タングート(読み)たんぐーと(英語表記)Tangut

デジタル大辞泉 「タングート」の意味・読み・例文・類語

タングート(Tangut)

6世紀から14世紀にかけて、中国西北部からチベット北部で活躍したチベット系民族。一族の李元昊りげんこうが1038年に西夏を建国した。党項。

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精選版 日本国語大辞典 「タングート」の意味・読み・例文・類語

タングート

  1. 〘 名詞 〙 ( Tangut ) 六世紀から一四世紀にかけて青海甘粛、北部西蔵で活躍したチベット系民族。中国六朝ころから名がみえる。一一世紀に一族の李元昊(りげんこう)は西夏をたてたが、蒙古帝国に滅ぼされた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「タングート」の意味・わかりやすい解説

タングート
たんぐーと
Tangut

中国の西北部を中心に6世紀から14世紀ごろまで活躍した民族。チベット系羌(きょう)の一族であり、諸部族に分かれ、7世紀の初めごろから、吐蕃(とばん)(チベット)と青海地方の強国吐谷渾(とよくこん)に挟まれた地域に居住した。拓跋(たくばつ)部の首領拓跋赤辞(せきじ)が、吐谷渾の王家と通婚するに及んで最強の部族となり、タングートの指導権を握った。唐の太宗(在位626~649)の懐柔策によって、タングートは唐に服属し、赤辞は唐朝から李(り)姓を賜った。その後、吐蕃が興隆して吐谷渾を破り、青海地方を領有すると、タンダートも吐蕃に吸収され、その支配下に入ったが、吐蕃への隷属を好まなかった一部のタングート人は、8世紀の後半から青海の地を離れて、北北東に向かい、甘粛(かんしゅく)の東端の慶州に移動。その部族を東山部といい9世紀の中ごろから霊州、塩州の南方山地に移った部族を南山部と称した。拓跋部も慶州に入ったが、8世紀中ごろからさらにオルドスの南部の夏州に移動した。これを平夏部という。

 唐末のタングートは、東山、南山、平夏の3部族に大別される。9世紀の後半、平夏部の首領拓跋思恭(しきょう)が、黄巣(こうそう)の乱を鎮めた功績で唐朝から節度使に任ぜられ、李姓を賜り、その子孫は代々夏州定難軍節度使を世襲した。思恭から9代目に、その承襲をめぐって、宋(そう)に服従した兄の継捧(けいほう)と、全面的に宋に反抗し契丹(きったん)に臣属の礼をとった弟の継遷(けいせん)との間に紛争が起きた。やがて継遷の子徳明(とくめい)が後を継ぎ宋と和解し、徳明の子元昊(げんこう)になって、独立王国西夏(せいか)国が誕生する。1227年チンギス・ハンによって西夏国が滅亡してのち、タングート人は漸次漢族はじめ近隣諸族と融合した。

西田龍雄

『岡崎精郎著『タングート古代史研究』(1972・京都大学東洋史研究会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「タングート」の意味・わかりやすい解説

タングート (党項)
Tangut

6世紀より14世紀にかけて中国西北辺境に活躍したチベット・ビルマ語系の部族。この称呼は南北朝時代よりみえ,原住地は四川省北西辺から青海省にわたる山地であった。隋・唐初のタングートは中国と吐谷渾(とよくこん)の間にあって活動したが,やがて吐蕃の強圧によりその一部は吐蕃に服属して弭薬Mi-nyakと称せられ,残部は唐に付して東遷をつづけ,この間に拓跋氏の平夏部とならんで東山部,さらにのちには南山部の出現をみたが,中核である平夏部は勢力を増し,その部長,拓跋思恭は唐に武力援助をして定難軍節度使を授かり(881),夏・銀・綏(すい)・宥(ゆう)・静5州に地盤をきずき,東西交通の要衝をしめた。五代の世に夏州李氏の独立体制は強化され,これを恐れた後唐は李氏を夏州より追放せんとして失敗した。宋初,定難軍節度使をついだ李継捧が宋に全面服属したのを認めず,宋への抗戦を始めた族弟,李継遷に続いて,李徳明,李元昊(りげんこう)の各代にわたるタングート諸族の糾合への努力が実り,1038年,李元昊の西夏建国をみた。西夏時代,タングート族の大部分は西夏の傘下に入ったが,地理的・政治的関係から宋または遼に帰属するものもいた。1227年に西夏が滅んだのち,タングートは色目人の一環として元朝治下に入り,軍事面をはじめ,官界,さらには文化・宗教の面でも活躍したが,元朝滅亡後,まったく歴史的役割を失い,タングートの名称も清代にはチベットをさすことに転化した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タングート」の意味・わかりやすい解説

タングート(党項)
タングート
Tangut

6世紀から 13世紀頃まで中国北西辺境に活躍したチベット系民族。自称ウォー。初め四川省北西辺から青海省方面の山地に居住し唐に服属したが,のち離反。吐蕃の強大化につれ甘粛,オルドス方面に移住。唐末にその拓跋 (たくばつ) 氏の族長拓跋思恭は黄巣の乱に唐を助けて夏州節度使を授けられ (881) ,また李姓を賜わった。また五代の紛乱に乗じてその子孫は夏州 (陝西省楡林県北西) を中心に勢力をたくわえ,宋初には一時宋に屈服したが,李継遷の代に独立体制をとり,1038年李元昊 (りげんこう) はついには西夏国を建てた。タングートはおもに牧畜を営み領内の漢人が農業を行なったが,夏州が東西交易の要路にあたったので,遼,宋,金との間の中継貿易によって富を得,これがその繁栄の経済的基礎となった。一方遼,金と宋の力の均衡を巧みに利用,大国の間に伍することができた。しかし強大なモンゴル帝国が興ると,1227年にただちに討滅され,以後は元朝内で色目人の一つとして活躍するにとどまった。ただモンゴル人がチベットをタングートと呼んだため,のちまでそれがチベットの一呼称となった。

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百科事典マイペディア 「タングート」の意味・わかりやすい解説

タングート

漢字では党項。6―14世紀に中国北西部を中心に活躍したチベット系民族。中国で(きょう)と呼ばれる部族の一つ。初め四川・青海地方にいたが,吐蕃(とばん)の圧迫を受けて東遷し,陝西・甘粛地方に移った。この中で陝西の夏州にいた族長拓跋(たくばつ)思恭は,黄巣(こうそう)の乱の平定に功があり,唐から李姓を与えられた。その子孫李元昊(りげんこう)は西夏を建てた。
→関連項目西夏語

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「タングート」の解説

タングート
Tangut

党項(とうこう)6~14世紀に中国北西部を中心に活躍したチベット系集団。初め東チベットの吐谷渾(とよくこん)と隋・唐に挟まれた四川,青海方面に遊牧していたが,吐蕃(とばん)の圧迫を受け,しだいに陝西(せんせい)北部,甘粛南東部,さらに8世紀半ばまでには,霊州やオルドス南部に移った。拓跋(たくばつ)部を継承する伝承を持っていたが,オルドスの夏州を中心としていた平夏部の族長拓跋思恭(しきょう)は,黄巣(こうそう)の乱平定の功績によって唐から李姓を与えられた。その子孫,李元昊(りげんこう)大夏(たいか)(西夏)を建てタングートの大半を治めた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「タングート」の解説

タングート
Tangut 党項

6〜14世紀に中国北西辺で活動したチベット系民族
8世紀に吐蕃 (とばん) の圧迫を受け,一部は服属したが,他は陝西 (せんせい) 方面に移り,その一部族である平夏部の李元昊 (りげんこう) は,1038年西夏を建国。西夏が1227年モンゴル帝国に滅ぼされて以後,この部族はふるわなかった。

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世界大百科事典(旧版)内のタングートの言及

【西夏】より

…11~13世紀にかけてタングート族が築いた国家。中国の西北部,寧夏,甘粛,オルドス,陝西の諸地域を領有した。…

【青白塩】より

…陝西と寧夏の境域,塩州五原付近には,烏池(うち),白池など多数の内陸塩湖があり,その色合いから青塩,白塩と呼ぶ良質の塩を産した。唐から宋初にかけて,この一帯に住むタングート(党項)族はこれを中国向けの主要な貿易品としてきた。10世紀後半,中国を統一した宋は,全国的な塩の専売実施の必要から,青白塩の流入を禁止したが,この措置はタングート族が団結して宋に敵対する原因となった。…

※「タングート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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