フランス革命戦争が総裁政府によって行われるなかで、ナポレオンは総司令官として第一イタリア遠征(1796)、エジプト遠征を指揮したが、それらを含め彼の第一執政期、第一帝政期の戦争を総括していう。
革命戦争は、1791年オーストリアとプロイセンとの、革命フランスに対するピルニッツの共同宣言を契機として誘発されたもので、当時ヨーロッパ大陸諸国はなお大地主貴族を社会基盤とする旧支配体制をとり、フランスの革命の波及を防止するために大規模な国際的地主反動の戦線をつくった。一方、フランスとしては革命の防衛戦を展開したが、これが国内的には革命激化の原因ともなった。ヨーロッパの国際関係をみると、残るイギリスは市民社会を確立し、すでに産業革命を開始して本格的機械生産の段階にあり、機械製品と植民地物産の販売市場、食料、木材の購入市場としての大陸諸国と連帯関係を維持しなければならなかった。したがって大陸諸国の戦争に、イギリスは資金援助の形をとるか、出兵の形をとるか、いずれにしても参加しないわけにいかず、これが、革命戦争からナポレオン戦争に至る7回にわたる対仏大同盟の成立根拠であった。しかし、ナポレオン戦争となると、皇帝の独裁権力はその栄光を支える国内軍需景気と大陸征服を不可欠条件とすることになり、侵略戦の性格を明らかにしてくる。その転機となったのは、総裁政府下にナポレオンの指揮した第一イタリア遠征であった。この遠征で、彼は軍事的成功によって政府に5000万フランと美術品を送ったのみか、ライン川左岸、イタリア諸地域の支配権を確保している。ヨーロッパ大陸諸国にとって、ナポレオンの進軍は、ナポレオン法典および1789年の革命原理の侵入によって旧支配体制を破壊させるものと理解された点からも、戦争が持続する理由があった。そこで戦史のうえからナポレオン戦争をみると三つの点が指摘される。
第一に、フランスの戦争は近代的国民戦争の形をとったのに対し、大陸諸国の戦争はいまなお封建的戦争であった点である。フランス革命は封建制から完全に国民を解放し、全人口の90%以上を占める農民を主体とする大軍隊を出現させ、市民として国民皆兵による国土防衛を実施し、遠征は革命の輸出、封建制からの住民の解放という側面と、戦勝は国民的名誉であるという意識的側面とがあった。これに対して、オーストリア、ロシア、プロイセンなどではなお不自由農民の強制組織、傭兵(ようへい)制度による軍隊を戦線に送った。第二に、ナポレオンの軍隊、資材はすべて革命の準備したものであった。ドイツの軍人クラウゼウィッツの述べるように、大陸諸国の夢想だにしなかった大兵力が突如として出現して、戦争は民衆の仕事になった。このため、革命戦争の経験から従来の散兵戦は縦隊配置をとることになった。一方、武器も旧制度時代の野砲、火打ち銃で、革命戦争を経てナポレオンに手渡されたものであった。最後に、どうしても見逃すことのできない点は、ナポレオンの戦略である。これも分解してゆくと、彼の青年期に読んだデュ・テーユの著書は、「やがて兵力の数と大砲が戦争を決定する」という原則をあげており、またギベール伯の著書は、兵力集中と攻撃の迅速性を教えていたが、その真価はナポレオンの天才的資質をまって発揮されることになった。行動の気迫と執拗(しつよう)さ、敏捷(びんしょう)、天性の指導力、構想力は少年時代から現れていたが、兵力やその運用についての知識は軍事的経験のなかで用兵、戦術の観念を明確にしてゆき、ここで兵学は一つの変革を遂げた。彼の軍事的、政治的天才はこうして異常な精神力と知力、とくに想像力に支えられ、状況に適応する本能がこれを補完した。後世の軍事史家は、彼の戦略は軍の機動力の高度化、兵力の一点集中による中央突破と要約するが、近代戦争に与えたのはむしろ旧戦略の変革であった。しかし、彼にしてもなお歴史的限界を免れられなかった。すなわち、彼の基本的戦略はイタリア遠征で形成期に入り、中部ヨーロッパの丘陵地帯に適応したもので、行動圏がいわゆる文明農業地域のために輜重(しちょう)も極度まで切り詰め現地自給を原則にしたが、これがスペインの山岳地帯における戦闘(スペイン独立戦争)やロシアの平原での戦闘(モスクワ遠征)に通用しなかったのは歴史の示すとおりであった。
[井上幸治]
フランスの総裁政府(1795-99)より第一帝政(1804-14)の時期にかけて,ナポレオン1世が指揮した戦争。総裁政府のもとにあって指揮した第1イタリア遠征,エジプト遠征では単に総司令官であったが,第一執政(1799-1804)就任後はナポレオンが政治と戦争の意志決定者であった。
この戦争を全体的に見ると,四つの特徴をあげることができる。まず第1に,ナポレオンにおいて戦争は政治の延長であり,自己の権力に絶えず新たに名誉と戦勝を付け加える必要があった点である。征服のみが権力を維持するというのは,戦争をヨーロッパ支配の侵略戦争たらしめ,革命戦争は本来防衛戦争であったが,ナポレオンは第2イタリア戦争によってライン左岸を併合して,多額の貨幣・美術品を政府に送り,以後戦争は侵略的になった。戦争の連続はひとつには人間ばなれのした権力欲,軍事的・政治的才能によるが,一方では軍需による経済繁栄が革命後の社会治安,産業発展,市場の拡大をもたらすことが国民的利益と合致し,国民の支持を得たためでもある。第2に,ナポレオン戦争は当時の国際環境のなかで二重の意味をもっていた。大陸諸国では領主貴族層の封建的支配が行われ,ナポレオン軍は国民にとってナポレオン法典の施行をもたらす解放軍であった。しかしその反面,ナポレオン帝国の独裁的支配や搾取は民族的自覚をよびさまし,民族運動の弾圧者になった。第3に,戦争史のなかでナポレオン戦争ははじめて近代的戦争の様相を示した。中部ヨーロッパ,東ヨーロッパの諸国家において,戦争はなお国民的利益と直接の関係をもたず,戦争の意味は多少強硬な外交にすぎないといわれたが,フランスでは革命以来市民と自覚する解放された国民大衆のしごとである。いわば諸侯の傭兵が愛国心をもつ近代的軍隊と対抗したことになる。ナポレオンはこのようにフランス革命のつくりあげた徴兵制による大軍隊と武器をそのままひきついだ。第4に,ナポレオンの戦術がある。革命軍はすでに大陸諸国の横隊戦術でなく,縦隊戦術をとりいれて併用したが,ナポレオンは騎兵,砲兵の攻撃を組み合わせ,最後に歩兵の密集縦隊をもって戦闘を決した。戦略的に見ると,兵力集中,中央突破,連絡線遮断などは総合的に彼の手で一つの方式となったが,そのために軍の機動力を高めた。後世の戦術論からすればいずれも基本的原則であるが,それをはじめて確立したのはやはり軍事的天才というべきであろう。この戦術は第1イタリア遠征で発見されたために,最近ではナポレオンの戦術はヨーロッパのうち起伏に富む丘陵地帯にのみ適するという限界が指摘されており,スペイン,ロシアでの失敗を考えると,この点は無視できない。
ナポレオン戦争の敵対国は先進資本主義国イギリスと大陸の絶対主義国家であるが,対仏大同盟をよく観察すると,大陸市場を守ろうとするイギリスは必ず大陸諸国の側に参戦して戦費補助を行っている。ナポレオンは対イギリス戦略としてエジプト遠征,イギリス本土上陸,大陸封鎖を計画したが,いずれも成功しなかったのは,イギリスの経済力,現実外交,海軍の優越性によるものであった。
対仏大同盟はナポレオン戦争を整理する座標である。(1)第1大同盟 1796年総裁政府はナポレオンをイタリア遠征軍司令官に任命し,ナポレオンは連勝の勢いにのってサルデーニャ,ミラノを占領,翌年アルコレ,リボリの戦闘ののちマントバを奪取し,終局的にはカンポ・フォルミオ条約でオーストリアにライン左岸の割譲,イタリアの新設共和国を承認させた。(2)第2大同盟 99年エジプト遠征中その結成を聞いたナポレオンは,帰国するとクーデタをもって総裁政府を倒し第一執政となり,1800年5月アルプスのサン・ベルナール峠を越えてイタリアに入り,マレンゴでオーストリア軍と会戦(マレンゴの戦),勝敗は決しなかったが国内では勝利と喧伝され,反対勢力を沈黙させた。01年のリュネビル条約はカンポ・フォルミオ条約の追認である。02年アミアンの和約でイギリスと和睦,大同盟は解体し,しばらく国内平和が続いた。(3)第3大同盟 05年イギリスが開戦。ナポレオンは〈大陸軍〉をもってウルムで戦勝をあげてウィーンを占領し,アウステルリッツ会戦(三帝会戦)でオーストリア・ロシア軍を破り,プレスブルク条約を結んだ。フランス海軍はネルソンの艦隊にトラファルガル沖で撃破された(トラファルガーの海戦)。(4)第4大同盟 06年プロイセン,ロシアに対して出兵し,イェーナ,アウエルシュテットの戦勝後ベルリンに入城し,大陸封鎖令を発した。07年アイラウ,フリートラントの会戦で両国軍を破り,ティルジット条約でウェストファーレン王国,ワルシャワ大公国を承認させた。(5)第5大同盟 イベリア半島戦争の継続中,09年イギリスとオーストリアが同盟したためフランス軍はウィーンを占領したが,アスペルン,エスリングで敗れた。ナポレオンはワグラムでオーストリア大公カールを破り,09年7月ウィーン(シェーンブルン)の和約を結んだ。(6)第6大同盟 12年にロシアに遠征し,ボロジノでロシア軍を破り,9月モスクワに入城したが,11月に撤退,ベレジナの渡河戦に失敗し,ナポレオンは大きな犠牲をはらって帰国した。13年解放戦争に立ち上がったプロイセンの呼びかけでこの同盟は結成され,フランス軍はリュッツェン,ドレスデンで勝利を得たが,同年10月ライプチヒ会戦(諸国民戦役)で敗れ,同盟軍はフランス国内に入り,14年3月パリを占領した。フォンテンブロー条約でナポレオンは退位し,エルバ島に流された。(7)第7大同盟 14年ナポレオンの帰国に際してウィーン会議中の列国は同盟し,15年6月イギリスのウェリントン,プロイセンのブリュッヒャーはワーテルローの戦で勝利をおさめ,ナポレオンは失脚した。
執筆者:井上 幸治
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…それゆえ,一般の市民は戦争の決定にいかなる意味でも関与することはなかったし,それが起こったときにも参加を要求されることはなかった。 こうしたことの一切を変えたのが,1789年から1815年までの約25年間余,革命フランスとその隣国との間で間断なくつづけられた〈革命の戦争〉であり,ナポレオン戦争であった。国家はもはや王朝的君主の〈家産〉ではなく,民族,自由,革命といった大義名分のための装置であり,民衆はこの国家を他のヨーロッパ諸国の旧体制の干渉戦争から守ることに公共の善の具現をみ,この国家に忠誠を示すことによって国民となった。…
※「ナポレオン戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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