ハインリヒ

デジタル大辞泉 「ハインリヒ」の意味・読み・例文・類語

ハインリヒ(Heinrich)

(1世)[876~936]中世ドイツ、ザクセン朝初代の国王。在位919~936。オットー1世の父。マジャール人の侵入を退け、東方のドイツ化、キリスト教化に努めた。
(4世)[1050~1106]中世ドイツ、ザリエル朝第3代の国王・神聖ローマ皇帝。在位1056~1106。聖職叙任権問題で教皇グレゴリウス7世と争って破門され一時は屈服したが、のち反撃して同教皇を追放、帝位を確立した。→カノッサの屈辱

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精選版 日本国語大辞典 「ハインリヒ」の意味・読み・例文・類語

ハインリヒ

  1. ( Heinrich )
  2. [ 一 ] ( 一世 ) ドイツ、ザクセン朝初代の王(在位九一九‐九三六)。オットー一世の父。マジャール人の侵入を退け、東方のドイツ化、キリスト教化につとめ、都市建設王といわれる。(八七六頃‐九三六
  3. [ 二 ] ( 二世 ) ドイツ、ザクセン朝最後の王。神聖ローマ皇帝(在位一〇一四‐二四)。二度イタリアに遠征、教会を保護し、聖者王といわれた。(九七三‐一〇二四
  4. [ 三 ] ( 三世 ) ドイツ、ザリエル朝第二代の王。神聖ローマ皇帝(在位一〇四六‐五六)。ボヘミアハンガリーを征服、南イタリアのノルマン人を従えた。教会の腐敗を粛正し、帝権の伸張に努めた。(一〇一七‐五六
  5. [ 四 ] ( 四世 ) ドイツ、ザリエル朝第三代の王。神聖ローマ皇帝(在位一〇八四‐一一〇六)。教皇グレゴリウス七世と僧職叙任権をめぐって争い(カノッサの屈辱)、諸侯の離反、子どもとの対立など、波乱の生涯をおくる。(一〇五〇‐一一〇六
  6. [ 五 ] ( 五世 ) ドイツ、ザリエル朝第四代の王。神聖ローマ皇帝(在位一一一一‐二五)。ハインリヒ四世の次子。一一二二年教皇カリクストゥス二世とウォルムス協約を結び、叙任権闘争を解決した。(一〇八一‐一一二五
  7. [ 六 ] ( 六世 ) ドイツ、ホーエンシュタウフェン朝第三代の王。神聖ローマ皇帝(在位一一九一‐九七)。フリードリヒ一世の子。一一九四年ナポリ、シチリアを平定してシチリア王となる。ギリシア遠征中に死去。(一一六五‐九七
  8. [ 七 ] ( 七世 ) ルクセンブルク家のドイツ国王。神聖ローマ皇帝(在位一三一二‐一三)。いわゆる諸家交立時代の国王。オットー一世以来の皇帝政策を継承、イタリアに干渉した。一三一三年没。
  9. [ 八 ] ザクセン公およびバイエルン公。リューベックなどの商業都市を築き、多くの司教領を設けて、北東ドイツの開拓、植民に努めた。豪胆だったので獅子公と呼ばれた。一一九五年没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハインリヒ」の意味・わかりやすい解説

ハインリヒ(4世)
はいんりひ
HeinrichⅣ
(1050―1106)

ザリエル朝3代目のドイツ国王・神聖ローマ皇帝(在位1056~1106)。父ハインリヒ3世の死後6歳で王位につき、最初は母后アグネスAgnes(1025―1077)が摂政(せっしょう)として国政をとった。親政開始後、ザクセン経営を推進したが、これに不満をもったザクセン貴族層は、オットー・フォン・ノルトハイムOtto von Nordheim(?―1083)の指導下に反乱を起こした。反乱鎮圧後、ミラノ大司教の叙任問題が発端となり、教皇グレゴリウス7世との間に聖職叙任権闘争が起こり、1076年教皇から破門を受けた。そのため国内貴族層の離反を招き、ハインリヒは翌1077年ひそかにイタリアに赴き、カノッサ城外で教皇に懺悔(ざんげ)して赦免されたが(カノッサ事件)、反国王派貴族はシュワーベン大公ルードルフRudolf von Rheinfelden(在位1077~1080)を対立国王に選び、ドイツ国内は国王支持派と反国王=教皇支持派に分かれて内乱状態に陥った。戦局はハインリヒ側の優位に推移したが、1105年、息子(ハインリヒ5世)に背かれ、リューティッヒ(リエージュ)に逃れて再起を図るうちに死亡した。

[平城照介 2017年12月12日]


ハインリヒ(6世)
はいんりひ
Heinrich Ⅵ
(1165―1197)

ホーエンシュタウフェン朝第3代のドイツ国王・神聖ローマ皇帝(在位1190~97)。父王フリードリヒ1世のイタリア政策の一環として、1186年シチリア王女コンスタンツェと結婚。これがのちに重大な政治的結果を生むこととなる。フリードリヒの十字軍遠征の留守を預かり、国政をゆだねられたが、90年フリードリヒの死によって正式に国王となった。コンスタンツェの父ロジェール(ルッジェーロ)2世の死後、シチリアの王位を継いでいたその弟ウィレム2世が、89年子供を残さずに死んだので、ハインリヒの妻コンスタンツェに相続権が生まれたが、シチリア人はウィレムのいとこタンクレードを国王に選び、さしあたりハインリヒ側の主張は通らなかったが、94年タンクレードの死を機会に、シチリア征服を敢行、パレルモでシチリアの王位についた。その成果にたって、ドイツとシチリアを一体とした世襲帝国の樹立を企てたが、ローマ教皇やドイツ諸侯の反対にあって挫折(ざせつ)した。十字軍従軍の準備中、メッシーナマラリアのため急死。このため、ホーエンシュタウフェン朝の権力は崩壊の危機にさらされることになる。

[平城照介]


ハインリヒ(1世)
はいんりひ
Heinrich Ⅰ
(876ころ―936)

ザクセン朝初代のドイツ国王(在位919~936)。捕鳥王の異名がある。リウドルフィング家のザクセン大公オットーの子として生まれ、912年、父の死後大公位を継ぎ、勢力の拡大に努めた。フランケン出身の初代のドイツ国王コンラート1世は、ハインリヒを後継者に指名して死んだので、フランケンおよびザクセンの豪族は、フリッツラーで彼を国王に選出したが、シュワーベン大公エーベルハルト、バイエルン大公アルヌルフはこれを承認せず、後者が対立国王に選ばれた。ハインリヒは領内の教会支配権を大公に認めるなどの譲歩によって両大公と妥協を図り、全国的にその王位を承認されることに成功した。対外的には、911年以降西フランク王国に併合されていたロートリンゲンを奪回し、繰り返しドイツに侵入していたマジャール人をリアデ付近で打ち破り、エルベ川以東のスラブ人にも征服の手を伸ばし、東部国境地帯に城塞(じょうさい)網を設置して防御を固め、対内的には、教会支配権をふたたび大公から取り戻し、大公に対する王権の強化に努めるなど、ザクセン朝の支配権を確固としたものにするのに大きく貢献した。

[平城照介]


ハインリヒ(獅子公)
はいんりひ
Heinrich der Löwe
(1129ころ―1195)

ウェルフ家のザクセン大公(在位1139~80)兼バイエルン大公(在位1156~80)。父ハインリヒ傲慢(ごうまん)公もザクセン、バイエルンの大公を兼ねたが、国王コンラート3世と対立して、両大公領を失った。ハインリヒ獅子(しし)公は1142年、まずザクセン大公領の領有のみを認められた。その後国王フリードリヒ1世と和解が成立、オストマルクを切り離すことを条件に、56年バイエルンの大公位も承認された。ザクセンを中心に強力な領域的支配圏を樹立しようと努め、リューベックを再建してバルト海貿易の中心地としたほか、都市建設、司教座新設を推進し、また対ウェンド人十字軍を組織して、エルベ川以東のドイツ植民運動の端緒をつくった。その勢力拡大政策は国王フリードリヒ1世との対立をもたらし、国王のイタリア遠征中、獅子公が援軍の要請を拒絶したことで両者の関係は決定的に悪化した。ザクセン貴族層の訴えによる国王の法廷召喚に応じなかったため反逆罪に問われ、80年、ゲルンハウゼンの帝国会議で、諸侯から帝国追放と全所領没収の判決を下された。

[平城照介]


ハインリヒ(5世)
はいんりひ
Heinrich V
(1081―1125)

ザリエル朝最後のドイツ国王・神聖ローマ皇帝(在位1106~25)。1105年、聖職叙任権闘争における反国王派の貴族と結んで父王ハインリヒ4世に反乱を起こし、翌年の父の死後正式に国王に選ばれた。だが彼もザリエル家伝統の王権強化政策を踏襲したため、ふたたび国内諸侯と対立することになった。また父王に背いてまで実現しようとした目標、すなわち聖職叙任権闘争を終結させることも、国王側、教皇側がそれぞれの主張を譲らなかったため、幾度もの交渉にもかかわらずはかばかしい進展をみせなかった。その間、1115年ベルフェスホルツの戦いで諸侯側に敗れ、また国王支持の立場をとっていた聖界諸侯も王権から離反し始めたので、ハインリヒは聖職叙任権闘争終結のための交渉を諸侯の手にゆだねた。その結果1122年ウォルムス協約が結ばれ、叙任権をめぐる教権と俗権との紛争にいちおうの終止符が打たれた。だがこの闘争期に聖・俗の諸侯はそれぞれの領域的支配権を強化し、ドイツ国内の封建化の傾向は決定的に進んだ。

[平城照介]


ハインリヒ(3世)
はいんりひ
Heinrich Ⅲ
(1017―1056)

ザリエル朝第2代のドイツ国王・神聖ローマ皇帝(在位1039~56)。父コンラート2世の死後王位を継いだが、フランケン、シュワーベン、バイエルン、ケルンテンの各大公権力を一手に掌握し、中世ドイツを通じて最強の支配者であった。リウティッツ人、ポーランド人、ベーメン人、ハンガリー人に対し、ドイツ国王の封建的宗主権を広げ、ゴスラーに壮大な王宮を建ててザクセン経営の拠点とし、また教会改革運動を支援し、「神の平和」運動をドイツに導入して国内平和を推進した。1046年にはローマ遠征を行い、鼎立(ていりつ)していた3人の教皇を一挙に廃位、ドイツ人クレメンス2世を教皇の座につけ、教皇権の革新にも力を貸した。だが国内においては、ロートリンゲン大公ゴットフリートの反乱などが起こり、聖職叙任権闘争期の貴族反乱の兆しも生まれた。

[平城照介]


ハインリヒ(2世)
はいんりひ
Heinrich Ⅱ
(973―1024)

ザクセン朝最後のドイツ国王(在位1002~24)。オットー3世が子供を残さず夭逝(ようせい)したため、又従兄(またいとこ)でバイエルン大公のハインリヒが王位を継いだ。「ローマ帝国の復興」を夢みたオットー3世のユートピア的政策に対し、ハインリヒはふたたびドイツに根を下ろしたじみな政策に立ち返り、国内諸侯の独立化を抑え、王権の強化に努めた。対外的には、ポーランドの大公ボレスラフ・クロブリイの拡大政策に対抗し、異教徒のリウティツ人と同盟してマイセン辺境伯領の喪失を防ぎ、対内的には、バンベルク司教座を新設して、新しい文化的・宗教的中心をつくりだしたほか、ゴルツェ修道院に指導される教会改革運動を援助し、教会を王権の支柱とするザクセン朝の帝国教会政策をいっそう推進した。

[平城照介]


ハインリヒ(7世)
はいんりひ
Heinrich Ⅶ
(1274ころ―1313)

ルクセンブルク家のドイツ国王・神聖ローマ皇帝(在位1308~13)。ハプスブルク家のアルプレヒト1世の死後、王弟シャルルを推すフランス王フィリップ4世に対抗し、ケルン、トリールの大司教らの援助で国王に選ばれた。1310年弟のヨハンをボヘミアの王位につけ、ルクセンブルク家が東方に勢力を伸ばす端緒をつくった。同年、皇帝戴冠(たいかん)のためイタリア遠征を行ったが、グェルフ派とギベリン派との抗争に巻き込まれ、ナポリ王ロベールもハインリヒに対抗して戴冠場所である聖ペテロ教会を占拠したので、12年ラテランで枢機卿(すうききょう)の手から帝冠を受けた。シチリア王と結んでナポリを討とうとしたが、途中マラリアにかかって急死した。

[平城照介]

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百科事典マイペディア 「ハインリヒ」の意味・わかりやすい解説

ハインリヒ[4世]【ハインリヒ】

ザリエル朝ドイツ国王(在位1056年―1105年),神聖ローマ皇帝(在位1084年―1105年)。ハインリヒ3世の子。初め母アグネス,次いでブレーメン司教アダルベルトが摂政となり,1065年から親政。教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争では1077年カノッサの屈辱で危機を打開し,のち教皇をローマから追放した。1103年最初の帝国平和令を発布。
→関連項目イタリア政策グレゴリウス[7世]ハインリヒ[5世]

ハインリヒ[5世]【ハインリヒ】

ザリエル朝最後のドイツ国王(在位1098年―1125年),神聖ローマ皇帝(在位1111年―1125年)。ハインリヒ4世の子。1104年諸侯とともに父王に対し反乱,1105年その王位を奪った。叙任権闘争では一時勝利を得たが,国内諸司教の離反と教皇庁の反撃により1122年ウォルムス協約で終止符を打った。
→関連項目マティルダ

ハインリヒ[3世]【ハインリヒ】

ザリエル朝ドイツ国王(在位1028年―1056年,単独統治は1039年より),神聖ローマ皇帝(在位1046年―1056年)。黒王と称される。コンラート2世の子。計画的な王領地経営と帝国家人の登用で王権の伸張を図り,クリュニーの修道院改革運動に共鳴した。2度イタリアに遠征し,1046年対立する3教皇を廃止して初のドイツ人教皇クレメンス2世を擁立。中世ドイツの最盛期を現出。
→関連項目ゴスラーハインリヒ[4世]

ハインリヒ[6世]【ハインリヒ】

シュタウフェン朝ドイツ国王(在位1169年―1197年),神聖ローマ皇帝(1191年―1197年)。シチリア王(在位1194年―1197年)を兼ねる。フリードリヒ1世の子。英国王リチャード1世の抑留事件を通じて宿敵ハインリヒ獅子公と和解,以後国際政治での優位を確保。ナポリ,シチリアを征服したが,帝国世襲計画は諸侯の反対で失敗,ビザンティン帝国併合の構想も挫折。
→関連項目フリードリヒ[2世]

ハインリヒ[獅子公]【ハインリヒ】

ザクセン公,バイエルン公。英国王リチャード1世(獅子心王)の義兄。東方植民,都市(特にリューベック)建設,北海貿易の振興に貢献。1156年バイエルン公国を取得して帝国随一の実力者となった。のちに神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と対立,1180年領土を奪われた。
→関連項目ハインリヒ[6世]

ハインリヒ[1世]【ハインリヒ】

ザクセン朝初代のドイツ国王(在位919年―936年)。捕鳥王,都市建設王と称される。オットー1世(大帝)の父。初代ドイツ国王コンラート1世の指名とフランク,ザクセン諸侯の推挙で即位。東部・北部の辺境に多数の城塞(じょうさい)を設置,外敵を撃退し,ドイツ王国の基礎を築いた。
→関連項目ハインリヒ[2世]

ハインリヒ[2世]【ハインリヒ】

ザクセン朝最後のドイツ国王(在位1002年―1024年),神聖ローマ皇帝(在位1014年―1024年)。篤信,聡明な現実政治家で聖者王と称される。ハインリヒ1世の曾孫。オットー3世のあとを継承,帝国教会政策を推進。3次にわたりイタリアに遠征,ポーランドの進出を抑え,東部国境を強化した。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハインリヒ」の意味・わかりやすい解説

ハインリヒ(フェルデケの)
Heinrich von Veldeke

12世紀後半に活躍したドイツの詩人。生没年不詳。マーストリヒト(現,オランダ領)近郊フェルデケの出身でローン公の従士であった。彼の主要作品である《エネイーデ》は,フランスの《エネアース物語》の翻案で,愛(ミンネ)を主題としており,これによって彼はドイツの新しい宮廷叙事詩の創始者,かつドイツ語の詩形の確立者となった。中部ライン語のほか高地ドイツ語にも通じ,処女作は聖徒物語《セルウァティウス》(1170ころ)で,トルバドゥール風の抒情詩も残している。
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旺文社世界史事典 三訂版 「ハインリヒ」の解説

ハインリヒ(4世)
Heinrich Ⅳ

1050〜1106
ザリエル朝の神聖ローマ帝国皇帝(在位1056〜1106)
ハインリヒ3世の子。幼少で即位したため,諸侯の反抗を招いたが,1065年親政後は,諸都市の支持を得て諸侯を押さえた。1076年聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立し,77年カノッサの屈辱 (くつじよく) を招いたが,のち教皇を追い,帝権を確保した。

ハインリヒ(3世)
Heinrich Ⅲ

1017〜56
ザリエル朝の神聖ローマ帝国皇帝(在位1039〜56)。黒王(der Schwarze)とも呼ばれる
ベーメン(ボヘミア)・ハンガリーを征服し,南イタリアにも進撃,中世ドイツの皇帝権の最盛期を現出。また初めてドイツ人司教をローマ教皇に立ててクリュニー派の改革運動を支援した。

ハインリヒ(2世)
Heinrich Ⅱ

973〜1024
ザクセン朝最後の神聖ローマ帝国皇帝(在位1002〜24)。聖者王(der Heilige)とも呼ばれる
3回のイタリア遠征(1004,14,21〜22)を行ってイタリア王位を得,またポーランドとも争った。内政では帝国教会政策をとり,聖者に列して聖者王の名を得た。

ハインリヒ(5世)
Heinrich Ⅴ

1081〜1125
ザリエル朝最後の神聖ローマ帝国皇帝(在位1106〜25)
父ハインリヒ4世に反乱を起こし,父の死後即位。先帝以来の聖職叙任権問題の解決につとめ,1110年ローマ教皇を圧迫して叙任権を握ったが,教会の反発や諸侯の反乱にあい,22年ヴォルムス協約で教皇に譲歩した。

ハインリヒ(1世)
Heinrich Ⅰ

876〜936
ドイツ国王(在位919〜36)。捕鳥王(der Vogler)とも呼ばれる
ザクセン朝の創始者で,オットー1世(大帝)の父。反抗する諸部族を服従させ,辺境の防衛に力を注ぎ,また城塞建設を行ってマジャール人やスラヴ民族・デーン人などを撃退した。

ハインリヒ(6世)
Heinrich Ⅵ

1165〜97
シュタウフェン家の神聖ローマ帝国皇帝(在位1190〜97)
フリードリヒ1世の子。世襲王政の確立をはかったが諸侯の反対で失敗。1194年ナポリ・シチリアを平定してその王となり,十字軍としてギリシア遠征中,メッシナで急死した。

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世界大百科事典(旧版)内のハインリヒの言及

【シュタウフェン朝】より

…1138年から1254年まで,事実上連続してドイツ国王位につく。その間,フリードリヒ1世ハインリヒ6世フリードリヒ2世という3世代の英主は,いわゆる神聖ローマ皇帝としてヨーロッパ的覇権の樹立を目ざす。彼らの努力は結局挫折に終わるが,シュタウフェン諸帝の活躍は中世的皇帝権に最後の輝きを添えたものと評価されている。…

※「ハインリヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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