ウラジーミル(英語表記)Vladimir

精選版 日本国語大辞典 「ウラジーミル」の意味・読み・例文・類語

ウラジーミル

(Vladimir) ロシア連邦モスクワ東方の古都。ウスペンスキー寺院など著名な古寺が多い。

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デジタル大辞泉 「ウラジーミル」の意味・読み・例文・類語

ウラジーミル【Vladimir/Владимир】[地名]

ロシア連邦西部、ウラジーミル州の都市。同州の州都。首都モスクワの北東約190キロメートル、ボルガ川の支流クリャジマ川沿いに位置する。「黄金の環」と呼ばれるモスクワ北東近郊の観光都市の一つ。12世紀初頭、ウラジーミル=モノマフが要塞を築いたことに起源する。12世紀半ば、アンドレイ=ボゴリュープスキーがウラジーミルスーズダリ公国の首都とし、13世紀半ばにモンゴル帝国に侵略されるまで繁栄した。市街には黄金の門ウスペンスキー大聖堂ドミトリエフスキー聖堂など、白壁の建造物が残り、1992年に「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。

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改訂新版 世界大百科事典 「ウラジーミル」の意味・わかりやすい解説

ウラジーミル
Vladimir

ロシア連邦,ヨーロッパ・ロシア中央部にある同名州の州都。人口31万0496(2004)。モスクワの北東190km,モスクワとニジニ・ノブゴロドを結ぶ中間点,クリャズマ川(オカ川の支流)河畔に位置する。市の歴史は,ウラジーミル・モノマフが1108年,この地に要塞を築いたのに始まる。57年アンドレイ・ボゴリュプスキーがここをウラジーミル・スーズダリ公国(〈ウラジーミル大公国〉の項参照)の首都とするに至って特に発展し,すでに衰退しつつあった当時のロシア(キエフ・ロシア)の首都キエフと対照的に,大きな政治的意味を獲得してゆく。1299年にはロシア教会の長のキエフ府主教座もキエフを去り,この地に居を構えるに至る。しかしウラジーミルの繁栄は長続きせず,このころから急速に発展し始めたモスクワの前に影響力を失う。早くも1326年には府主教がモスクワに移り住むようになった。ウラジーミルはその後,モスクワ・ロシア(およびのちのロシア帝国)の一地方都市として存在するにすぎなくなる。19世紀の革命史上名高い〈ウラジーミル街道ウラジーミルカ)〉はモスクワからこの市に至る街道をさしており,何千人もの政治犯がここを通ってシベリアの流刑地に駆りたてられた。今日,市は数少ないロシアの古都の一つとして,モスクワを起点・終点とする観光ルート〈黄金の環〉の重要な要素となっている。また,工業都市としても発展し,トラクター,電動機,電気器具等の機械製造を中心として,人造レジン,プラスチック等の化学製品,建築材料の製造も盛んである。なかでも,ウラジーミル・トラクター工場は,ロシア有数のトラクター工場である。
執筆者:

12世紀にウラジーミルは,ビザンティン芸術の吸収に努めるかたわら,建築や美術の分野で早くもロシア的伝統の芽生えを物語る作品を生み出した。近郊ネルリ河畔のポクロフ聖堂(1165)もその一つで,当時のこの地方特有の浮彫で飾られた切石組みの外壁や,半円形破風を連ねた軒端を持つ,ロシア風のギリシア十字式聖堂である。同じ様式の作例に,市内のウスペンスキー大聖堂(1189)とドミトリエフスキー聖堂(1197)がある。前者の堂内の壁画の一部には,同時代のギリシア人もしくは土地の弟子の筆になる聖人像や,15世紀初頭のルブリョフによる〈最後の審判〉,また後者の堂内には,明らかに当代ギリシア人画家の手になる〈最後の審判〉の図が残る。クニャギーニン女子修道院内のウスペンスカヤ聖堂(15~16世紀)は,ロシアの聖堂に多い3層の蓮弁状破風を備え,堂内の壁画は同時代の豊富な図像で知られる。12世紀に建設された市門のうち唯一の遺構が〈黄金の門〉(1164。現在のものは17~18世紀に再建されたもの)で,当時の軍事工学の水準を伝える。近郊ボゴリューボボの宮殿址に残る鐘楼の基部は12世紀の貴重な遺構。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウラジーミル」の意味・わかりやすい解説

ウラジーミル
うらじーみる
Владимир/Vladimir

ロシア連邦西部、ウラジーミル州の州都。モスクワの北東約190キロメートル、クリャジマ川左岸の港市で、ロシアの古都として知られている。人口33万9200(1999)、34万6922(2012推計)。ロシア革命後、工業都市として発展し、主要工業はトラクター、自動車部品、モーター製造、化学(プラスチック)、軽工業、建築資材工業である。多くの建築記念物があり、多数の外国人観光客が訪れる。12世紀建造の「金の門」、ウスペンスキー寺院などがあり、多くの美術品が保存されている。さらにウラジーミルとその北方26キロメートルにあるスズダリには白壁の建造物群が多く残されており、1992年世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。工科大学、教育大学、人形劇場がある。鉄道の分岐点。

[中村泰三]

歴史

市の起源は、1108年ウラジーミル・モノマフ公がこの地に要塞(ようさい)を築いたのに始まる。1157年、アンドレイ・ボゴリュープスキー公がここをウラジーミル・スズダリ公国の首都とするに至ってとくに発展し、当時のロシアの首都キエフ(現、ウクライナのキーウ)にかわって新たな政治的中心となっていく。1299年には、ロシア教会の首長たるキエフ府主教もこの地に居を構えるに至った。だがウラジーミルの繁栄は長続きせず、このころから急速に台頭してきたモスクワの前に影響力を失う。1326年には府主教もモスクワに移った。以後、ウラジーミルはモスクワ(および後のロシア)国家の一地方都市にすぎなくなった。

[栗生沢猛夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウラジーミル」の意味・わかりやすい解説

ウラジーミル
Vladimir

ロシア西部,ウラジーミル州の州都。モスクワの東北東約 180km,クリャジマ川に臨む河港都市。1108年ウラジーミル2世(モノマフ)が建設した古都で,クリャジマ川沿いの交易で繁栄。1157年アンドレイ・ボゴリュプスキーウラジーミル=スズダリ公国の首都をここに移し,多くの建築物を建てた。その後数回にわたりタタール人の侵攻を受け,しだいに衰退した。ロシア革命後,工業都市として発展。繊維(綿,アマ),機械(モータ,自動車部品,トラクタ),化学(プラスチック)などの工業が発達している。教育大学,工科大学がある。モスクワとニジニーノブゴロド(旧ゴーリキー)を結ぶ鉄道,ハイウェーが通る。ウラジーミル=スズダリ公国時代に建てられたウスペンスキー大聖堂(1158~60),ドミトリー聖堂(1194~97)などが現存し,1992年スズダリの建造物群とともに世界遺産の文化遺産に登録。人口 34万5598(2010)。

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百科事典マイペディア 「ウラジーミル」の意味・わかりやすい解説

ウラジーミル

ロシアのキエフ大公(在位980年―1015年)。周辺の東スラブ諸族を討って領土を拡大。南方のブルガール人を征討,小アジアにも出兵。ビザンティン皇帝バシレイオスの妹アンナと結婚,989年ギリシア正教(東方正教会)を国教とした。以後ロシアはビザンティン帝国の政治的・文化的影響下にはいった。→キエフ・ロシア

ウラジーミル

ロシア中央部に位置する同名州の州都。モスクワの東約180km,クリャズマ川に面する12世紀来の古都で,世界遺産に指定されているウスペンスキー寺院(12世紀末)などの建築物が残存するロシアの数少ない古都。モスクワを起終点とする観光ルート〈黄金の環〉の重要なポイントでもある。北方26kmの古都スーズダリとともに,白壁で多くは浮彫装飾の付いた建造物群が1992年世界文化遺産に登録された。トラクター,電気機器などの工場がある。33万8724人(2009)。

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世界大百科事典(旧版)内のウラジーミルの言及

【ロシア・ソビエト美術】より


[ビザンティン様式のロシア化]
 こうしたロシア化は,建築を風土に適応させることによって,あるいは従来の木造建築からの影響,地域性,象徴的な意味づけなどによってもたらされた。ロシア化の初期の代表例として,白石材を用いロマネスク風の浮彫外壁装飾を施した,まことに端正な美しさをもつウラジーミル地方の教会堂群と,14世紀から約1世紀の間ノブゴロド地方に現れた変形の屋根をもった教会堂群などが挙げられる。ビザンティン帝国が滅亡した15世紀中葉以後は,ビザンティン的な様式からますます離れて民族性が強められた。…

※「ウラジーミル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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