新経済政策Новая экономическая политика/Novaya ekonomicheskaya politika(ロシア語)の略称。ソビエト国家が1921年から実施した経済政策の体系で、先行する戦時共産主義との対比でこうよばれた。21年初めごろのソビエト・ロシアは、第一次世界大戦、1917年革命、国内戦と外国軍事干渉という打ち続く重圧、動揺、混乱によって、極度の荒廃と経済的疲弊を経験していた。戦前比で工業生産は約5分の1、農業生産はほぼ6割に低落し、国民の不満、とりわけ人口の7~8割にものぼる農民層における政府不信が増大していた。ロシア共産党と政府は、この危機的状況を打開するために経済政策の劇的な転換を余儀なくされた。
まず、戦時共産主義の象徴とみられた食糧割当徴発制が廃止され、食糧現物税が導入された。納税後の余剰穀物の処分は、当初試みられた組織的商品交換の失敗後、農民の自由にゆだねられ、さらに現物税もしだいに貨幣納入に置き換えられた。こうして、都市と農村との関係は商品経済的結び付き(スムイチカ)が支配するようになり、小商品生産者としての農民の物質的関心の強化が促された。
他方、国営工業はトラストに再編成されて商業計算制に移り、また一部の企業は再私有化され中小規模の私営商工業経営が合法化された。1925/26年には、工業生産中の私的セクターの比重が27.1%まで達したが、この間にも大工業、銀行、運輸、外国貿易、土地などの「管制高地」と称された重要な経済領域は、国家の掌中に握られていた。
1923年の鋏(はさみ)状価格差恐慌の克服、翌年の貨幣改革の成功を経て、経済復興は全体として順調に進行した。その意味でネップは成功を収めた。だが、その後の工業固定資本の再建、農業経営の改造といった新しい困難な課題を前にして、ネップは試練に直面することとなった。
ネップの終期については、それぞれのネップ観に基づく諸説がある。たとえば、ネップを社会主義への過渡期における正常な経済政策とする通説的見解では1930年代なかば過ぎ、経済復興のための退却と資本主義の復活とみる立場からは1926~27年、都市と農村の商品経済的結び付きをネップの根幹として重視する見地からは強制的な農業集団化の始まる30年ごろが、それぞれ終期とみなされている。
[門脇 彰]
『中山弘正編著『ネップ経済の研究』(1980・御茶の水書房)』▽『門脇彰・荒田洋編『過渡期経済の研究』(1975・日本評論社)』▽『全集刊行委員会訳『レーニン全集 第32、第33巻』(1959・大月書店)』
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1921年3月ソ連で採用された新経済政策の略称。戦時共産主義の政策が農民の強い不満を呼んだことから,クロンシュタット反乱の起こった際,開会中の第10回党大会で,レーニンの提案により採択された。内容は穀物徴発制を廃止し,食糧税制に移行することによって農民の手元に残る穀物を自由に処分することを許すこと,これに伴い私営商業,小企業の開設を認めること,である。農民の不満を和らげ,小農経営の復興を図り,都市と農村の商品交換を通じて国民経済の復興を達成したことにその意義があった。
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…(4)製条 ひも状の連続したスライバーを作る。(5)コーミングcombing(精梳綿) くしで髪をすくように針で繊維をくしけずって平行に伸ばし,短繊維,ネップnep(繊維の小さな塊),雑物を取り去る(図1)。スライバー中に短繊維が残っていると,後のドラフト工程でむらを生じやすく,ネップ,雑物の存在は糸の品質を低下させるからである。…
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