日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワールブルク」の意味・わかりやすい解説
ワールブルク(Aby M. Warburg)
わーるぶるく
Aby M. Warburg
(1866―1929)
ドイツの美術史・文化史家。現代的な「イコノロジー(図像学)」の創始者とされるだけでなく、視覚文化研究およびイメージ論の分野でその影響力はきわめて大きい。ユダヤ人銀行家の長男としてハンブルクに生まれる。ボン大学で学んだのち、論文「サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》」Sandro Botticellis “Geburt der Venus” und “Frühling”により、1892年ウィルヘルム皇帝大学(現フランスのストラスブール大学)で博士号取得。一族の財力を背景として、大学に所属することなく、イタリア・ルネサンス文化を中心とする独自な資料収集を行い、これが1926年にハンブルクに設立された研究機関ワールブルク文化科学図書館(ナチス時代にロンドンに移転し、第二次世界大戦末からロンドン大学ワールブルク研究所)に結実する。
処女作であるボッティチェッリ論は、ルネサンス人の心理的特性を、古典古代の造形芸術や文学作品を範型とした表現、とりわけ細部の運動表現のなかに探っている。こうした「古代の残存」はワールブルク終生のテーマであり、とくに激しい情念を表現するにあたって繰り返し利用された古代作品の身ぶりを彼は「情念定型」と名づけ、その形態論的な持続と変容の過程を追究した。
ワールブルクのルネサンス研究は、フランドル美術がフィレンツェの初期ルネサンス芸術に与えた影響を探る一方で、教会に自分の蝋人形を奉納する風習との比較から、肖像絵画がフィレンツェの社会で果たしていた機能を考察するといったように、他地域、他ジャンルとの交流や相互関係からなる、多岐にわたる文化的ネットワークの解明を主眼としていた。その過程でルネサンスの視覚文化における重要な研究領域として発見されたのが占星術の図像である。
1912年の国際美術史学会における講演「フェッラーラのスキファノイア宮殿におけるイタリア美術と国際的占星術」は、占星術的な意味をもつ壁画の人物像を、古代ヘレニズムの世界からインドに渡り、そこからアラブ圏を経てヨーロッパに回帰した、イメージの国際的移動の産物として解読している。
ワールブルクの精神状態は、幼少時から不安や強迫観念にとらわれがちだったが、第一次世界大戦におけるドイツの敗北は被害妄想の発作を招き、18年秋には病院に収容され、のちにスイスにある精神科医ビンスバンガーの療養所に転院している。この間、助手フリッツ・ザクスルFritz Saxl(1890―1948)の助けを借りて論文「ルター時代の言葉と図像における異教的・古代的な予言」Heidnisch-antike Weissagung in Wort und Bild zu Luthers Zeitenを21年完成、発表した。23年、思考能力の回復を証明するため、1895~96年のアメリカ旅行の経験をもとに、蛇という象徴の文化的意味をめぐる講演「蛇儀礼――北アメリカ、プエブロ・インディアン居住地域からのイメージ」を行う。翌年退院し、ハンブルクに帰郷。26年、蔵書の独自な分類によっても知られるワールブルク文化科学図書館が開館し、エルンスト・カッシーラーをはじめとする学者、知識人からなる知的ネットワークの中心となる。ワールブルクはこののちハンブルクで急死するまで、ギリシア神話の記憶の女神の名を借りて「ムネモシネ」と名づけられた図像地図のパネルを数十枚にわたって作成し続けた。これは黒いスクリーン上に構成された、美術作品の写真や書籍図版、あるいは雑誌、新聞、広告の切り抜きからなる一種のモンタージュであり、ワールブルクの生涯の研究活動を圧縮するようにして、図像のみで表現した記録である。主著と呼ばれるものを残さなかったワールブルクは、断片的な印象を与える論文と無数の覚え書き、そして、未完に終わったこの図像の星座がはらむ、狂気と知の間を激しく往還する情念の震動によって、ヨーロッパ文化のイメージ記憶の深層に達する洞察を伝えている。
[田中 純]
『伊藤博明監訳「サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》――イタリア初期ルネサンスにおける古代表象に関する研究」(『ヴァールブルク著作集1』所収・2003・ありな書房)』▽『加藤哲弘訳「蛇儀礼――北アメリカ、プエブロ・インディアン居住地域からのイメージ」(『ヴァールブルク著作集7』所収・2003・ありな書房)』▽『E・H・ゴンブリッチ著、鈴木杜幾子訳『アビ・ヴァールブルク伝――ある知的生涯』(1986・晶文社)』▽『松枝到編『ヴァールブルク学派――文化科学の革新』(1998・平凡社)』▽『田中純著『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(2001・青土社)』
ワールブルク(Otto Heinrich Warburg)
わーるぶるく
Otto Heinrich Warburg
(1883―1970)
ドイツの生化学者。20世紀前半における生化学のパイオニアの一人。フライブルクで物理学者の子として生まれる。ベルリン大学でフィッシャーに師事し、のちハイデルベルク大学に学んだ。1931年以降、死亡するまで、ベルリン・ダーレムに新設されたカイザー・ウィルヘルム(1953年以後はマックス・プランク)細胞生理学研究所長として研究を続けた。ワールブルク検圧計という、細胞や組織のガス交換を精密に測定する計器を考案し、この器械はその後多くの研究室で広範に使用された。彼の研究業績を大別すると、細胞呼吸、光合成、癌(がん)になる。まず細胞呼吸のメカニズムに関する研究は、彼の研究のなかでもっとも重要なものであり、呼吸に対する低濃度の青酸や一酸化炭素の強い阻害作用の知見から、鉄・ポルフィリンをもった酸化酵素(ワールブルク呼吸酵素とよばれた)の発見など、その後の細胞呼吸の研究の端緒をつくった。この研究で1931年ノーベル医学生理学賞を受けた。また金属を含まないフラビン酵素(黄色酵素)、糖代謝におけるペントースリン酸回路(ワールブルク‐ディケンス回路)、六炭糖リン酸脱水素酵素、NADP(TPN、助酵素Ⅱ)などを発見した。光合成に関しては、光量子(光子)収量を最初に測定した。癌については、癌細胞の代謝に関する先駆的な研究を行った。
[宇佐美正一郎]
ワールブルク(Emile Gabriel Warburg)
わーるぶるく
Emile Gabriel Warburg
(1846―1931)
ドイツの物理学者。ハイデルベルク大学でキルヒホッフに学び、実験物理学にひかれる。1872年、ストラスブールのカイザー・ウィルヘルム大学(現、ストラスブール大学)で、クントとともに気体の統計理論を研究、気体の熱伝導と比熱に関する法則を発見した。1876年から20年間、フライブルク大学で、気体の研究を続けるとともに、強磁性体の磁化における履歴現象(ヒステリシス)の実験的発見と理論的説明、物質の電気伝導、ガス放電などの研究を行っている。研究者であると同時に実験物理学の優れた指導者でもあって、1895年ベルリン大学教授となってから、多数の学徒が彼のもとから巣立ち、近代物理学の発展を担った。主著『実験物理学教科書』(1893)は、彼の生存中だけでも22版を重ねた。息子オットーは生理学者として知られる。
[今野 宏]