サティヤーグラハ
さてぃやーぐらは
Satyāgraha
インド民族運動指導者ガンディーが、1894年から1914年までの南アフリカにおけるインド人年季雇用労働者の公民権獲得闘争を通じて生み出した運動形態に対して与えられた名称。それ以後のインドでの2度にわたる彼の指導による大衆的反帝闘争がこの名でよばれる。サティヤ(真理)とアーグラハ(把握、主張)の二語の合成語。一般に「市民的非服従」運動とも称されるが、内容をとって「非暴力抵抗」闘争との訳が与えられる。ハルタール(店舗や工場などの全面的作業停止)やイギリス支配の行政業務への非協力などを具体的内容とするこの運動は、20世紀初頭にティラク、パール、ラージパト・ラーイら民族派指導者の生み出した「受動的抵抗」の線上にあるが、ガンディーはこれにいっそう深い思想的意味を与えた。彼によれば、それは個人あるいはあるグループの人々による受動的抵抗であるが、自ら苦難を求めることで相手(敵)の良心に訴えかけ、その心に変化をもたらそうとするものであり、それはまた、真理と非暴力への絶対的信頼に基づく魂の力によって、社会的、政治的困難を排除する方法であるという。
インド民族運動の過程では、第一次世界大戦後の1919~22年と、インドも世界恐慌に巻き込まれた時期の1930~34年の二度、彼はこの名でよばれる大衆運動を指導し、農民を含め、インド全域に及ぶあらゆる階級、階層の人々を反英運動へと糾合した。その意味でインドの反帝国主義闘争史上に大きな意義をもつ。しかし、いずれの場合もガンディー自身の形而上(けいじじょう)学的な「非暴力」理念の枠組みが絶対視され、その枠外へ大衆運動が発展していくのに対して彼自らの口から停止命令が出され、運動のより広い展開を阻害した。ただ農民、労働者たちは、それ以後もしばしば自らの階級的要求を掲げた運動に対しても、このサティヤーグラハという呼称を用い続けたことは注目される。
[内藤雅雄]
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サティヤーグラハ
satyāgraha
〈真理(サティヤ)の把捉(アーグラハ)〉の意で,インド独立の父といわれるM.K.ガンディーの政治闘争の理念。ガンディーは,1893年南アフリカにインド人商社の顧問弁護士として赴いた(1914まで)が,同地での厳しい人種差別政策に抗して,インド人移民の基本的人権を確立する闘争を指導した。そのなかで彼は,この闘争は正義の闘争であり,究極の真実をつかみ,この世から悪をなくすことを目的とする,そして,この目的のためには,暴力という〈非真実〉に暴力で対抗することなく,自らを厳しく律することができなければならないとした。サティヤーグラハは,指紋登録を強制する新アジア人法への反対運動から本格的に展開され,大きな成果を収めたが,これは,いかなる弾圧にも非暴力で抵抗するという,のちのインド独立運動にたいするガンディーの指導原理の基礎となった。
執筆者:宮元 啓一
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「サティヤーグラハ」の意味・わかりやすい解説
サティヤーグラハ
インド独立闘争の過程で,M.K.ガンディーが提唱した運動方針。ヒンディー語で〈真理の把持〉の意。非暴力(アヒンサー)と不服従による反英独立抵抗闘争をいう。1906年,南アフリカでのインド人差別反対運動に際して主張され,1920年には国民会議派の闘争方法として正式に採択された。1919年―1922年,アムリットサルの虐殺およびローラット法への抗議,1930年の塩の専売への反対という,2次のサティヤーグラハ闘争がガンディーによって指導された。
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サティヤーグラハ
Satyagraha
インド独立の指導者 M.ガンジーが提唱した非暴力抵抗運動。ガンジーは南アフリカでインド人に対する迫害,差別と戦う非暴力運動を進めるうち,非暴力にあたる英語の non-violenceでは弱いと考え,「真実と愛から生れる力」を意味するヒンディー語「サティヤーグラハ」を使うようになった。この運動が初めて提唱されたのは,1906年南アフリカ政府がすべてのインド人に指紋を登録させる法律を制定したときであった。ガンジーの指導で,インド人のデモ行進などが組織され,投獄も辞さず登録を拒否した。ガンジーは帰国後,反英抵抗運動にも,この非暴力を武器にして戦い,20年にはインド国民会議派の正式の闘争方式となった。具体的な方法としては,インド政府の法令を無視する,イギリス人官吏の命令には従わない,税金を払わない,ストライキをするなどの手段がとられた。
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サティヤーグラハ
satyāgraha
ガンディーの提唱した非暴力・不服従運動をさす。1893年から南アフリカに滞在したガンディーは,インド人差別への反対運動を指導するなかで,非暴力的な手段で不当な法や支配に抵抗することを主張した。この運動形態は当初は「受動的抵抗」と呼ばれたが,ガンディーはまもなく「真理の堅持」を意味する「サティヤーグラハ」という言葉を採用し,これを広めた。ガンディーが1915年にインドに帰国したのちには,インド人がイギリス支配への抵抗を示す手段として,あるいは,農民,労働者,下位カーストなどがみずからの経済的・社会的条件の改善を訴える手段として,サティヤーグラハを組織するようになった。
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サティヤーグラハ
satyāgraha
インド独立の父ガンディーの非暴力闘争の理念となった造語
サティヤは真理,アーグラハは把握を意味する。ガンディーは南アフリカの人種差別反対闘争からこの指導原理を確立したとされ,この世から悪を駆逐するために自らも律することを求めた理念といえる。これはインド独立の際展開された非暴力・不服従運動の理念として受け継がれていった。
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世界大百科事典(旧版)内のサティヤーグラハの言及
【ガンディー】より
…93年にある訴訟事件の依頼で南アフリカのナタールに渡ったことでその人生はコペルニクス的転換を見る。すなわちそこに働くインド人年季契約労働者の市民権獲得闘争を指導することとなり,自ら〈[サティヤーグラハ](真理の把持)〉と名付ける大衆的非暴力抵抗運動を成功に導く。22年間アフリカに滞在し,第1次大戦勃発後の1915年1月インドに戻る。…
【非暴力】より
…一般的には暴力を用いないことであるが,インド独立運動の父マハートマー・[ガンディー]によって政治理念として掲げられ,非協力不服従の粘り強い運動の根幹をなす。彼が南アフリカでインド人の人権擁護のための政治運動の理念として案出した〈[サティヤーグラハ](真理の把捉)〉に起源を有する。この非暴力の原語はアヒンサーahiṃsāであるが,これは元来,古代のベーダの祭りの重要な要素として家畜を殺害すること(ヒンサー)に対して,輪廻とそこからの解脱を唱える人々によって強調された大きな徳目で,あらゆる生物を傷つけたり殺したりしないことを意味する。…
※「サティヤーグラハ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」