieland)
うぃーらんと
Heinrich Otto Wieland
(1877―1957)

ドイツの有機化学者、生化学者。6月4日プフォルツハイムに生まれる。ミュンヘンその他の大学に学び、化学のほか工学と医学の学位をもつ。ミュンヘン工科大学、フライブルク大学教授などを経て、1925年から1952年までミュンヘン大学教授ならびに同大学化学研究所所長。胆汁酸類とその類縁物質の構造を研究し、この業績に対して1927年にノーベル化学賞が授与された。彼の提出した化学式はその後1932年に修正された。胆汁酸のほか、アルカロイドや麻酔剤などについても研究し、さらに生物体内酸化作用に関する研究を行い、細胞呼吸のメカニズムにおける水素活性化説を提唱し、酸素活性化説を主張するO・H・ワールブルクと対立し、激しい論争を展開した。1957年8月5日ミュンヘンで死去した。主著は『酸化過程について』Über den Verlauf der Oxydationsvorgänge(1933)。

[宇佐美正一郎]

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百科事典マイペディア 「ウィーラント」の意味・わかりやすい解説

ウィーラント

ドイツの小説家。啓蒙思想の時代を代表する。プラトン的理想主義から出発した青年が官能的愉楽との葛藤を経て中庸の調和に達する道程を描いた《アーガトン物語》は《ウィルヘルム・マイスター》の先駆となる教養小説。叙事詩や劇,評論も書き,シェークスピアの翻訳や,ドイツ最初の文芸誌《ドイツのメルクール》(1773年―1810年)の発刊者としても知られる。後半生はワイマールの宮廷に招かれてヘルダーゲーテシラーらと親交があった。平明で優雅な文体をドイツ文学に導入した功績は大きい。
→関連項目オベロンワイマール

ウィーラント

ドイツの有機化学者。1917年ミュンヘン工業大学教授,のちフライブルク大学教授を経て1925年ミュンヘン大学教授。ステリン類および生体内酸化還元機構について研究。胆汁酸類の構造研究に対し,1927年ノーベル化学賞。
→関連項目スタンリーリネン

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化学辞典 第2版 「ウィーラント」の解説

ウィーラント
ウィーラント
Wieland, Heinrich Otto

ドイツの有機化学者,生化学者.ミュンヘン大学,ベルリン大学,シュツットガルト工科大学などで学び,1901年ミュンヘン大学で学位を取得したのち大学に残った.第一次世界大戦中,カイザー・ウィルヘルム協会化学研究所で,F. Haber(ハーバー)のもとで毒ガス研究をし(1917~1918年),戦後,ふたたび大学に戻り,フライブルク大学を経て,1925年ミュンヘン大学でR. Willstätter(ウィルシュテッター)の後を継いで有機化学教授になった.生理活性の天然化合物の構造決定への関心から,アルカロイド胆汁酸の構造を研究し,1927年胆汁酸の研究でノーベル化学賞を受賞.生体内の酸化還元機構について水素活性化説を提唱して,酸素活性化説を提唱したO. Warburg(ワールブルク)と対立・論争した.

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィーラント」の意味・わかりやすい解説

ウィーラント
Wieland, Christoph Martin

[生]1733.9.5. ビーベラハ近郊オーバーホルツハイム
[没]1813.1.20. ワイマール
ドイツ啓蒙主義の作家。牧師の息子として生れ,敬虔主義的な厳格な教育を受けて成長,のちスイスの文芸評論家ボドマー教授のもとで指導を受けたが,1760年に帰郷,役人となる。その後フランスやイギリスの啓蒙主義文学に接し,次第に敬虔主義からロココ的文学態度へと転換する。のちにはワイマールの宮廷にも招かれ,ゲーテとも親しく交わり,かたわら文芸誌『メルクール』 Der teutsche Merkur (1773~1810) を発刊,大きな影響力をふるった。また,シェークスピアに心酔して多くの戯曲を散文に翻訳した功績は大きい。代表作は自伝的教養小説『アーガトン物語』 Geschichte des Agathon (66~67) ,韻文物語『ムザーリオン』 Musarion (68) ,風刺小説『アブデラの人々』 Die Abderiten (74) ,韻文ロマンス『オベロン』 Oberon (80) 。

ウィーラント
Wieland, Heinrich Otto

[生]1877.6.4. フォルツハイム
[没]1957.8.5. ミュンヘン
ドイツの化学者。ベルリン,シュツットガルト,ミュンヘンの各大学に学び,ミュンヘン工科大学教授 (1917) ,フライブルク大学教授 (21) を経て,ミュンヘン大学教授 (25~53) 。肝臓から得られる胆汁酸の構造についての研究にすぐれた業績を残したほか,生体内酸化反応が脱水素化過程であることを明らかにし,生理学,生化学,医学の発展に貢献。 1927年ノーベル化学賞を受賞した。

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世界大百科事典(旧版)内のウィーラントの言及

【刀剣】より

…にもかかわらず,刀剣,特に長剣が武器を代表するという観念はつねに存在したし,権力や身分のみならず,ときには神秘的な力の象徴であった。鍛造に高度の技術を要したうえに鋭利さが賛嘆の念を誘ったからでもあるが,ゲルマン人の古伝説に登場するウィーラントのように超人的な神工が語られ,また《ローランの歌》の中のデュランダル,ジョアイユーズ,オートクレールのようにほとんど擬人化されたのも,数ある武器の中で刀剣に限られている。この武勲詩では,臨終の主人公が愛剣に語りかける場面で流露する感情は盟友に対するそれに近い。…

【化学】より

…天然物のなかでも二次代謝産物の構造決定と全合成は20世紀有機化学者の大きな課題であった。A.ウィンダウスはコレステロールに,H.O.ウィーラントは胆汁酸に取り組み,紆余曲折はあったが1930年代までにそれらの構造を明らかにした。同じころ性ホルモンのdl‐エキレニンの全合成がなされ,さらに1952年にはウッドワードRobert Burns Woodward(1917‐79)がコレステロールの全合成に成功した。…

※「ウィーラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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