クラウディウス(英語表記)Matthias Claudius

改訂新版 世界大百科事典 「クラウディウス」の意味・わかりやすい解説

クラウディウス
Matthias Claudius
生没年:1740-1815

ドイツの抒情詩人,ジャーナリスト。リューベック近郊に牧師の子として生まれ,イェーナで神学と法学を修める。生涯の大半をハンブルク郊外の閑静の地ワンツベックで過ごした。1771-75年,《ワンツベック新報》を発行。その文芸欄に〈アスムス〉のペンネームで寄稿した詩や評論を編集し,75年,同じ《アスムス》の表題で出版。好評を博したこの著作集は1812年まで継続した(全8部)。詩《夕べの歌》や《死と乙女》(シューベルトによる作曲)などは有名である。素朴で真摯な信仰,新鮮な自然感情,こまやかな人間愛の融合した独自の世界をみせ,しばしば機知と空想で読者を楽しませる点では,イギリスの小説家スターンの影響が感じられる。フランス革命以後は保守的な姿勢を強め,《アスムス》にもこれが反映した。晩年にはフランスのフェヌロンの宗教論集を翻訳し(3巻,1800-11),カトリックへの傾向を示している。
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クラウディウス
Appius Claudius Caecus

前4世紀の古代ローマの政治家。生没年不詳。ローマ史上,個性の明らかな最古の人物。パトリキ貴族の出であるが,公共事業に力を尽くし,一般民衆のために意を注いだ。前312年のケンソル,前307年と前296年のコンスル執政官)。ケンソルとして,アッピア水道アッピア街道を建設し,宗教政治上の諸問題を解決し,土地を所有しない市民をトリブスにくりいれ,解放奴隷の子息で元老院を補充した。サムニウム人エトルリア人と戦い,ピュロス戦争では雄弁と豪勇さを示した。ローマ文学の開拓者の一人でもある。
執筆者:


クラウディウス
Appius Claudius Crassus

前5世紀のローマの政治家。生没年不詳。前471年コンスル,前451-前450年立法のための十人委員decemvirに選出され,有力貴族として十二表法の制定に指導的役割を演じた。前450年の十人委員の半数を平民にも開放し,それと引きかえに護民官職の廃止をもくろんだと思われる。しかし十人委員は独裁に陥り,彼自身は平民女性ウェルギニアに横恋慕し,これを強奪しようとして死に至らしめて信望を失い,暗殺された(または自殺した)と伝えられる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラウディウス」の意味・わかりやすい解説

クラウディウス
くらうでぃうす
Matthias Claudius
(1740―1815)

ドイツの詩人。リューベック近くのラインフェルトに牧師の息子として生まれる。生涯を文壇の片隅に甘んじた。彼の詩作は自然、民衆、自己の内なる声を深い感受性で歌う。詩集『月はのぼりぬ』『子守歌』がよく知られている。雑誌『ウァンツベック通信』を1771年から75年にかけて発行する。そのなかには、エンゲルベルト・ケンペルの『江戸参府紀行』からヒントを得たと思われるアスムスなる人物の『日本の皇帝にお会いした記録』という江戸初期の日本を扱ったユーモラスな小品が載っている。シューベルトによって歌曲に作曲された詩『死と乙女』などが有名である。

[金森誠也]


クラウディウス(2世)
くらうでぃうす
Claudius Ⅱ
Marcus Aurelius Claudius Gothicus
(219―270)

ローマ皇帝(在位268~270)。ダルマチアに生まれる。ガリエヌス帝の治世に高級将校となり、同帝の暗殺後、皇帝に推挙された。北イタリアに侵入したアラマン人を撃退したが、分離独立していたガリア帝国を制圧することはできなかった。それにもかかわらず、彼はドナウ川地域に侵攻するゴート人を駆逐して屈服させ、多数のゴート人を兵士や小作農民として迎え入れた功績のために、「ゴーティクス」(ゴート人征服者の意)の異名でよばれている。ドナウ地方の秩序回復に尽力中、疫病にかかって没した。元老院との関係が比較的良好であったうえに、のちにコンスタンティヌス大帝が彼の後裔(こうえい)を名のったことから、彼の名声は死後も高まった。

[本村凌二]


クラウディウス(1世)
くらうでぃうす
Claudius Ⅰ
Tiberius Claudius Drusus Nero Germanicus
(前10―後54)

ローマ皇帝(在位41~54)。ティベリウス帝の弟ドルススと小アントニアとの末子。教養豊かであったが、病弱のため、赫々(かっかく)たる軍功をたてた兄ゲルマニクスの陰に隠れて目だたなかった。甥(おい)カリグラ帝の暗殺後、近衛(このえ)軍に推挙され、51歳で皇帝に即位。堅実な政治を行い、ブリタニアトラキア、アフリカを属州とした。しかし、しだいに側近として権力を握った解放奴隷や皇后に動かされるようになった。3番目の妃メッサリナを、その愛人とともに自分の暗殺を図ったとして処刑したが、次の妃アグリッピナ(小)によって、彼女の連れ子ネロを皇帝にするため、54年毒殺されたといわれる。

[島 創平]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クラウディウス」の意味・わかりやすい解説

クラウディウス
Claudius Caecus, Appius

前4~3世紀のローマの政治家。アッピア街道の建設者。前 312年戸口総監 (ケンソル ) 。下層市民を元老院議員とし,無産市民,解放奴隷に土地を分配,みずからの選挙基盤とした。さらに水道の建設でも名声を得た。前 307年執政官 (コンスル ) 。前 296年エトルリアと戦う。前 280年老齢で盲目となったが,エピルス王ピュロスの和平提案を拒否するよう元老院に勧告した。彼の政治的立場は,新興平民層に対立した反動貴族であったとも,僭主的なデマゴーグ,または産業,商業階層の代表者であったともいわれているが,都市の利益擁護の立場にあったことは明らかである。文筆面でも,対ピュロス和平拒絶の演説はローマの散文の最初の例であり,また G.フラウィウスの法律編集をも手伝った。

クラウディウス
Claudius, Matthias

[生]1740.8.15. ラインフェルト
[没]1815.1.21. ハンブルク
ドイツの詩人。イェナ大学で学び秘書や新聞記者などを経て文筆生活に入る。レッシングヘルダー,ゲーテとも親交があった。『月は上りぬ』 Der Mond ist aufgegangen,『死と乙女』 Der Tod und das Mädchenなど素朴,敬虔,深い心情を特徴とする美しい民謡調の抒情詩が多い。都会を嫌い生涯の大半をハンブルク近郊の寒村ワンツベクで過した。彼が発行した雑誌『ワンツベクの使者』 Der Wandsbecker Bote (1771~75) は当時の重要な詩人多数の協力を得て,注目を浴びた。

クラウディウス
Claudius Pulcher, Appius

[生]?
[没]前48
古代ローマの政治家。 A.クラウディウスの子。前 72~70年にかけてミトラダテス6世と戦う。前 57年法務官 (プラエトル) ,前 54年執政官 (コンスル) 。 M.キケロの追放解除に反対したが,反カエサル派のポンペイウス (大ポンペイウス) によってキケロと和解し,前 53~51年キリキア総督在任中,キケロと交遊した。ポンペイウスに従い,ギリシアでカエサルと対立したが,ファルサロスの戦いの前に没。

クラウディウス
Claudius, Tiberius (Julius)

[生]2頃. スミルナ
[没]92
古代ローマの解放奴隷。チベリウス帝に解放され,ドミチアヌス帝までの各皇帝に仕えた。ウェスパシアヌス帝により高官に取り立てられ,のちに騎士身分(エクイテス)とされ,ドミチアヌス帝に一時追放されたが,息子のとりなしで帰還。長寿をまっとうした。

クラウディウス
Claudius Etruscus

1世紀頃のローマの富豪。エトルリア人。ウェスパシアヌス帝より騎士身分 (エクイテス ) に取立てられる。のちドミチアヌス帝に願って父チベリウス・クラウディウスを追放から救った。詩人 P.スタチウス,M.マルチアリスの保護者でもあった。

クラウディウス
Claudius Pulcher, Publius

[生]?
[没]前246以前
古代ローマの軍人。前 249年執政官 (コンスル ) 。第1次ポエニ戦争中の前 249年,シチリアのドレパヌムのカルタゴ艦隊を攻め,大敗,123隻中,93隻を失いローマ艦隊に大打撃をもたらした。伝説では彼が戦闘の前,捧げ物の雛鶏を食べないで捨てたためとされている。

クラウディウス
Claudius Sabinus Inregillensis, Appius

前6~5世紀のローマの貴族。クラウディウス家の祖。サビニ人で前 504年頃ローマに移住,一族でローマ市民となる。前 495年執政官 (コンスル) 。彼の負債に関する立法は,プレプス (平民) のローマ退去事件 (セケッシオ ) を起した。

クラウディウス
Claudius Pulcher, Appius

[生]?
[没]前130
古代ローマの政治家。前 143年執政官 (コンスル) 。前 136年戸口総監 (ケンソル) 。筆頭元老院議員 (プリンケプス) として娘婿の T.グラックス (→グラックス兄弟 ) の改革を支持,農地分配の業務に協力した。

クラウディウス
Claudius Crassus, Appius

前5世紀頃のローマの政治家。パトリキ (貴族) の出であるが,プレプス (平民) と結び前 451年十人委員会 (デケムウィリ ) を指導して立法事業を行なった。のちプレプス弾圧に転じて反乱にあい失脚,自殺したとも暗殺されたともいわれる。

クラウディウス
Claudius Pompeianus, Tiberius

前2世紀のローマの政治家。アンチオキア出身。 167年下パンノニア総督。マルクス・アウレリウス帝の腹心として従軍,コンモドゥス帝の時代に引退した。その後ペルチナクス,ディディウス・ユリアヌス両帝から政界復帰を求められたが断った。

クラウディウス
Claudius Pulcher, Appius

[生]?
[没]前76
古代ローマの政治家。 A.クラウディウスの子。 L.キンナと対立。一時追放されたが,前 79年執政官 (コンスル) 。マケドニア遠征中に没。

クラウディウス
Claudius Pulcher, Gaius

[生]?
[没]前167
古代ローマの政治家,軍人。卜占官,法務官 (プラエトル) ,執政官 (コンスル) を歴任。騎士身分 (エクイテス) のギリシア人搾取を阻止しようとして反感を買った。マケドニア征討戦中に死没。伝統的,厳格な元老院派ローマ人の典型とされる。

クラウディウス
Claudius, Quintus

前3世紀末頃のローマの政治家。前 218年護民官 (トリブヌス・プレビス) 。元老院議員およびその子が一定額以上の海上貿易にたずさわるのを制限する立法を成立させた。この措置により騎士身分 (エクイテス) の商業進出が促進されることになった。

クラウディウス
Claudius Quadrigarius, Quintus

前2~1世紀のローマの歴史家。ガリア人のローマの劫略 (前 390頃) から彼の時代にいたるローマ史 23巻を著わす。文体は簡明,リウィウスに影響を与えた。

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百科事典マイペディア 「クラウディウス」の意味・わかりやすい解説

クラウディウス

ドイツの詩人。生涯を農村で過ごし,敬虔(けいけん)な新教徒として一生を送った。シューベルトの作曲で知られる《死と乙女》《子守歌》をはじめとする抒情詩,短文にすぐれる。

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世界大百科事典(旧版)内のクラウディウスの言及

【ローマ[市]】より

… 一方,しだいに市壁や大下水溝も設けられ,地方商業の中心としての町の外形も整っていく。その間,貴族と平民の身分闘争,近隣の諸共同体に対する戦争により国家ローマの力も伸長していき,前390年ガリア人の侵攻で一時町が破壊されたが,アッピウス・クラウディウスによる水道(ローマ水道)と街道(アッピア街道)の建設は,都市ローマの民生の安定と経済的発展に資し,ラティウム地方の政治的・経済的中心としての地位も確立する。次いでイタリア半島の平定,対外戦争の勝利により国家ローマが地中海世界の覇者となるとともに,ローマの町の経済的繁栄もめざましく,政争が渦巻き,半島各地からの無産者の蝟集(いしゆう)するところとなる。…

※「クラウディウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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