ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
ナポリ
Napoli
ナポリ
Napoli
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イタリア南部、カンパニア州の州都で、工業・港湾都市、観光都市。英語名ネープルスNaples。面積117.27平方キロメートル。人口99万3386(2001国勢調査速報値)はローマ、ミラノに次いで同国第3位。人口密度は1平方キロメートル当り8470.9人で第5位である。東方のベスビオ火山および西方にある独特な火山地帯カンピ・フレグレイCampi Flegreiに挟まれ、ナポリ湾の北東隅に位置する。
[堺 憲一]
同市が近代的工業都市として本格的に発展する契機となったのは1904年のナポリ工業振興特別法である。これによってナポリ西郊5キロメートルのバニョーリにイルバ社の製鉄所が建設された。港はすでに1890年代以降、南部イタリアからアメリカに移民する人々の出発港となっていたが、ファシズム期にはイタリアの海外植民地との交易が市の経済発展を大きく助長した。1950年代後半から60年代前半にかけては、南部開発政策と関連した大規模投資もあって、ポミリアーノ・ダルコ、カステッラマーレ・ディ・スタビア、ポッツォーリ、カゾーリアなど近郊の諸都市を含めて工業化が著しく進展し、ナポリを中心とする広大な臨海工業地帯が形成された。とくに製鉄、機械、自動車、造船、精油、食品などの工業活動が盛んである。
ナポリ港の海外との交易量は、かつてはジェノバに次いで全国第2位を占めていたが、現在ではその地位を後退させた。カプリ島やイスキア島などナポリ湾岸の観光地を近くに擁しているため、沿岸航路の旅客数は全国第3位(1997)である。
[堺 憲一]
「ナポリを見て死ね」という諺(ことわざ)があるように、ナポリは風光明媚(めいび)な観光都市で、ベスビオ火山を背景としたその風景はあまねく知られている。とくにボーメロの丘やポジリポの丘から眺める市街やナポリ湾の見晴らしはすばらしい。市内には、1279~84年に建てられたアンジュー家の城で15世紀にアラゴン家のアルフォンソ1世時代に再建されたカステル・ヌオーボ、サンタ・ルチア地区にある卵城(カステル・デッローボ、12世紀)、ボーメロの丘の上に位置し現在では国立博物館となっているサン・マルティーノ修道院(14世紀。16~17世紀に再建)、1602年に建てられたブルボン家の王宮(パラッツォ・レアーレ)、ミラノのスカラ座やローマのオペラ座と並ぶオペラの殿堂サン・カルロ歌劇場(1737)、13世紀末~14世紀初めに建設されたサン・ジェンナーロ大聖堂などの歴史的建造物が多い。また、ポンペイやエルコラノなどで発見された美術品の所蔵などで国際的に有名な国立考古博物館(16世紀)や1224年創設のナポリ大学などの文化施設があり、市街中心部のスパッカ・ナポリ地区は下町情緒に満ちあふれている。さらに近郊にもベスビオ火山、ポンペイやエルコラノの遺跡、カプリ島、イスキア島、ソレントなど多くの名所が存在する。『オ・ソレ・ミオ』や『サンタ・ルチア』に代表されるナポリ民謡は世界中に知られている。なお、1995年にナポリの歴史地区は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[堺 憲一]
紀元前5世紀前半、ギリシア植民市キュメにより建設され、「新しい都市」を意味するネアポリスNeapolisとよばれた。前326~前90年の間は、ローマの同盟市としての地位を保持するが、その後は事実上の従属状態に置かれた。しかし、ギリシア的伝統や風光のよさゆえに、ローマの富裕階級によって安らぎと楽しみの場として親しまれるようになった。
西ローマ帝国滅亡後、ビザンティン帝国の支配下で形成されたナポリ公国は、ステーファノ2世治世下(755~766)にビザンティン帝国から独立した小公国となり、1139年ノルマン人に征服されるまで存続した。ノルマン人およびドイツのホーエンシュタウフェン家に支配されるシチリア王国時代には、当時教皇の強い影響下にあったボローニャ大学に対抗して、フリードリヒ2世によってナポリ大学がつくられた。彼の死後、シチリア王の座はシャルル・ダンジューの手中に入るが、1282年の「シチリアの晩鐘」の乱を契機にして、シチリアからの後退を余儀なくされる。かくしてシチリア王国から分離してナポリ王国が成立、ナポリはその首都となり、南イタリアの政治、経済、文化の中心となった。
しかし、中世を通じていえることであるが、ナポリは良港をもっているにもかかわらず、アマルフィ、ピサ、ジェノバのように海に向けて商業的進出を図るよりは、それまでと同様に周辺の農村に経済的基盤を求めるという方向を重視した点は注目に値しよう。1442年までのアンジュー家、さらに1501年までのアラゴン家、1503~1707年のスペインのハプスブルク家(総督)による統治を経て、1734年にスペインのブルボン家の支配が開始される。カルロス3世(ナポリ王としてはカルロ7世、在位1735~59)はタヌッチを首相にして一連の改革を行ったが、結局は不徹底に終わり、経済的沈滞、劣悪な衛生事情、ラッズァローニとよばれる大勢の貧民の存在、といった諸問題は未解決のまま残された。
1806~15年のナポレオン時代が終わると、ナポリ王国とシチリア王国が合併して両シチリア王国が成立し、ブルボン家がナポリに復位した。1860年ガリバルディ軍とサルデーニャ王国軍に制圧され、イタリア王国に編入された。
[堺 憲一]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 南イタリア(メッツォジョルノ)はカンパニア,アブルッツィ,モリーゼ,プーリア,バジリカータ,カラブリア,シチリア,およびサルデーニャの8州から成っている。歴史的に見れば,サルデーニャを別にすれば,常にナポリを中心とする王国を成していた地域であり,その歴史は北イタリアおよび中部イタリアと非常に違っている。このような歴史的事情と民族的・文化的要素の違い,そして両シチリア王国がピエモンテに軍事的に征服されるという形でイタリアの統一が達成されたという事情のために,イタリア王国のもとにおいて,南部の工業化と農業開発とは非常に遅れ,南北の格差はイタリア統一後大きな問題になってきた。…
…面積1万3594km2,人口571万(1994)。州都はナポリ。アベリーノ,ベネベント,カゼルタ,ナポリ,サレルノの5県からなり,イスキア,プロチーダ,カプリの島々が属する。…
※「ナポリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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