日本大百科全書(ニッポニカ) 「トゥルイ」の意味・わかりやすい解説
トゥルイ
とぅるい
Tolui
(1192?―1232)
チンギス・ハンの嫡腹の末子。母は正后ボルテ夫人。末子であることと軍事的才能が豊かであったため父に愛され、つねにその補佐として征服戦争でも父の本軍に同行した。1211~15年の金国遠征では河北、山東を転戦、19~25年の中央アジア遠征ではブハラを攻略、ついで初めて父と別れホラサーンを征服した。父の遺産として、12万9000の軍団のうち、同母兄・異母弟・叔父の計7人に分与された2万8000を除く10万1000とモンゴル本土の大半を相続した。おそらく第2代に予定されていたと想像されるが、なんらかの原因で2年の監国(かんこく)(国政の代行)ののち二兄チャガタイに後援された三兄オゴタイに譲位した。こののち各モンゴル政権下でつくられた史書はいずれもこれを美談にしてごまかしている。兄の即位後、右翼軍を率いて西方迂回(うかい)路より金の主力と対決、これを撃滅して金国平定の主因をなしたが、やがて病死した。病にかかったオゴタイの身代りとして自ら望んだというが、その死を境にオゴタイ一党が本格的にモンゴル中央部に居を移し、カラコルムも造営した点から考えると、疑問の多い死といえる。寡婦の正后ソルコクタニ・ベキは亡夫の遺領を堅持して、モンケ、フビライ、フラグ、アリク・ブハ4子のために勢力の保存に努め、姉の子であるジュチ家のバトゥと結んで51年モンケの即位を実現し、以後帝位をトゥルイ系のものとした。元朝ではトゥルイに睿宗(えいそう)の廟号(びょうごう)をつけた。
[杉山正明]