コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ダレス ダレスDulles, Allen Welsh

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ダレス
Dulles, Allen Welsh

[生]1893.4.7. ニューヨーク,ウォータータウン
[没]1969.1.29. ワシントンD.C.
アメリカの法律家,外交官。 J.F.ダレスの実弟。 1914年プリンストン大学卒業。 1922年国務省近東局長。 1926年国務省を退き,サリバン・アンド・クロムウェル国際法律事務所に勤務。 1953~61年中央情報局 CIA長官。在任中の 1960年5月アメリカの偵察機 U2型機がソ連で撃墜され (→U-2型機事件 ) ,また 1961年4月キューバの反カストロ軍のコチノス湾 (ピッグズ湾) 上陸侵攻が失敗する事件 (→コチノス湾侵攻事件 ) が起こったが,これらに CIAが関与していたといわれ注目された。主著"The Craft of Intelligence" (1963) ,"The Secret Surrender" (1966) 。

ダレス
Dulles, John Foster

[生]1888.2.25. アメリカ,ワシントンD.C.
[没]1959.5.24. アメリカ,ワシントンD.C.
アメリカの外交官,政治家。 1908年プリンストン大学卒業後,ソルボンヌ大学に留学。 11~49年サリバン・アンド・クロムウェル国際法律事務所に勤務。その間 44年のダンバートン・オークス会議,45年の国連創設会議に参加。 50年国務省顧問に任じられ,対日講和条約の交渉などにあたり,53年アイゼンハワー政権の国務長官に就任。大量報復戦略,せとぎわ政策巻返し政策など,強硬な反共外交を主張しタカ派の代表のようにみられたが,実際の政策はかなり柔軟であった。 59年4月癌のため国務長官を辞任。主著『戦争と平和および変革』 War,Peace and Change (1939) ,『戦争か平和か』 War or Peace (50) 。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

百科事典マイペディアの解説

ダレス

米国の外交官,弁護士。J.ダレスの弟。初め国務省に入りヨーロッパで活躍,一時法曹界に転じたが,第2次大戦中は諜報(ちょうほう)活動に従事,ドイツ休戦に活躍。戦後CIA長官(1953年―1961年),大統領情報顧問となった。

ダレス

米国の政治家。共和党に属し,国連創立に参画。国務省顧問のときサンフランシスコ講和条約を立案,アイゼンハワー政権の国務長官(1953年―1959年)として巻き返し政策,局地的武力使用など強硬な反共外交を主唱,各地の地域的集団安全保障組織の創立,強化を推進した。
→関連項目ジョン・バーチ・ソサエティダレスダレス空港

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

ダレス Dulles, John Foster

1888-1959 アメリカの政治家。
1888年2月25日生まれ。1950年国務長官顧問となり,昭和26年サンフランシスコ講和条約交渉のため,トルーマン大統領の特使として来日した。1953年アイゼンハワー大統領のとき国務長官に就任。1959年5月24日死去。71歳。ワシントン出身。プリンストン大卒。

出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

ダレス【John Foster Dulles】

1888‐1959
アメリカの外交家。プリンストン大学卒業,ジョージワシントン大学で法律を学び弁護士となった。ベルサイユ会議など国際会議への参加の経験をもち,共和党では国際法・国際問題の権威者として知られていた。民主党のトルーマン政権は対外政策に対する共和党の批判を鎮めようとして,1950年ダレスを国務省顧問に任命した。国務省入りした彼は,対日講和の促進役を引き受け,政府内の意見調整,連合国諸政府との交渉,日本政府との対話に精力的に働き,51年9月のサンフランシスコ講和を実現させた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

ダレス【Dulles】

〔Allen Welsh D.〕 (1893~1969) アメリカの政治家。の弟。中央情報局( CIA )長官として、1950年代のアメリカの諜報活動を指揮した。
〔John Foster D.〕 (1888~1959) アメリカの政治家。トルーマン大統領の顧問となり、対日講和条約を成立に導く。また、アイゼンハワー大統領の国務長官となり、ソ連との冷戦政策を展開。

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

世界大百科事典内のダレスの言及

【トロイア戦争記】より

…原著からラテン訳成立に至るまでのこうした経緯は,従来まったくの虚構として顧みられることがなかったが,19世紀末,本書の一部を記したギリシア語のパピルス断片(3世紀前半)が発見されるに及んで,ディクテュス原作者説は論外にせよ,少なくとも本書のギリシア語原本が2~3世紀ころに書かれたことは確実視されるにいたっている。このほか,《トロイア戦争記》よりは少し後の作品で,これまたラテン訳で伝わる同種の偽書に,フリュギア人ダレスDarēs作と称せられる《トロイア滅亡史De excidio Troiae historia》があり,いずれも文学的価値こそ乏しいものの,10年にわたるトロイア戦争の一部始終を委細をつくして語っているところから,1160年ころ,フランスの詩人ブノア・ド・サント・モールの《トロイ物語》に利用されたのを皮切りに,両書はトロイア伝説に筆を染めた中世ヨーロッパの文学者たちにきわめて大きな影響を及ぼした。トロイア戦争【水谷 智洋】。…

【核戦略】より

…抑止の思想は,1949年8月ソ連が原爆実験に成功,アメリカの核独占が終わり,米ソ間で核兵器競争の激化が見込まれ始めた1950年代に入って生まれた。抑止の思想は53年7月,まずイギリス総参謀長スレッサーJohn Slessor空軍元帥が採用,つづいてアメリカで国務長官ダレスが〈大量報復〉という形で導入した。それ以降,現在まで多くの核戦略理論が現れたが,すべてこの抑止の思想を中心に構築されてきている。…

【サンフランシスコ講和条約】より

…50年2月,中ソは中ソ友好同盟相互援助条約を結び,日本軍国主義の復活に共同で対処する決意とともに対日講和の早期実現を強調した。アメリカは4月,J.ダレスを国務省顧問に任命し,対日講和の推進に当たらせた。 6月,朝鮮戦争が開始され,アメリカ軍が日本を根拠地として出撃するようになると,アメリカは日本の軍事基地としての重要性を認め,日本国内に反米的世論が強まるのを防ぐため講和の促進を図るようになり,11月,対日講和七原則を発表し,極東委員会構成国との個別協議を開始した。…

【長老派教会】より

…たとえば第1次世界大戦当時の大統領T.W.ウィルソンは長老派牧師の息子で,プリンストン大学学長からニュージャージー州知事となりホワイト・ハウスに入っている。その学生の一人がやはり長老派牧師の長男で,のちに国務長官となったJ.F.ダレスである。南北戦争のとき奴隷解放問題をめぐっていわゆる北長老派教会と南長老派教会に分裂して今日にいたっているが,現在再合同をめざして動きつつある。…

【日米安全保障条約】より

…前者にはアメリカ軍配備の条件を定める〈日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定〉(日米行政協定,1952年4月28日発効)および吉田=アチソン交換公文が付属し,後者には〈日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定〉(日米地位協定,1960年6月23日発効),および二つの交換公文,すなわち(1)条約第6条の実施に関する交換公文,(2)吉田=アチソン交換公文等に関する交換公文(岸信介首相とC.A.ハーター国務長官との間で作成・交換された)が付属している。
【条約改定と日米安保体制】

[旧条約の締結と内容]
 1950年4月にアメリカ国務長官の政策顧問となったJ.F.ダレスは就任当初から日本の安全保障政策として占領軍の段階的撤退と日本再軍備の意図をもち,51年初の来日時に日本政府に再軍備を勧説した。これに対し占領軍司令官マッカーサーに支持された吉田茂首相らは大規模な再軍備を不適当と主張し,アメリカ軍の駐留を求めた。…

※「ダレス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

ダレスの関連キーワード黒田清輝ウィグモア北村透谷東京大学E. ロッドウェルナーウォルフオプラー国民之友制作座

今日のキーワード

金城湯池

1 《「漢書」蒯通伝から。「湯池」は熱湯をたたえた堀》守りが非常に固く、攻めるのが難しい城。金湯。2 堅固で、他から侵害されにくい勢力範囲。「保守派の金城湯池」...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ダレスの関連情報