ローマ皇帝。在位54-68年。ローマ貴族グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスとアウグストゥスの曾孫女アグリッピナ(小)の子ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスとしてアンティウムに生まれる。49年母がクラウディウス帝の妃となると翌50年帝の養子となり,帝が前妃メッサリナによってもうけた実子ブリタニクスTiberius Claudius Caesar Britannicusより年長のため帝位継承の優先順位を得,53年にはブリタニクスの姉オクタウィアと結婚した。しかも母は54年クラウディウスを毒殺,ネロは16歳で帝位につき,ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスという長い称号をとった。
ネロの治政最初の5年間は,近衛長官ブルスやストア哲学者・修辞学者セネカのよい後見のもとに,前代の解放奴隷重用や売官の弊害を改め,元老院の権威を尊重し,裁判手続の公正な改善を図り,徴税請負の弊害を是正し,民衆への食糧輸送・配給を促進した。しかし都警長官ペダニウス・セクンドゥスが自邸で奴隷に殺されたときには,主人の殺害を阻止しなかったという理由で,同一家屋にいた奴隷すべてに連帯責任を負わせた元老院議決に,異議をさしはさまずサインし,400人の奴隷の処刑を,民衆の抗議を排除して実行した。この間,小アグリッピナは女帝のようにふるまい,ネロに対して影響力を行使しようとしたので,ネロはブルスやセネカと組んで阻止した。そこで小アグリッピナはこれまで疎んじていたブリタニクスを支持しようとしたので,55年ネロはブリタニクスを毒殺した。やがてのちの皇帝オトーの妻で妖艶な美女ポッパエア・サビナPoppaea Sabinaを愛人とし,オトーをルシタニア総督に転出させた。そこでネロをめぐって母と愛人とが争い,小アグリッピナは酒に酔わせたネロと母子相姦を犯したとも伝えられている。ついにネロは自己嫌悪とポッパエアのけしかけによって59年母を殺させ,いわばギリシア悲劇における母子相姦のオイディプスと母殺しのオレステスの役割を現実に演じた。62年ネロはついにオクタウィアを離婚し,カンパニアに追放,のちに処刑し,ポッパエアと結婚した。この年にはブルスが死に,その後任の近衛長官ティゲリヌスなどの佞臣(ねいしん)が側近となり,セネカも引退した。治政はしだいに破綻を生じ,財政は乱脈となり,通貨の悪鋳によって物価は高騰した。しかし帝国全体の治安はなおおおむね良好で,ブリタニアにおけるイケニ族の女王ボアディケアBoadicea(ブディッカBoudicca)を首領とする反乱(60-62)は鎮定され,アルメニアをめぐるパルティアとの長年の紛争も,将軍コルブロの適切な処理により,64年ローマの宗主権が承認されるところとなった。
他方ネロはギリシア文化に心酔し,ギリシアの体育・芸術のコンクールをローマに導入し,自ら詩を作って側近の賞讃を求め,64年ナポリで歌手として竪琴を手にして劇場の舞台に立った。同年7月ローマ市の大競技場の一角から怪火が起こり,市の大半が灰燼に帰すると,ネロは迅速に壮麗な姿に復興し,また自らのためにドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設したが,彼が放火を命じたとの噂がたって人心が険悪化したので,それをもみ消すために,民衆に憎まれていたローマ市在住のキリスト者を多数捕らえ,処刑した。この事件の真相は,明らかでないが,ローマ政府による最初のキリスト教徒迫害となった。翌65年には元老院議員ピソの陰謀が発覚し,多くの名士が連座,ピソや詩人ルカヌスは自決を命じられ,ルカヌスの伯父セネカにも嫌疑がかけられ自決。その余波は翌66年まで続き,ネロの〈エレガンスの判定人〉とよばれたペトロニウスなども自決し,恐怖政治を現出した。同年ユダヤで反乱(第1次ユダヤ戦争)が勃発したが,ネロはギリシアを訪れ,オリュンピア,デルフォイの競技に出場し,八百長で優勝,ギリシアに自由を付与した。ついに68年ガリア・ルグドゥネンシス総督ウィンデクスが反乱を起こした。ウィンデクスは敗死したが,上ヒスパニア総督ガルバが同調,ネロは元老院,軍隊に見棄てられ,ローマ市を逃れ,〈なんと惜しい芸術家が,私の死によって失われることか〉とつぶやきながら自殺した。
ネロの死は疑惑の目で見られ,民衆の間には一種の根強い人気があった。そのためギリシアおよび東方世界では,すでに彼の死の直後にネロ再生の風説が生じた。顔つきも,竪琴を弾き歌う様子もネロそっくりの男が,エーゲ海のキトノス島に現れ,無頼漢,奴隷を味方につけ,地主たちから財産を奪い,さらに多くの者を集めたが,まもなく捕らえられて死刑に処せられた。それから12年後の80年ころに,第2のにせネロがアジアに現れた。彼も顔つき,音楽の才ともネロそっくりで,アジア人から信奉者を多く集めて軍隊を編成し,ユーフラテス川の方に進んだが,最後に敗退し,パルティアに逃れた。パルティア王アルタバヌスは彼の再起を助けたが,長くは続かなかった。第3のにせネロも88年ころパルティアに現れ,100年ころのトラヤヌス帝時代でさえ,ネロがまだ生きていることを望み,信じている多くの人がいたと記されている。他方ネロは死後まもなくユダヤの黙示文学にも登場する。彼は母を殺し,多くの人妻と姦通し,数々の殺人の下手人となり,蜜のように甘い歌を歌って劇場での成功を憧れるとともに,パルティア人などと同盟してエルサレム神殿を焼き,ユダヤ人を焼き滅ぼすと語られている。しかしまたユダヤ教の〈タルムード〉の中には,ネロがパレスティナに定住してユダヤ教に改宗し,ユダヤ婦人をめとり,その子孫から偉大な律法学者が出たという奇妙な伝説もある。キリスト教でも《ヨハネの黙示録》第13章が,新しいネロを獣の数666で示したと解釈され,キリスト再臨の前に再び姿を現し,迫害と偶像崇拝をもたらすアンチキリストとされる。中世には〈かつて母親が世に生みおとした最も悪しき男〉となり,ローマのピンチオ丘のネロの墓の木に巣くった悪霊たちは,1099年教皇パスカリス2世によって駆逐され,そこに〈人民の聖マリア聖堂〉が建立された。《薔薇物語》やビザンティン世界にもネロ伝説は生き残っている。
執筆者:秀村 欣二
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ローマ皇帝(在位54~68)。ローマ貴族グナイウス・ドミティウス・アヘノバルブスと、アウグストゥスの曽孫(そうそん)女、小アグリッピナとの子。父の死後、母はネロを連れ子として叔父クラウディウス帝の妃になると、ネロはその養子となった。権力欲の強い母は哲学者セネカをネロの家庭教師とし、ネロを帝の娘オクタウィアと結婚させ、その弟ブリタニクスに優先する帝位後継者にしたが、それでも待ちきれず帝を毒殺して帝位につけた。ネロは治世初期5年間はセネカや近衛(このえ)長官ブルスの補佐の下に善政を行い、母の政治介入を抑えた。そこで彼女がブリタニクスを支援すると、ネロはブリタニクスを毒殺し、ついに愛人ポッパエア・サビナにそそのかされ、59年母を殺させた。
このころブルスが死に、セネカも遠ざけられて、ネロの暴君的行動は著しくなり、オクタウィアは離婚、流刑ののち殺され、妃となったポッパエアもやがて急死した。他方ネロは年少時より芸術に関心を抱き、詩をつくり、とくに民衆の前で竪琴(たてごと)を奏でて歌い、喝采(かっさい)を受けることを好んだ。
64年7月、ローマ市の大競技場の一角から不審火が起こり、市の大半が焼失すると、民衆はこれをネロの放火によるとして不穏の情況がみえた。そこで、ネロは佞臣(ねいしん)ティゲリヌスなどの進言をいれ、その責任をキリスト者に帰して、多数を捕らえ、火刑、十字架刑に処したり犬にかみ殺させたりした。使徒ペテロとパウロもこのとき、またはすこしのちに殉教したと伝えられている。翌65年、元老院議員ピソを中心とする陰謀が発覚、セネカも加担を疑われて自決を命じられた。
66年ネロはギリシアに行き、ギリシアの自由を宣言し、オリンピアなどの競技に参加し、八百長(やおちょう)で多くの栄冠を獲得した。しかし68年にはガリア、ついでスペインに反乱が起こり、ネロは元老院と軍隊に見捨てられローマから脱出したが、追っ手が近づくと自殺した。そのときの彼のことばは「なんと惜しい芸術家が、私の死によって失われることか!」であったという。彼の死後もネロ再来のうわさが伝えられ、中世に至るまでさまざまなネロ伝説が語られた。
[秀村欣二]
『ヴァルテル著、山崎庸一郎訳『ネロ』(1967・みすず書房)』▽『秀村欣二著『ネロ』(中公新書)』
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37~68(在位54~68)
ローマ皇帝。治世の初期5年間は近衛都督ブルス,哲人セネカの後見で善政をしいたが,前者が病死し,後者が引退後,暴虐の性格を現し,母・妻を殺害した。64年のローマ市の大火の罪をキリスト教徒に帰して迫害した。芸術を愛好しギリシアに旅行,競技に出場した。ガリアの反乱に端を発し,元老院,近衛兵に見捨てられ,ローマから脱出,自殺した。
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…大アグリッピナの長女。アントニウスの孫アヘノバルブスと結婚し,ネロを生む。兄カリグラ帝の治世中一時追放されたが,彼が殺され叔父クラウディウスが即位すると,彼と結婚して権勢をふるい,54年ネロを帝位につけるため夫を毒殺したと言われる。…
…それはイエスのキリストたることを否認する者で,終りの日に先立って今現れているという。黙示文学では,エルサレムを荒らしたアンティオコス4世が終末時の敵の原型とされ,さらにローマ皇帝ネロやドミティアヌスもそのようにみなされた。宗教改革者はしばしばローマ教皇をアンチキリストと呼んだ。…
…交通需要の増大によって,スエズ運河は継続的に増深・拡幅工事が行われ,パナマ運河は水平式の新運河の増設が計画されている。【山口 平四郎】
[産業の発達と運河]
ヨーロッパ大陸の運河はローマ時代に,皇帝ネロ(在位54‐68)によりニーダーライン地方とゾイデル海の間に建設されたものにはじまる。その後も運河の建設は続けられ,13~15世紀にはネーデルラント,イタリア,ロシアにも建設されたが,大規模な運河はいまだ出現しなかった。…
…大プリニウスは《博物誌》第37巻のなかに,〈わたくしたちは緑色の草や葉をむさぼるように眺めるが,同じ緑色といっても,エメラルドに比すべき良質のものはどこにもないので,これ以上目にここちよい色はない〉と書いている。また〈エメラルドの平べったい形をしているものは,鏡のように物の姿を映し出す〉として,〈皇帝ネロは1個のエメラルドのなかに剣闘士たちの闘技を眺めた〉と書いている。この文脈から判断すると,どうやらネロは一般に信じられているように,エメラルドを眼鏡として使ったのではなく,平べったいエメラルドの表面に闘技場の光景を映して眺めたらしい。…
…ローマ皇帝ネロの最初の妃。クラウディウス帝とメッサリナの間に生まれ,53年ネロと結婚したが,夫にうとんじられ,62年には不妊を理由に離婚を言い渡された末に,カンパニアに追放された。…
…ネロ帝後のいわゆる〈四帝乱立の年(69年)〉のローマ皇帝の一人。在位69年1~4月。…
…優勝者には,ゼウスの神木オリーブの枝で編んだ葉冠が与えられ,その彫像が聖域内に建てられた。前2世紀以後,ローマの勢力が伸張するに従って,オリュンピア競技からもギリシア精神が失われ,競技に賞金がかけられたり,これを目当てとする職業競技者が横行したりして競技も衰退期に入り,ローマ帝国時代になると,皇帝ネロが聖域内に別荘を建て,みずから競技に参加するため,その日程の都合で,65年に行われるべき第211回の祭典をかってに67年に延期して伝統を乱すような末期的現象を呈するようになった。313年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を公認し,392年にはテオドシウス1世が異教禁止令を出したので,オリュンピアの祭典も競技も翌393年の第293回を限りに消滅した。…
…とくにキリスト教の礼典である聖餐,教徒の交わりが〈人肉食い〉〈近親相姦〉との中傷をうけることになり,彼らを反社会的ないかがわしい集団とする一般の風潮ができあがっていった。64年に生じたローマ市大火でキリスト教徒が放火犯として追及され,数千人(おそらく誇張であろう)が処刑されたという,タキトゥス《年代記》が伝えるところの〈ネロの迫害〉の背景には,このようなキリスト教徒への偏見があり,〈人類敵視〉の罪名がかぶせられたのである。しかしこの迫害はあくまで放火罪が処罰対象であり,一時的なものにとどまり,しかもローマだけのことで,キリスト教の存在そのものを対象とした迫害ではなかった。…
…その中でもとりわけ有名なのは〈トリマルキオの饗宴〉と呼ばれている部分で,かつては奴隷だったトリマルキオが現在では解放されて大金持になって,想像を絶する豪華な宴会を催している。この宴会に参加した主人公たちによって,ぜいたくな食事のメニューやそこで交わされる会話が詳細に紹介されるが,この成上り者の趣味の悪さは皇帝ネロを批判したものとも考えられる。またエウモルプスという名の詩人を登場させ,大げさな叙事詩を発表させているが,これは同時代の詩人ルカヌスを風刺したものらしい。…
…その後財務官として政界入りを果たしたが,卓抜した弁論はカリグラ帝の嫉妬を買うところとなり,41年陰謀によってコルシカ島に追放された。48年小アグリッピナから召喚されて息子ネロの教育をゆだねられ,54年クラウディウス帝の死後は帝政の実権を握り,行政に腕をふるった。その間巨額の富を築き,哲学的信条と実生活の矛盾が非難を浴びた。…
…次いで皇帝となったティベリウスも,続くカリグラも男色を楽しんだ。ネロは解放奴隷ドリュフォルスと女のように接しただけでなく,美青年スポルスを去勢して結婚し,皇后のように扱っている。ハドリアヌスはその寵児アンティノオスのために町を建て,神格化さえ行った。…
…《ブリタニキュス》は,素材をタキトゥス《年代記》によるローマ史に取り,政治悲劇としてコルネイユ以上にコルネイユ的悲劇を書くことによって,そのような批判に応じようとした作品である。 主題は,青年皇帝ネロン(ネロ)が,3年にわたる善政の仮面を捨てて暴君としての正体を現す悲劇的な一日を扱う。そのような〈怪物の誕生〉に至る権力闘争の劇に加わるのは,権勢欲の権化であり,ネロンを自分の軛(くびき)のもとに縛りつけておこうとする母后アグリッピーヌ(小アグリッピナ)であり,かつては権力の座にありながらアグリッピーヌにより失脚させられ,今やネロンの秘密の腹心として青年皇帝を悪へと誘惑する解放奴隷ナルシスであり,また,青年皇帝の後見役として,アグリッピーヌに対してのネロンの自立をはかることで逆に〈怪物の誕生〉に手を貸すことになる武将ビュリュスである。…
…官吏としては職務に熱心であったと伝えられるが,昼間は眠っていて夜を仕事と快楽に過ごしたぜいたくな通人として知られていた。皇帝ネロの宮廷にあって〈優雅の判官arbiter elegantiae〉として,皇帝も彼の意に従って行動するほどの信任を受けた。しかしながら他人のねたみを買い,反逆罪の疑いをかけられ自殺した。…
…幼時にローマにわたり,恵まれた教育環境の中で成長し,20歳のころアテナイに留学した。自身詩作をたしなんだ皇帝ネロに才能を注目され,宮廷に呼ばれた。財務官をつとめるかたわら創作にはげみ数々の作品を発表したが,現存するのは絶筆となった主著《内乱賦》だけである。…
…属州統治においてはとくに西部では旧来の都市同盟(コイノン)を属州会議(コンキリウム・プロウィンキアエconcilium provinciae)として利用し,皇帝礼拝を許可して帝国の統一を図った。 続く皇帝ティベリウス(在位,後14‐37),カリグラ(在位37‐41),クラウディウス1世(在位41‐54),ネロ(在位54‐68)は,アウグストゥスのユリウス家と,妻リウィアのクラウディウス家の枠内で帝位が移ったのでユリウス=クラウディウス朝と呼ばれる。ティベリウスは元老院との協調性において欠けるところがあり,親衛隊長セイアヌスの専断のゆえもあって,政治的密告と恐怖政治が続いた。…
※「ネロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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