バッキンガム(読み)バッキンガム[はく・こう・こうけ](英語表記)Buckingham, George Villiers, 1st Duke of

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バッキンガム」の意味・わかりやすい解説

バッキンガム(伯・侯・公家)
バッキンガム[はく・こう・こうけ]
Buckingham, Earls, Marquesses and Dukes of

イギリスの貴族家柄。ウィリアム1世の臣下ウィリアム・ジファード (?~1102) が伯爵位を授けられたのが最初であるが,その子に後嗣なく,1164年彼の死をもって絶えた。次いで,1377年グロスター (公)が伯爵位を受け,97年彼の死後は子のハンフリーが継承したが,2年後彼は後嗣なく没し,妹アンの子ハンフリー・スタッフォード (1402~60) が 1444年公爵になった。彼はヘンリー6世の王妃マーガレットとヨーク派貴族の仲を調停しようとして争いに巻込まれ,死亡した。その孫の2代公ヘンリー (54頃~83) はリチャード3世に仕えたが,のち彼に反逆し,斬首された。その子の3代公エドワード (78~1521) も,王位簒奪をはかったという無実の罪によって処刑され,爵位も断絶した。 17世紀にいたり,ジェームズ1世の寵臣ジョージ・ビリアーズが,伯,侯を経て,1623年初代バッキンガム (公)になったが,その子の2代バッキンガム公の死とともにとだえた (1687) 。 1703年ジョン・シェフィールド (48~1721) が公爵に叙せられた。彼はジェームズ2世時代に枢密顧問官宮内卿,統監になり,18世紀初頭スコットランドとの合同委員や枢密院議長をつとめた人物であるとともに,J.ドライデンや A.ポープの友人で,みずからも『詩論』 Essay on Poetry,『風刺論』 Essay on Satire,『名誉革命論』 Account on the Revolutionなどを著わした。しかし,この公家もその子エドマンドが 35年没するとともに絶えた。最後に,84年 G.グレンビルの子ジョージ (53~1813) が侯爵に叙せられ,その子リチャード (1776~1839) は,1822年バッキンガム=チャンドス公爵になり,2代公リチャード (1797~1861) ,3代公リチャード (23~89) と継承されたが,3代公の死をもって終った。

バッキンガム(公)
バッキンガム[こう]
Buckingham, George Villiers, 1st Duke of

[生]1592.8.28. ブルークズビー
[没]1628.8.23. ポーツマス
イギリスの貴族,政治家。1614年宮廷に入り,美貌機知で国王ジェームズ1世の寵臣となった。急速に昇進し,1617年バッキンガム伯,1618年同侯,1623年公爵に叙せられた。同年新教と旧教調和をはかるため,スペイン王女とチャールズ王子(のちのチャールズ1世)との結婚を策し,王子を伴いマドリードを訪れたが失敗。以後対スペイン強硬論に転じ,1625年新王チャールズ1世にカディス攻撃を強行させ失敗,翌 1626年議会の弾劾を受けた。次いで 1627年フランスの新教徒援助のためラロシェル遠征を企てて失敗し(→ラロシェル攻囲戦),遠征用の課税強化に憤慨した議会の反撃を受け,1628年「権利請願」を突きつけられた。同年再度ラロシェル遠征を準備中,ジョン・フェルトンによって暗殺された。

バッキンガム(公)
バッキンガム[こう]
Buckingham, George Villiers, 2nd Duke of

[生]1628.1.30. ロンドン
[没]1687.4.16. ヨークシャー,カービームーアサイド
イギリスの貴族,政治家。初代バッキンガム公の子として国王チャールズ1世の子供たちとともに育てられた。清教徒革命勃発とともに大陸に亡命,1647年帰国したが戦いに敗れて再度亡命。 50年皇太子チャールズ (のちのチャールズ2世) の側近としてスコットランド遠征を進言し実行したが失敗した。 57年投獄されたが 59年釈放され,以後王政復古尽力。チャールズ2世の治世になると,62年枢密院に入り,クラレンドン (伯)と対立,その失脚後政界の中心となりカバル一員となったが,74年罷免された。生来陰謀,策略を好んだが,一方詩作にもふけり,特に J.ドライデンへの風刺詩は有名。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報