クレメンス(英語表記)Clemens

デジタル大辞泉 「クレメンス」の意味・読み・例文・類語

クレメンス(Clemens)

ローマ教皇17人の名。
(5世)[1264~1314]在位1305~1314。フランス王フィリップ4世に屈服し、教皇庁アビニョンに移した。アビニョン捕囚の最初の教皇
(7世)[1478~1534]在位1523~1534。メディチ家の出身。神聖ローマ皇帝カール5世に対抗し、ローマを奪われたが、のち和解。イギリス王ヘンリー8世の離婚に反対し、イギリス教会のローマからの分離を招いた。イタリア‐ルネサンス運動を保護、文芸を奨励した。

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精選版 日本国語大辞典 「クレメンス」の意味・読み・例文・類語

クレメンス

  1. ( Clemens ) ローマ教皇の名の一つ。
  2. [ 一 ] ( 五世 ) 第一九六代ローマ教皇(在位一三〇五‐一四)。フランス王フィリップ四世の圧力によって、居をアビニョンに移し、アビニョン捕囚の最初の教皇となる。(一二六四‐一三一四
  3. [ 二 ] ( 七世 ) 第二二二代ローマ教皇(在位一五二三‐三四)。メディチ家出身。皇帝カール五世と抗争し、ローマを占領略奪される。のち、イギリス王ヘンリー八世とも争い英国教会ローマ教会から分離させた。(一四七八‐一五三四
  4. [ 三 ] ( 一一世 ) 第二四六代ローマ教皇(在位一七〇〇‐二一)。スペイン継承戦争に介入して、失敗。フランスのジャンセニスムを抑圧した。(一六四九‐一七二一
  5. [ 四 ] ( 一四世 ) 第二五二代ローマ教皇(在位一七六九━七四)。フランスの圧力によって、イエズス会を禁止した。(一七〇五‐七四

クレメンス

  1. ( Clemens ) ギリシア神学者。師パンタイノスのあとを継ぎ、アレクサンドリア教校主宰信仰基礎とする知識グノーシス)の成立を説く。主著ギリシア人への勧告」「教育者」「ストロマタ(雑録)」。(一五〇頃‐二一五頃

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改訂新版 世界大百科事典 「クレメンス」の意味・わかりやすい解説

クレメンス(アレクサンドリアの)
Clemens
生没年:150ころ-215ころ

ギリシア教父。アテナイの生れと伝えられる。若いころキリスト教に改宗し,師を求めて各地を遍歴。アレクサンドリアの教理学校学頭のパンタイノスPantainosに師事し,2世紀末にはパンタイノスのあとを継ぐ。弟子にオリゲネスがいた。202年ごろ迫害でアレクサンドリアを追われ,カッパドキアに逃れ,その地で没した。著述のうち《プロトレプティコス(勧告)》は,ギリシア人を対象に異教の誤りを指摘し,キリスト教への勧めを格調高く述べたもの。《教育者》はグノーシス派の誤謬とキリスト教徒の道徳を論じたもの。そのほか,草稿のまま終わった《ストロマタ(雑録)》がある。彼はギリシア的教養の価値を積極的に認めようとした教会人らしからぬ教父で,グノーシスをはじめ異端の説にもよく通じていた。また比喩的な聖書解釈はオリゲネスの先駆をなすものといってよい。
執筆者:


クレメンス(ローマの)
Clemens
生没年:30-101

ローマの第2あるいは第3代監督。96-97年ころローマからコリントスの教会にあてて書かれた《クレメンスの第1の手紙》の著者と考えられる。初代教会で広く認められていた伝承によれば,彼はペテロの直接の後継者で,ペテロにより監督に任命されたと言われている。この説は今日では認められないが,クレメンスに対する高い評価の一面を物語るものと言えよう。彼の名を付した文書が多く存することも,その当時の彼に対する一般の見方を示すと言えよう。彼自身も使徒の後継者であるとの自覚をもち,その著作においては文体,形式をパウロの手紙にならい,使徒的権威をもって教えている。
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百科事典マイペディア 「クレメンス」の意味・わかりやすい解説

クレメンス[5世]【クレメンス】

ローマ教皇(在位1305年―1314年)。フランス国王フィリップ4世の圧力で1309年南仏のアビニョンに教皇庁を置き,以後〈教皇のバビロン捕囚(アビニョン捕囚)〉時代が始まる。アナーニ事件での譲歩,テンプル騎士団解放など,一貫してフランス王権の制肘(せいちゅう)下にあった。《クレメンス教令集》はその編になる。

クレメンス[7世]【クレメンス】

ローマ教皇(在位1523年―1534年)。メディチ家出身。政治家としては無能で,英国王ヘンリー8世の離反を招き,神聖ローマ皇帝カール5世とフランス国王フランソア1世の対立に翻弄されたが,学芸を愛好し,ミケランジェロの庇護者として知られる。

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世界大百科事典(旧版)内のクレメンスの言及

【ウルバヌス[2世]】より

…クリュニーの修道士から1080年ころ枢機卿となり,グレゴリウス7世のもとで教皇特使として教会改革および叙任権闘争に活躍。88年教皇となるが,皇帝ハインリヒ4世の推す対立教皇クレメンス3世Clemens IIIのために93年までローマに入ることができなかった。教会改革のため3回の教会会議(1095年ピアチェンツァ,クレルモン,1098年バリ)を開いたが,クレルモン会議では第1回の十字軍をも宣布した。…

【アビニョン】より

…歴代のアビニョン教皇によって都市は整備され,教皇庁関連の諸施設が立地するにおよんで,一躍ヨーロッパ・キリスト教の枢要の地に成長した。それぞれベネディクトゥス12世およびクレメンス6世による,旧宮殿と新宮殿の建設によって,1.5haにおよぶ巨大な教皇庁舎が完成した。旧宮殿は簡素に,新宮殿は豪華に築かれたが,同時代にあっては,群を抜く大きさであった。…

【フリーメーソン】より

…イギリスで発生すると,それはたちまち大陸に波及して,30年代にはとりわけフランスで勢力を拡張したが,その理神論的傾向はただちにカトリック教会の反発を買った。38年教皇クレメンス12世は,フリーメーソンに加入することを〈教会と正当なる国家権力に反する活動〉とみなして破門宣告の教書を発した。一方,プロテスタント牧師の入会者が少なくないところからして,プロテスタント側の評価はそれほど否定的ではない。…

【アレクサンドリア学派】より

…(2)180年ころ,パンタイノスによりアレクサンドリアに設立された一種の私塾(アレクサンドリア教校)に形成された学派。この教校はアレクサンドリアのクレメンスオリゲネスへと継承され,新入信者へのキリスト教教理の問答による教授が行われた。その学風は聖書を比喩的に解釈し,〈旧約〉を〈新約〉の予型とみなすところに特色があり,聖書の文献学的研究を重視するアンティオキア学派に対する。…

【神学】より

… 古代東方神学はギリシア的なテオロギアの名称と思惟方法を取り入れてキリスト教を弁証しようとする2世紀のユスティノスらの弁証論者にはじまる。アレクサンドリアのクレメンスのあとをうけてこの方向で最初に体系的な神学を生み出したのは3世紀のオリゲネスである。その著《原理論》は教会的信仰を土台としつつ,解釈学的意図を明確にした聖書釈義を駆使して思弁的にも高度に展開された教義学である。…

【キリスト教】より

…キリスト教徒の迫害についてはタキトゥスなどの史家も触れているので,われわれは初代教会の歴史をある程度は知っていると思いがちであるが,実際には,教義,典礼,教会組織に関する確実な史料はきわめて乏しい。1世紀末の使徒教父クレメンスがコリント教会にあてた《クレメンスの第1の手紙》を見ると,すでにローマの教会がコリント教会の内紛に対し使徒の権威を主張している点が注目される。 キリスト教は都市型の宗教で,都市を中心に教会を築いていった。…

【クレメンスの手紙】より

…96‐97年ころ,ローマ教会の名でコリント教会にあてて書かれた手紙で,同教会内の混乱を収拾することが直接の目的であった。実際の著者はローマの第2あるいは第3代監督クレメンスといわれ,通常,偽書である第2の手紙と区別して《クレメンスの第1の手紙》と呼ばれる。本書の構成を見ると,最初から公の礼拝において朗読されるようにもくろまれたことがわかる。…

※「クレメンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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