ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルドー」の意味・わかりやすい解説
トルドー
Trudeau, Justin
カナダの政治家。首相(在任 2015~ )。フルネーム Justin Pierre James Trudeau。父は長年にわたり首相を務めたピエール・トルドー。6歳の時に両親が離婚し,ひとり親となった父親に育てられた。モントリオールのカレッジ・ジャン・ブレブフ校で学んだのち,1994年マギル大学で英文学の学士号を取得。また,スノーボードのインストラクターとして働きながら 1998年ブリティシュコロンビア大学で教育学士号を取得。その後,バンクーバーで教職についた。2000年,28歳のときに父親の葬儀で述べた追悼の辞が感動的だとして,国中の注目を集めた。2002年,ケベック州に戻り,モントリオール大学で工学を,またマギル大学で環境地理学を学んだ。その間モントリオールのラジオ局で働き,2002~06年には父親が 1977年に設立した全国的な青年ボランティア組織「カティマビク」の理事長を務めた。2008年の総選挙でカナダ自由党から立候補して当選。2011年再選され,自由党のスポークスマンとして,若者と多文化主義,移民と市民権などの問題やアマチュアスポーツの分野で活躍した。2013年,自由党党首に選出され,以来,自由党の党勢の回復に努めた。2015年の総選挙でスティーブン・ハーパー率いる保守党に勝利し,首相に就任した。
トルドー
Trudeau, Pierre Elliott
[没]2000.9.28. モントリオール
カナダの政治家。モントリオール大学で法学,ハーバード,パリ,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの各大学で政治学,経済学を学ぶ。 1951~61年モントリオールで弁護士をするかたわら政治活動に従事。『シテ・リーブル』紙を共同創刊,編集し,1960年代におけるケベックの「静かな革命」を導く原動力となった。 61~65年モントリオール大学准教授となって憲法,市民の自由権などについて講義。 65年自由党下院議員として政界に入り,67年 L.ピアソン内閣法相。 68年自由党党首,首相。以後,79年に進歩保守党に政権を奪われたものの翌 80年には返り咲き,84年の政界引退まで計 16年間政権の座にあった。この間に,69年の公用語法の制定,70年の 10月危機 (ケベック解放戦線による法相誘拐殺人に対する非常事態法の発動) ,80年のケベック州民投票,82年の憲法移管と,きわめてドラマチックな状況にあって,終始分離主義に対抗して強力な連邦政府の実現に努めた。その功績は 20世紀カナダにおいて白眉ともいえるが,対米関係の悪化,財政赤字の増大,連邦・州関係の悪化など批判されるところも多かった。 84年の政界引退後も,ミーチ湖憲法協定あるいはシャーロッテタウン憲法協定に見られた改憲論議において積極的に発言し,国民世論の動向に影響を及ぼした。主著"Federalism and the French Canadians" (1968) ,"Les Cheminements de la Politique" (70) ,"Conversation with Canadians" (72) 。
トルドー
Trudeau, Garry
アメリカの漫画家。エール大学,エール芸術建築大学で学ぶ。在学中の 1968年,学内新聞に学生生活を茶化したコミック・ストリップ"Bull Tales"を描き始め,これが"Yale Daily News"に連載されて注目を浴びる。 1970年さらにこれを"Doonsbury"と改題して一般新聞に連載して人気を呼び,1975年コミック・ストリップとしては最初のピュリッツァー賞を受賞。多彩な人物が麻薬,ベトナム戦争,ウォーターゲート事件などを背景に登場し,当時の世相を反映した。
トルドー
Trudeau, Edward Livingston
[没]1915.11.15. サラナックレイク
アメリカの医師,結核研究の先駆者。 1872年,ニューヨークで開業したが,まもなく肺結核にかかり,アディロンダック山中で闘病生活に入った。その体験から 84年,アディロンダック・コテジ・サナトリウム (のちのトルドー・サナトリアム) を開設,アメリカで初めて外気自然療法を実施した。さらに 94年,アメリカ最初の結核研究所であるサラナック研究所を創設した。
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