ジェームズ1世(読み)ジェームズいっせい(英語表記)James I

改訂新版 世界大百科事典 「ジェームズ1世」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ[1世]
James Ⅰ
生没年:1566-1625

イギリス国王イングランドスチュアート朝初代国王。在位1603-25年。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位1567-1625)。メアリー・スチュアートダーンリー卿の間に生まれ,母の退位によって1歳でスコットランド王として即位,貴族の派閥争いと外国の干渉のなかで厳しい成長期を送った。生来学問を好み,王権神授説を唱えた《自由な君主国の真の法》(1598)などの著述をものした。1603年イングランドのエリザベス1世の死後,血縁によりその王位を継いだ。〈主教なくして国王なし〉と称して英国国教会を絶対王政支柱とする政策をとり,ピューリタンを排除するとともにカトリックをも取り締まったため,国王暗殺をねらったカトリックの〈火薬陰謀事件〉(1605)を引き起こした。外交においては当初は反スペインの伝統についたが,やがて親スペインに転じ,三十年戦争の勃発に際して娘の夫ファルツ選帝侯フリードリヒを見捨て,また晩年には息子のチャールズにスペイン王女を妃として迎えようと画策して,国民感情を裏切った。内政においても国王大権を主張して議会との対立を深め,14年以降7年間議会を開かなかった。21年に開かれた第3議会は,国王の統治はイングランドの伝統と慣例をふみにじるものとの姿勢をとり,外交においてはカトリック勢力との絶縁を要求し,また上納金,爵位売却,独占権設定に頼る便宜的な財政政策をきびしく批判した。15年以降国王の寵臣となって専横を極めたバッキンガム公との同性愛関係も,批判の的となった。ジェームズの治世にはのちのピューリタン革命を生む種子がまかれた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジェームズ1世」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ1世
ジェームズいっせい
James I

[生]1566.6.19. エディンバラ
[没]1625.3.27. シアボルド
イギリス,スチュアート朝初代のイングランド王(在位 1603~25)。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位 1567~1625)。スコットランド女王メアリー・スチュアートとその夫ダーンリー卿の息子。母が退位させられたため,生後 1年あまりで即位,1583年から親政を始めた。1603年女王エリザベス1世が没すると,ヘンリー7世の玄孫であったところからその王位を継承し,スチュアート朝を開いた。翌 1604年ハンプトンコート宮殿会議を開いてイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)との結びつきを強化し,清教徒・旧教徒双方の離反を招き,1605年火薬陰謀事件が起こった。スコットランドにいたとき『自由な君主国の真の法』The True Lawe of Free Monarchies(1598)を著して王権神授説を唱え,しばしば議会の権利を無視して,これと衝突した。外交的には親スペイン政策をとり,寵臣初代バッキンガム公の進言により皇太子チャールズ(のちのチャールズ1世)の妃にスペイン王女を求めたが失敗。その治世を通じてのちの清教徒革命の原因の多くをつくった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジェームズ1世」の解説

ジェームズ1世(ジェームズいっせい)
James Ⅰ

1566~1625(在位1603~25)

イングランド国王。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位1567~1625)。メアリ・ステュアートの子でヘンリ7世の血を引く。エリザベス1世の死後イングランド王位につき,ステュアート朝を始め,これによりイングランドとスコットランドは同君連合の関係に入った。「主教なくば国王なし」と称して国教会主義を強調し,新旧両教徒の動きを押えたため,カトリックによる火薬陰謀事件(1605年)が起きた。またみずから王権神授説を主張して,課税・独占賦与の問題などでしばしば議会と衝突し,のちの国王と議会の対立の種をまいた。外交の面では最初スペインと結び,また皇太子チャールズ1世のフランス王女との結婚で不評を買ったほか,寵臣バッキンガム公の登用によって宮廷に対する反感を増大させた。

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367日誕生日大事典 「ジェームズ1世」の解説

ジェームズ1世

生年月日:1566年6月19日
イギリス,スチュアート朝初代の国王(在位1603〜25),スコットランド王としてはジェームズ6世(1567〜1625)
1625年没

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世界大百科事典(旧版)内のジェームズ1世の言及

【アイルランド】より

…アイルランド族長とカトリックの反抗はこの後しばしば繰り返されたが,抵抗の拠点アルスター地方のヒュー・オニール(オニール家)も1603年に鎮圧された。アルスター地方に英国国教会,長老派教会などのプロテスタントを多く入植させたのはジェームズ1世で,これにより,アルスター地方はプロテスタントの支配する地域となった。現在の北アイルランド問題の起源はここにある。…

【エリザベス時代】より

…厳密にはエリザベス女王(1世)の在位期(1558‐1603)を指すが,文学史の区分としては通常,そのあとのジェームズ1世(1603‐25)およびチャールズ1世(1625‐49)の治世を含めたイギリス・ルネサンスの最盛期をいう。この時代は中世の封建制から中央集権的な近代国家体制への過渡期に当たり,宮廷は権力とともに文化の中心となりつつあったが,半面,資本主義の勃興による都市ブルジョアジーの台頭は,ロンドンの市民生活を活気あるものにしていた。…

【スチュアート朝】より

…スコットランドでは,イングランド,フランスなどの外国勢力と結んだ貴族間の抗争が激烈を極めたため,王権の基盤は弱く,スチュアート朝の諸王には殺害されたり戦場で倒れたものが続出し,多くは未成年で即位した。1542年ジェームズ5世が死ぬと,娘のメアリー・スチュアートは生後1週間で即位し,のちフランスに送られてその皇太子妃となった。夫のフランソワ2世の病死により帰国したメアリーは,新旧両教派の貴族の抗争にまきこまれ,みずからの不品行もあって退位し,67年息子のジェームズ6世が即位した。…

【ピューリタン革命】より

… エリザベスの死後スコットランドから来て即位したスチュアート朝の君主のもとで,国王と議会の対立が深まり,革命の前提条件が整えられた。すなわちジェームズ1世は,王権神授説を信奉して国民の批判を圧殺する姿勢をとり,また〈主教なくして国王なし〉と称して国教会への信従を強制し,ピューリタン聖職者を国教会から追放した。そのうえスペイン,フランスのカトリック勢力に従属的な外交を展開したため,国民の誇りは傷つけられ,カトリックに対する警戒心が強くなった。…

【法の支配】より

… 法の支配は,しばしば,英米法の基本原理の一つであるとされる。そして,17世紀初頭にイギリス国王と議会との間に抗争が生じた時期に,王権神授説を振りかざすジェームズ1世がコモン・ロー裁判所と教会裁判所の間の裁判権の争いについてみずから判決を下そうとしたのに対し,E.クックが,13世紀に公刊されたH.deブラクトンの有名な著作から,〈国王は何人の下にもあるべきではない。しかし,神と法の下にはあるべきである〉との一句を引いて対抗したというエピソードが,しばしば引用される。…

【魔女裁判】より

…《魔女の槌》ののち,活版印刷術の発明による出版革命もあずかって16,17世紀には多数の魔女論や悪魔学(デモノロジー)の著作が書かれた。その代表作としてJ.ボーダン《魔術師の悪魔狂》(1580),N.レミー《悪魔礼拝》(1595),スコットランド王ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)《悪魔学》(1597),H.ボゲ《魔女論》(1602)などを挙げることができる。裁判官はこれらの教説にてらして被疑者を尋問した。…

【メアリー・スチュアート】より

…イングランド女王エリザベス1世の生涯のライバルであった。父王ジェームズ5世が死去したため生後1週間で即位。1548年,6歳でフランス皇太子と婚約してフランスに渡り,以後その宮廷で教育をうけ,美貌で魅力に富む女性に成長した。…

※「ジェームズ1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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