ナポレオン戦争(読み)ナポレオンセンソウ

デジタル大辞泉 「ナポレオン戦争」の意味・読み・例文・類語

ナポレオン‐せんそう〔‐センサウ〕【ナポレオン戦争】

ナポレオン1世が執政および皇帝に在位した期間に指揮した戦争の総称。1796年のイタリア遠征をはじめ、トラファルガー沖の海戦アウステルリッツの戦いワーテルローの戦いなどを含む。

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改訂新版 世界大百科事典 「ナポレオン戦争」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン戦争 (ナポレオンせんそう)

フランスの総裁政府(1795-99)より第一帝政(1804-14)の時期にかけて,ナポレオン1世が指揮した戦争。総裁政府のもとにあって指揮した第1イタリア遠征,エジプト遠征では単に総司令官であったが,第一執政(1799-1804)就任後はナポレオンが政治と戦争の意志決定者であった。

 この戦争を全体的に見ると,四つの特徴をあげることができる。まず第1に,ナポレオンにおいて戦争は政治の延長であり,自己の権力に絶えず新たに名誉と戦勝を付け加える必要があった点である。征服のみが権力を維持するというのは,戦争をヨーロッパ支配の侵略戦争たらしめ,革命戦争は本来防衛戦争であったが,ナポレオンは第2イタリア戦争によってライン左岸を併合して,多額の貨幣・美術品を政府に送り,以後戦争は侵略的になった。戦争の連続はひとつには人間ばなれのした権力欲,軍事的・政治的才能によるが,一方では軍需による経済繁栄が革命後の社会治安,産業発展,市場の拡大をもたらすことが国民的利益と合致し,国民の支持を得たためでもある。第2に,ナポレオン戦争は当時の国際環境のなかで二重の意味をもっていた。大陸諸国では領主貴族層の封建的支配が行われ,ナポレオン軍は国民にとってナポレオン法典の施行をもたらす解放軍であった。しかしその反面,ナポレオン帝国の独裁的支配や搾取は民族的自覚をよびさまし,民族運動の弾圧者になった。第3に,戦争史のなかでナポレオン戦争ははじめて近代的戦争の様相を示した。中部ヨーロッパ,東ヨーロッパの諸国家において,戦争はなお国民的利益と直接の関係をもたず,戦争の意味は多少強硬な外交にすぎないといわれたが,フランスでは革命以来市民と自覚する解放された国民大衆のしごとである。いわば諸侯の傭兵が愛国心をもつ近代的軍隊と対抗したことになる。ナポレオンはこのようにフランス革命のつくりあげた徴兵制による大軍隊と武器をそのままひきついだ。第4に,ナポレオンの戦術がある。革命軍はすでに大陸諸国の横隊戦術でなく,縦隊戦術をとりいれて併用したが,ナポレオンは騎兵,砲兵の攻撃を組み合わせ,最後に歩兵の密集縦隊をもって戦闘を決した。戦略的に見ると,兵力集中,中央突破,連絡線遮断などは総合的に彼の手で一つの方式となったが,そのために軍の機動力を高めた。後世の戦術論からすればいずれも基本的原則であるが,それをはじめて確立したのはやはり軍事的天才というべきであろう。この戦術は第1イタリア遠征で発見されたために,最近ではナポレオンの戦術はヨーロッパのうち起伏に富む丘陵地帯にのみ適するという限界が指摘されており,スペインロシアでの失敗を考えると,この点は無視できない。

 ナポレオン戦争の敵対国は先進資本主義国イギリスと大陸の絶対主義国家であるが,対仏大同盟をよく観察すると,大陸市場を守ろうとするイギリスは必ず大陸諸国の側に参戦して戦費補助を行っている。ナポレオンは対イギリス戦略としてエジプト遠征,イギリス本土上陸,大陸封鎖を計画したが,いずれも成功しなかったのは,イギリスの経済力,現実外交,海軍の優越性によるものであった。

 対仏大同盟はナポレオン戦争を整理する座標である。(1)第1大同盟 1796年総裁政府はナポレオンをイタリア遠征軍司令官に任命し,ナポレオンは連勝の勢いにのってサルデーニャ,ミラノを占領,翌年アルコレ,リボリの戦闘ののちマントバを奪取し,終局的にはカンポ・フォルミオ条約オーストリアにライン左岸の割譲,イタリアの新設共和国を承認させた。(2)第2大同盟 99年エジプト遠征中その結成を聞いたナポレオンは,帰国するとクーデタをもって総裁政府を倒し第一執政となり,1800年5月アルプスのサン・ベルナール峠を越えてイタリアに入り,マレンゴでオーストリア軍と会戦(マレンゴの戦),勝敗は決しなかったが国内では勝利と喧伝され,反対勢力を沈黙させた。01年のリュネビル条約はカンポ・フォルミオ条約の追認である。02年アミアンの和約でイギリスと和睦,大同盟は解体し,しばらく国内平和が続いた。(3)第3大同盟 05年イギリスが開戦。ナポレオンは〈大陸軍〉をもってウルムで戦勝をあげてウィーンを占領し,アウステルリッツ会戦(三帝会戦)でオーストリア・ロシア軍を破り,プレスブルク条約を結んだ。フランス海軍はネルソンの艦隊にトラファルガル沖で撃破された(トラファルガーの海戦)。(4)第4大同盟 06年プロイセン,ロシアに対して出兵し,イェーナ,アウエルシュテットの戦勝後ベルリンに入城し,大陸封鎖令を発した。07年アイラウ,フリートラントの会戦で両国軍を破り,ティルジット条約でウェストファーレン王国,ワルシャワ大公国を承認させた。(5)第5大同盟 イベリア半島戦争の継続中,09年イギリスとオーストリアが同盟したためフランス軍はウィーンを占領したが,アスペルン,エスリングで敗れた。ナポレオンはワグラムでオーストリア大公カールを破り,09年7月ウィーン(シェーンブルン)の和約を結んだ。(6)第6大同盟 12年にロシアに遠征し,ボロジノでロシア軍を破り,9月モスクワに入城したが,11月に撤退,ベレジナの渡河戦に失敗し,ナポレオンは大きな犠牲をはらって帰国した。13年解放戦争に立ち上がったプロイセンの呼びかけでこの同盟は結成され,フランス軍はリュッツェン,ドレスデンで勝利を得たが,同年10月ライプチヒ会戦(諸国民戦役)で敗れ,同盟軍はフランス国内に入り,14年3月パリを占領した。フォンテンブロー条約でナポレオンは退位し,エルバ島に流された。(7)第7大同盟 14年ナポレオンの帰国に際してウィーン会議中の列国は同盟し,15年6月イギリスのウェリントン,プロイセンのブリュッヒャーはワーテルローの戦で勝利をおさめ,ナポレオンは失脚した。
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百科事典マイペディア 「ナポレオン戦争」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン戦争【ナポレオンせんそう】

ナポレオン1世が指揮したヨーロッパ征服戦争。対象は英,イタリア,ロシア,オーストリア,プロイセン,スペイン,ポルトガル等に及ぶ。フランス革命が生んだ独立農民が愛国的国民軍として活躍したことは,戦争の歴史において大きな画期となった。またこの戦争によって諸国にナポレオン法典がもたらされ,旧体制の崩壊と近代化につながったことも無視できない。だが,皮肉なことにこの近代化は民族意識をも覚醒させ,反ナポレオン運動を招いた。当初は(とくに英国に対する)自国防衛のための戦争だったが,経済の市場拡大の要求とも結びついており,次第に侵略戦争の色合いを増した。英国を中心とする対仏大同盟軍と数次にわたって戦いをくりひろげたが,1815年のワーテルローの戦での敗戦とナポレオンの退位によって終止符がうたれた。→エジプト遠征アウステルリッツ会戦トラファルガーの海戦大陸封鎖モスクワ遠征解放戦争
→関連項目アミアンの和約ウィーン会議ゲリラシャミッソーチザルピノパリ条約フェートン号事件プレスブルクの和約リバプール伯

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旺文社世界史事典 三訂版 「ナポレオン戦争」の解説

ナポレオン戦争
ナポレオンせんそう

1796年から1815年にかけて,ナポレオン=ボナパルトがヨーロッパ諸国と行った戦争の総称
おもなものとしてイタリア遠征,マレンゴの戦い,アウステルリッツの戦い,トラファルガーの海戦,イエナの戦い,フリートラントの戦い,スペイン反乱(半島戦争),ロシア遠征,ライプチヒの戦い,ワーテルローの戦いなどがある。初めての国民軍による近代的戦争といわれる。

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世界大百科事典(旧版)内のナポレオン戦争の言及

【戦争】より

…それゆえ,一般の市民は戦争の決定にいかなる意味でも関与することはなかったし,それが起こったときにも参加を要求されることはなかった。 こうしたことの一切を変えたのが,1789年から1815年までの約25年間余,革命フランスとその隣国との間で間断なくつづけられた〈革命の戦争〉であり,ナポレオン戦争であった。国家はもはや王朝的君主の〈家産〉ではなく,民族,自由,革命といった大義名分のための装置であり,民衆はこの国家を他のヨーロッパ諸国の旧体制の干渉戦争から守ることに公共の善の具現をみ,この国家に忠誠を示すことによって国民となった。…

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