改訂新版 世界大百科事典 「ギリシア科学」の意味・わかりやすい解説
ギリシア科学 (ギリシアかがく)
古代ギリシア人によって推進,展開された科学の総称。古代ギリシア文化圏において形成され,ビザンティン,アラビア,中世ヨーロッパおよびルネサンスへと伝承されたほぼ2000年にわたる歴史をもつ。
ギリシア科学の形成と展開
古代ギリシア科学は,前6世紀に小アジア沿岸の植民地イオニアに誕生した。ここはオリエントの先進文明圏に接しており,そこから多くの文化遺産を受け入れたが,オリエントとは一線を画する新たな知の形態がつくり出された。それはまず第1にオリエントの科学が個別的事実を記録し収集するのにとどまったのに対し,ギリシア科学はそれを統一的原理により一般的に説明しようとした。第2にオリエントでは,ある事象が起こった原因を説明しようとする場合,それを神々の意志や行為に帰す神話(ミュトス)の形をとったが,ギリシア科学ではそうした超自然なものはいっさい排除して,あくまでも自然的なものに即して合理的説明(ロゴス)を貫徹した。こうした非宗教的で合理的な新しいタイプの科学が古代ギリシアに生まれえたのは,オリエントにおけるような僧侶階級が存在せず,宗教的な集団表象から自由に,ポリスの市民個人が互いに平等な議論を通してロゴスを交換しつつ,彼らの考えを発展させていったからであると考えられる。このように神話を脱して経験に基づき,理性による論証によって理論的研究(テオリア)を深めていったギリシア科学の発展は,次の三つの時期に分けることができる。(1)植民市期の科学(前600-前450),(2)アテナイ期の科学(前450-前300),(3)アレクサンドリア期の科学(前300-後250)。
(1)植民市期の科学 ギリシア科学はイオニアの都市ミレトスに始まった。ここは〈当時生を享けたあらゆる賢者〉の集まったリュディアの都サルディスに近く,そこを介して早くからオリエントの進んだ文化を吸収したのみならず,植民市の中でもその産業(毛織物)によってもっとも栄え,エジプトをはじめ広く地中海周辺に活発な通商活動を行っていた。そしてさらに隣国リュディアの弱体化に伴い,まさにオリエントに対する自己の社会的文化的アイデンティティの確立が促されているときであった。こうした状況を背景としながら,まずタレスは,万物の〈もとのもの(アルケー)〉を〈水〉であるとし,宇宙の森羅万象をこの水という物質的基体の生成変化として説明する。それまでの伝統的な〈神々の生成の物語(テオゴニア)〉はここに現実的な〈宇宙生成論(コスモゴニア)〉へと転換された。ついでアナクシマンドロスは,アルケーはすでに限定をもっている〈水〉ではなく,それ以前の〈無限定なもの(ト・アペイロン)〉であるとし,これから乾-湿,温-冷の対立物が分離し,さらに地,水,空気,火の四大元素が形成され,それによってどのように宇宙や天体がつくられるかを具体的,合理的に論究した。さらにアナクシメネスは無限な〈空気〉をアルケーとし,これが〈濃厚化〉したり〈希薄化〉することによって万物が生ずると考え,はじめて生成変化の起こるしかたを示した。このミレトスの生成の自然学は,〈火〉をアルケーとして〈万物流転〉を説いたエフェソスのヘラクレイトスにより一般化され,すべてのものは〈上り道〉(地→水→空気→火)と〈下り道〉(上と反対の変化)の過程にあるとされた。
しかしこのようなイオニアの生成変化の考え方は,イタリアのエレア出身の思索家パルメニデスの〈存在〉の論理の批判の前に一つの危機に逢着する。パルメニデスによれば,真理の世界は〈有るものは有り,有らぬものは有らぬ〉という基礎原理によって貫かれるもので,このような自同的原理に矛盾しない不変不動の一者たる〈存在(ト・エオン)〉のみが真の認識の対象となる。したがってイオニアの自然学者の説く〈生成変化〉はこの原理にもとる,感覚にあざむかれた〈臆見(ドクサ)〉にすぎないというのである。こうしたエレア学派の批判により,イオニアの自然学は根本的な修正を余儀なくされ,そこに多元論者が登場する。エンペドクレスやアナクサゴラスは,それぞれ,パルメニデスの〈存在〉と同様にそれ自身不変で自同的ではあるが,しかし互いに性質を異にする〈万物の四つの根〉(地,水,空気,火)や無数の〈万物の種子〉を認め,これらの離合集散によって,すべての生成変化を説明しようとした。これに対しデモクリトスは無数の質を同じくする不変な〈原子(アトム)〉が互いに形態や配置や位置を異にし,〈空虚〉のなかを運動して結合分離することにより森羅万象が生ずるとした。このデモクリトスの原子論はイオニアの自然学のもっとも徹底した姿を示している。しかしこうした自然学の系譜のほかに,もう一人重要な人物がいる。それはサモスに生まれ,イタリアのクロトンで活躍したピタゴラスである。彼は〈水〉や〈空気〉や〈原子〉のような素材ではなく,そうした素材を秩序づける〈数〉を重視したが,とくに音楽における〈調和音程〉の発見に基づいてこの世界における数学的秩序の普遍的存在を確信し,ギリシアに特有な数学的自然観を樹立し,後世に大きな影響を与えた。
(2)アテナイ期の科学 ペルシア戦争が終わると,アテナイは文字どおりギリシア文化の中心となり,この都にソフィストをはじめとする多くの知識人が集まってきた。ここにイオニアの自然学をもち込んだのは,ペリクレスの友人となったアナクサゴラスである。ソクラテスもはじめはこうした自然学に興味を示したが,そこには自然の構造が〈善く〉〈正しく〉つくられているゆえんがなんら説明されていないのを見いだして失望し,むしろ善き〈魂の配慮〉を求めて倫理的規範の問題に探究を移し,そこにあるべき理想,理念としての〈イデア〉を発見した。プラトンはこれをうけついで,イデアを倫理的行為の問題だけではなく,再び自然学のなかにとり入れ,その著《ティマイオス》において創造者(デミウルゴス)がイデアを〈範型〉としてこの宇宙をつくり上げる独特の数学的自然学を展開した。彼はまたアカデメイアという研究所をつくり,〈哲人王〉たるための哲学をきわめると同時に,イデア的考察に資するものとして純粋数学や理論天文学の研究をエウドクソスらとともに推進した。
プラトンのイデア論とイオニアの自然学とをある意味で統合したのがアリストテレスである。イデアを個物の本質としての〈形相(エイドス)〉としてとらえ,同時にイオニアの自然学がとりあげていた物質的構成要素を,素材としての〈質料(ヒュレー)〉として組み入れ,いっさいの存在をこうした〈形相〉と〈質料〉の不可分な結合において把握するのである。さらに彼はこの形相-質料という対概念を,みずからの生物学研究から得られた〈発展〉の考えを媒介することによって,いっそう動的な現実態-可能態の対概念としてとらえかえす。〈現実態(エネルゲイア)〉とはそうした発展の究極の〈目的〉としての形相を実現した状態であり,〈可能態(デュナミス)〉とはそうした形相をいまだ実現せず,それを内に潜在的に秘めている状態である。一般に〈運動変化(キネシス)〉とはこうした可能態から現実態への移行であり,自然はそうした運動変化の原理をみずからのうちにもつものであり,一定の目的に向かってその形相を実現すべくすすむ。このアリストテレスの考え方は,デモクリトスの原子論の機械論的自然観に対する,生物学的な生気論的自然観であり,彼はリュケイオンLykeionの学校でこうした自然観に基づく研究を広く推し進め,テオフラストスらの弟子たちを生み出していった。同じ時期に,アテナイにおけるこうした自然学とは別に発展したギリシア科学のもう一つの重要な流れは,小アジア沿岸のコス島を中心に発達したヒッポクラテスの医学である。ヒッポクラテス自身はソクラテスと同時代の人であるが,いわゆる《ヒッポクラテス全集》は,彼自身の著作だけでなくアリストテレスの時代にまで至る多様なものを含んでいる。それはイオニアの自然学と同様に,超自然的なものを排して経験を重んじ,四体液説に拠りながらも哲学的思弁には深入りせず,〈自然の治癒力〉をもとにして予後と摂生を重視し,注意深い観察と冷静な判断を行って,ギリシアの実証的で合理的な精神をみごとに体現している。
(3)アレクサンドリア期の科学 アリストテレスの死後,科学研究の中心は,しだいにアテナイからエジプトのアレクサンドリアに移ってゆく。このことはテオフラストスを継いだリュケイオンの学頭ストラトンが,ついにアレクサンドリアに移ったことによっても象徴されている。ここではプトレマイオス朝の君主が学術研究の殿堂ムセイオンを建て,あらゆる研究施設(図書館,天文台,実験室,解剖室など)を整えて科学研究を熱心に奨励した。そこで科学は制度化,専門化され,アテナイ期の哲学的議論を超え出た高度に技術的かつ精密な科学が発達した。このヘレニズム科学を代表する学者としては,数学におけるユークリッド(エウクレイデス),ペルゲのアポロニオス,ディオファントス,物理学におけるアルキメデス,天文学におけるサモスのアリスタルコス,ニカエアのヒッパルコス,プトレマイオス,地理学のエラトステネス,解剖学・生理学におけるヘロフィロス,エラシストラトス,ガレノスらがいる。プトレマイオス1世の下で活躍したユークリッドはいわゆる〈ユークリッド幾何学〉の大成者で,パルメニデス,プラトンに発する厳密な論証の理念をうけつぎ,さらにエウドクソスやテアイテトスTheaitētosの先駆的業績を集大成しながら不朽の名著《ストイケイア》を完成した。アルキメデスはシチリアのシラクサの出であるが,アレクサンドリアに学び,ここの科学者たちと密接な関係をもっていた。公理論的に〈つりあい〉の静力学的基礎をつくり上げた《平面の平衡》や,〈アルキメデスの原理〉を発見してヒエロン2世の王冠の比重の測定に資した《浮体について》などは有名である。2世紀にアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは,アポロニオスやヒッパルコスにより開発された〈周転円〉や〈離心円〉のテクニックを用いて,地球中心の天動説の精密な体系をつくり出したが,その著《アルマゲスト》はその後の天文学の権威となった。ガレノスは130年ころペルガモンに生まれ,マルクス・アウレリウス帝の侍医としてローマで活躍したが,アレクサンドリアにも学んだのでこの地と無縁ではない。彼はヒッポクラテスの伝統にのっとり,これをアリストテレスの目的論で補完し,みずからも解剖を行い,三つのプネウマ(精気)を用いて生理学の体系をつくった。ディオファントスはオリエントの数学も吸収し,記号的代数学への途を歩んだアレクサンドリアの最後の独創的数学者。
ギリシア科学の行方
ディオファントス以後,ギリシア科学はその創造的な歩みをとめてしまう。ローマ人は土木や水道などの工学的方面に大きな才能を発揮したが,ギリシアの高度な理論科学を継承発展させる力はなかった。そしてこうしたギリシア科学は分裂後の東ローマ(ビザンティン)帝国にうけつがれ,さらに750年の〈アッバース朝革命〉以後は,カリフの保護の下にバグダードを中心とするアラビア文化圏に移入される。12世紀になると,アラビア語訳されたギリシアの科学書をさらにラテン語訳するというしかたで,スペインのトレドを中心にラテン西欧世界にギリシア科学がとり入れられることとなる。同時にギリシア語から直接ラテン語訳する翻訳運動も並行してあり,こちらはシチリア島を中心に行われた。さらに14世紀末以来,ビザンティン帝国はオスマン帝国によって圧迫され,多くの学者がイタリアに移住したが,このときもたらされたギリシア語写本をもとにして,またルネサンス期に新たなラテン語訳,近代語訳が試みられ,それらが12,13世紀の翻訳ともども西欧近代科学形成の出発点をつくることになったのである。
→アラビア科学 →ギリシア哲学 →中世科学
執筆者:伊東 俊太郎
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