ハリス(読み)はりす

デジタル大辞泉 「ハリス」の意味・読み・例文・類語

ハリス(Townsend Harris)

[1804~1878]米国の外交官。日米和親条約の結果、1856年(安政3)初代駐日総領事として下田に赴任。下田条約日米修好通商条約締結に成功後、公使。62年(文久2)帰国。著「日本滞在記」。

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精選版 日本国語大辞典 「ハリス」の意味・読み・例文・類語

ハリス

  1. ( Townsend Harris タウンゼンド━ ) アメリカの外交官。安政三年(一八五六)初代駐日総領事として来日、下田に着任。同五年日米修好通商条約を結び、同六年全権公使となる。著「日本滞在記」。(一八〇四‐七八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハリス」の意味・わかりやすい解説

ハリス(Townsend Harris)
はりす
Townsend Harris
(1804―1878)

幕末の駐日アメリカ外交官。1804年10月4日ニューヨーク州サンディ・ヒルに生まれ、中学校を終えると兄ジョンとともに陶磁器輸入商を営み、社会事業にも携わり、46年ニューヨーク市教育委員長に就任、無料中学校(後のニューヨーク市立大学(シティカレッジ))を設立した。49年5月東洋への航海に出、清(しん)国を中心に商業活動に従事、54年寧波(ニンポー)領事に任命されたがこれを不満とし、帰国して大統領ピアースに運動して、55年8月4日駐日総領事に任命され、書記官ヒュースケンを伴い翌56年8月21日(安政3年7月21日)下田(しもだ)に着任、9月3日(8月5日)柿崎(かきざき)の玉泉寺(ぎょくせんじ)に入った。下田奉行(ぶぎょう)井上清直・中村時万(ときつむ)との交渉により57年下田条約に調印、ついで大統領親書捧呈(ほうてい)と通商条約交渉のため同年11月23日(安政4年10月7日)下田を発して江戸に向かい、交渉を重ね、いったん下田に戻り、翌58年米船ポーハタン号で神奈川沖に進出、7月29日(安政5年6月19日)日米修好通商条約を締結した。59年春、休暇で中国に滞在中、弁理公使任命(1月19日付)を知り、6月(和暦5月)神奈川経由、江戸麻布(あざぶ)の善福寺に移った。61年11月14日解任、62年4月(文久2年3月28日)解任状を提出、同年5月13日(文久2年4月15日)帰国の途についた。下田時代看護婦として雇い3日で去らせたきちという女性がいて、のちに唐人お吉(きち)の伝説を生んだ。厳格なクリスチャンで酒・たばこを用いず、生涯独身であった。78年2月25日ニューヨークで死去した。著書に『The Complete Journal of Townsend Harris』New York, 1930(邦訳『日本滞在記』)があり、伝記にスタットラーの『下田物語』がある。

[金井 圓]

『坂田精一訳『日本滞在記』全3冊(岩波文庫)』『O・スタットラー著、金井圓訳『下田物語』全3冊(社会思想社・現代教養文庫)』


ハリス(Wilson Harris)
はりす
Wilson Harris
(1921―2018)

ガイアナの小説家、詩人、文明評論家。多人種混血の家系に生まれ、ジョージタウンのクイーンズ・カレッジでラテン語とギリシア語を学んだ。1938年卒業後、土地測量士となり密林の奥地で測量に従事し、この体験が小説の背景になった。1959年以降イギリスに定住し、創作に専念する一方、オーストラリア、カナダ、イギリス、アメリカ、キューバの各大学と西インド大学で教えた。『ガイアナ四部作』として1985年に発売された1960年代の小説、すなわち代表作『孔雀(くじゃく)の宮殿』(1960)、『オーディンのはるかなる旅』(1961)、『完全武装』(1962)、『秘密の会談』(1963)で、現実と神話の世界を重ね合わせながら、現代世界における「死と創生」の原初的パターンを探っている。1970年以降は『ロライマの眠れる男』(1970)、『雨ごい呪術(じゅじゅつ)師』(1971)で、カリブやアラワクの神話や伝説を短編化する仕事に意欲的に取り組んだ。1980年代には三部作『カーニバル』(1985)、『限りないリハーサル』(1987)、『宇宙河の四つの土手』(1990)で、それぞれダンテの『神曲』、ゲーテの『ファウスト』、ユリシーズを下敷きにしながら、クレオール文化とヨーロッパ文化との統合の可能性を探っている。ほかに、小説『悲しみの丘での復活』(1993)、『ジョーンズタウン』(1996)、ブッシュ(森林)の孤独を歌った詩集『泉と大地』(1952)、『季節よ永遠であれ』(1954)、評論集『宇宙の子宮』(1983)と『過激な想像力』(1992)がある。

[土屋 哲 2018年3月19日]


ハリス(Chapin Aaron Harris)
はりす
Chapin Aaron Harris
(1806―1860)

アメリカ歯科医学教育の発展に功労ある歯科医学者。ニューヨーク州に生まれたが、少年のころにオハイオ州に移った。1824年ころから医学を学び、医師の免許を得たのちに、歯科医学を修めて兼業した。1837年にボルティモア市で開業し、歯科専門医となった。同年にメリーランド大学の医学生に歯科医学の講義を行い、1839年には最初の著書『歯科手術学』The Dental Art, a Practical Treaties on Dental Surgeryを出版した。1849年には『歯科医学辞典』Dictionary of Dental Surgeryを刊行した。H・ハイデンに協力してボルティモア歯科医学校を創立し、またアメリカ歯科医師会の設立にも尽くした功績は大である。

[本間邦則]


ハリス(Frank Harris)
はりす
Frank Harris
(1856―1931)

アメリカの小説家。アイルランド生まれ。アメリカに渡っていろいろな職業を転々としたあと、1875年帰化して弁護士の資格を得た。そののちヨーロッパに戻り、イギリスではビアボーム、ワイルド、G・B・ショーなどの作家と親交を結んだ。『エルダー・コンクリン』(1894)などの短編作家として文名を得たが、その名を有名にしたのは、赤裸な告白で知られる『我が生と愛』4巻(1922~1927)であろう。

[筒井正明]


ハリス(Benjamin Harris)
はりす
Benjamin Harris
(?―1716)

イギリスの新聞発行人、書籍販売業者。アメリカに渡り、植民地最初の新聞『パブリック・オカレンセズ』を発行したことで有名。ロンドンで『ドメスチック・インテリジェンス』紙(週2回刊)を発行していたが、扇動的なパンフレットを印刷発行したとの理由で逮捕・投獄された。1686年本国から植民地へ逃れ、ボストンで書籍販売店を開き、アメリカ最初のベストセラーの一つ『ニュー・イングランド入門書』を出版。1690年には4ページ建て(第4ページは読者の書き込み用として白紙)の『パブリック・オカレンセズ』を創刊した。月1回発行だが事件が多発すれば発行回数を増やすという方針で発行された同紙は、4日後に発禁処分を受け1号限りで廃刊。発行許可を得ていないことや支配者を批判したことが発禁理由だった。ハリスは1695年ごろロンドンに戻り、新聞3紙の発行に失敗したのち、1699年から6年間『ロンドン・ポスト』紙を発行した。

[鈴木ケイ]


ハリス(Joel Chandler Harris)
はりす
Joel Chandler Harris
(1848―1908)

アメリカの作家。ジョージア州に生まれ、アメリカ南部の綿花農場に囲まれた土地で、農場で働く黒人の生活を身近に見て育った。13歳で新聞社の印刷見習いとして働き始め、しだいに原稿も書くようになり、のちには記者として新聞社を転々とした。1880年、アトランタの新聞に連載した黒人の歌や民話をまとめて『アンクル・リーマス物語』として出版したところ、大好評を博し、黒人の語り口そのままの風刺のきいた話の数々は、子供はいうに及ばず、多くの人の愛するところとなった。

[掛川恭子]

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百科事典マイペディア 「ハリス」の意味・わかりやすい解説

ハリス

幕末,米国の外交官。1856年初代駐日総領事として伊豆(いず)下田に着き,玉泉(ぎょくせん)寺を総領事館とした。1857年下田条約,1858年日本最初の包括的通商条約日米修好通商条約の締結に成功し,翌年公使に昇任,江戸麻布(あざぶ)善福寺に公使館を置いた。新見正興,村垣範正ら幕府の遣米使節派遣に尽力。1862年辞任して帰国。ニューヨークで没。日記《日本滞在記》がある。→唐人お吉安政五ヵ国条約
→関連項目オールコック開国(日本史)下田[市]ヒュースケンペリー堀田正睦

ハリス

米国の作曲家。カリフォルニア大学で哲学と経済学を専攻したのち音楽を正式に学び,《弦楽のためのアンダンテ》(1925年)がコンクールに入賞。1926年―1928年パリでN.ブーランジェに師事。帰国後クーセビツキーと親交を結び,その依頼による《交響曲第3番》(1937年)で名声を確立した。以後,アメリカ各地で教職に就き,1961年―1973年母校教授。調性を基盤にした活力あふれる作風で知られ,16の交響曲(1933年―1979年)のほか,同名のアメリカ民謡を主題にした交響序曲《ジョニーが凱旋(がいせん)する時》(1934年)などがある。

ハリス

米国の作家。ジョージア州生れ。黒人の伝説をアンクル・リーマスの口を通して語る《アンクル・リーマスの歌とことば》(1880年)など,一連の児童文学で有名。ジョージアの人びとを描いた小説もある。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハリス」の意味・わかりやすい解説

ハリス
Townsend Harris
生没年:1804-78

アメリカの初代駐日総領事,公使。ニューヨーク州生れ。13歳から働き始め,正規には初等教育しか受けなかったが,独学で数ヵ国語を習得。1846年ニューヨーク市教育委員会委員長として,無料の高等教育機関(現,ニューヨーク市立大学)設置に貢献した。49年から貿易に従事し,インドシナ,清国方面に遠征。55年駐日総領事に任命され,56年8月(安政3年7月)下田に来航,玉泉寺を総領事館とした。57年6月下田条約(日米協定)を調印するものの幕府は通商交渉を渋り,ハリスは15ヵ月間,下田で孤立した生活を送ったが,57年12月将軍徳川家定に謁見。アメリカは他の列強とは異なり危険な野心をもたず,逆に列強に対し日本の盾となる友好国であると強調した。ハリスの忍耐強さと説得が功を奏し,58年7月日本最初の包括的通商条約(日米修好通商条約)が締結された。59年公使に昇格,江戸麻布善福寺に仮公使館を設置。61年公使館通訳官のH.ヒュースケンが暗殺され,諸外国公使が横浜に避難した際にも,ハリスは江戸にとどまった。62年帰国。在日中の日記《日本滞在記》が残っている。ハリスの妾となった唐人お吉は,のち多くの小説や戯曲でとり上げられた。
執筆者:


ハリス
Joel Chandler Harris
生没年:1848-1908

アメリカの小説家。ジョージア州に生まれ,1862-66年週刊新聞も発行していたプランテーション経営者のもとで働き,この間黒人奴隷の民話,習慣,方言に親しむ。その後《アトランタ・コンスティチューション》紙の編集員(1876-1900)を務め,同紙に〈アンクル・リーマスUncle Remus物〉を連載,これらは《アンクル・リーマスの歌と言葉》(1880)など数冊にまとめられた。奴隷出身の老召使アンクル・リーマスが主人の息子に聞かせるという設定で,人間のように行動するウサギやキツネなども登場する黒人民話が,黒人の方言を用いてユーモアをまじえて語られる。これらは子どものためのすぐれた物語であるとともに,黒人の民俗資料としても重要である。
執筆者:


ハリス
Roy Harris
生没年:1898-1979

アメリカの作曲家。1926-28年パリでN.ブーランジェに師事した。アメリカ最大の交響曲作曲家として知られ,没する年に《交響曲第16番》を完成した。なかでも《交響曲第3番》(1937)はアメリカ精神を抽象的に高揚した名作として知られている。《民謡交響曲》(第2番。合唱付き),《ゲティスバーグ演説交響曲》(第6番),《サンフランシスコ交響曲》(第8番),《エーブラハム・リンカン交響曲》(第10番)のような標題交響曲もある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「ハリス」の解説

ハリス

没年:1878.2.25(1878.2.25)
生年:1804.10.4
幕末のアメリカの外交官。ニューヨーク州サンディ・ヒルに帽子商の5男として生まれる。14歳でニューヨーク市の繊維商に奉公,1820年に兄が営む陶磁器輸入商に加わって小売店を担当した。その傍ら語学修得など勉学に努め,敬虔なキリスト者として日曜学校の教師を引き受けていたほか,廉潔な性格を買われて貯蓄銀行の評議員にも選ばれている。民主党員としては社会奉仕に力を尽くし,なかでも教育委員としての活動は特筆される。41年ニューヨーク市の教育委員となり,46年6月には同委員長に選出された。47年1月,授業料免除の高等教育機関フリー・アカデミー(ニューヨーク市立大学)の創設を提案,市民の賛同が得られるや建設実行委員会の委員長として尽力した。47年に母を失い,48年1月には教育委員会委員長を辞任,その後まもなくして店が倒産した。 49年5月ニューヨークを去り,船主となってサンフランシスコ,太平洋,東南アジア,インド洋を股にかけた貿易活動に従う。54年8月,寧波のアメリカ領事に任命されるが赴任せず帰国。来たるべき初代駐日総領事に任ぜられるよう運動し,55年8月に大統領命令の形で拝命(正式な任命は56年6月)。安政3(1856)年7月21日(8月21日),下田に到着した。同5年6月19日(7月29日)念願の日米修好通商条約を結び,同年末駐日公使に昇任,文久2(1862)年4月に日本を離れた。<著作>『ハリス日本滞在記』(坂田精一訳)<参考文献>中西道子『タウンゼンド・ハリス』

(内海孝)


ハリス

没年:大正10.5.8(1921)
生年:1846.7.9
明治期のアメリカ・メソジスト監督派の宣教師。南北戦争に参加,大学卒業後の明治6(1873)年12月夫人のF.L.B.ハリスと来日。翌年より函館に居住,同8年に北海道初のプロテスタント受洗者2人を得た。キリスト教式の埋葬や聖書講義の集会で検挙される事件が起こるなかで函館教会の基礎を築く。同10年札幌で,W.S.クラークの薫陶を受けた札幌農学校の学生に授洗したが,内村鑑三ら中心人物がやがて教派主義に反発,同15年札幌基督教会(札幌独立基督教会)を設立するにおよび,ハリスに始まった札幌伝道は中断した。同11年東京に転じ,美会神学校,耕教学舎(いずれも青山学院の源流)などで教えた。同19年一時帰国後,同37年日本および韓国のメソジスト監督教会の監督に選出され,翌年再来日。東京で没。函館教会にはハリス監督記念礼拝堂がある。<参考文献>『日本基督教団函館教会100年史』

(小檜山ルイ)


ハリス

没年:明治42.9.7(1909)
生年:1850.2.14
明治期のアメリカ・メソジスト監督派の婦人宣教師。アレガニー大学でM.A.取得。明治6(1873)年同学のM.C.ハリスと結婚,12月夫と来日。翌1月より函館に居住し,夫の開拓伝道を補佐。自宅に日本人子女を集め,英語,手芸,作法などを教えるとともに,バイブル・クラスを行う。メソジスト監督派婦人伝道局の機関誌『異教徒の女性の友』に日本での女子教育の必要性を説いたところ,C.R.ライト夫人が共感,同15年遺愛女学校(遺愛学院)創立の資金を献金した。同11年東京に転任,同19年健康を害し帰国。在米邦人のなかで働く。同38年夫と再来日。東京で没。賛美歌343番の作詞,『土佐日記』など日本文学の英訳,内村鑑三との親交でも知られる。<著作>新谷武四郎編訳『ハリス夫人遺稿集』,同訳『ハリス夫人詩集』<参考文献>『遺愛百年史』

(小檜山ルイ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハリス」の意味・わかりやすい解説

ハリス
Harris, William Torrey

[生]1835.9.10. コネティカット,ノースキリングリー
[没]1909.11.5. プロビデンス
アメリカの教育家。 19世紀後半の最も著名な公立学校行政官,哲学者。エール・カレッジに学び,ミズーリ州セントルイスで教師をつとめたのち 1868~80年教育長に就任。カリキュラムに美術,音楽,理科,工作などを導入し,教員養成における教育学の専門的研究を奨励した。セントルイスの公立ハイスクールの拡充,幼稚園の正規の学校体系への編入などにも努めた。 89~1906年連邦政府教育局長官に就任。哲学者,心理学者としてはドイツ観念論,アメリカ超絶主義,キリスト教,性相学,精神陶冶説などを信奉した。著述家としては多作で,数百に及ぶ哲学的,教育的論文を発表し,『思弁哲学雑誌』 Journal of Speculative Philosophy,『アプルトン国際教育叢書』,ウェブスターの『新国際辞典』などの編集にも関与した。主著『哲学研究入門』 Introduction to the Study of Philosophy (1889) ,『初等教育』 Elementary Education (1900) 。

ハリス
Harris, Zellig Sabbetai

[生]1909.10.23. バルタ
[没]1992.5.22. ニューヨーク
ロシア生れのアメリカの言語学者。ペンシルバニア大学教授。アメリカ構造主義言語学の方法論に反省を加え,それを精密化する一方,変形の概念を導入することによって N.チョムスキー変形文法の先駆の役割を果した。主著『構造言語学の方法』 Methods in Structural Linguistics (1951,改訂増補版『構造言語学』 Structural Linguistics〈60〉) ,『構造・変形言語学論集』 Papers in Structural and Transformational Linguistics (70) など。

ハリス
Harris, Frank

[生]1856.2.14. ゴールウェー
[没]1931.8.26. ニース
アメリカの文筆家,法律家。アイルランドに生れ,1870年アメリカに渡り,カンザス大学で学んだのち帰化。 90年代にイギリスに渡って,『フォートナイトリー・レビュー』『サタデー・レビュー』『バニティ・フェア』などの雑誌を編集。かたわらワイルド,ショー,H. G.ウェルズらと親交を結び,彼らの私生活を暴露してしばしば問題を引起した。主著『人間シェークスピア』 The Man Shakespeare (1909) ,『ワイルド伝』 Oscar Wilde: His Life and Confessions (2巻,20) ,大胆な性愛描写で発禁となった自伝『わが生涯と愛』 My Life and Loves (3巻,23~27) 。

ハリス
Harris, Townsend

[生]1804.10.4. ニューヨーク,サンディヒル
[没]1878.2.25. ニューヨーク,サンディヒル
アメリカの外交官。幕末の駐日公使。兄とともに陶磁器輸入商を営み,社会事業に奉仕。ニューヨーク市教育委員長となり,のちのニューヨーク市立大学を設立した。次いで清国に渡り,商業活動に従事。安政1 (1854) 年ニンポー (寧波) 領事となった。同2年 M.ペリーが結んだ日米和親条約を実施,拡大する使命を帯びて駐日総領事として同3年7月下田へ着任。幕府に通商条約の調印を迫り,同5年6月条約の締結に成功した。同年 12月公使に就任。文久2 (62) 年4月解任されて帰国。著書『日本滞在記』。

ハリス
Harris, Benjamin

1673~1716年に活躍したイギリスの書籍商,作家。非国教徒でホイッグ党員であったが,ロンドンで発表したパンフレットに対する官憲の追及から免れるため 1686年ボストンに逃れ,書店とコーヒー店を経営。アメリカ最初の新聞となった"Publick Occurances Both Forreign and Domestick"を発刊 (1690.9.25.) したが1号でボストン官憲から発禁処分を受けた。しかし彼の書いた『ニューイングランド初歩読本』 The New England Primerは1世紀の間教科書として愛用された。 95年ロンドンに帰り,99年から 1706年まで『ロンドン・ポスト』 The London Postを定期的に発行した。

ハリス
Charis, Petros

[生]1902.8.26. アデン
ギリシアの小説家。本名 Ioannis Marmariadis。 1933年からギリシアの代表的な文芸誌『ネア・エスティア』の編集長をつとめる。短編小説にすぐれ,代表作に『地上最後の夜』I teleutaia nychta tis gis (1924) ,『遠い世界』 Makrinos kosmos (44) などがある。ほかに『子供の対話』 Paidikoi dialogoi (24) などの児童文学,『自由なる知識人』 Eleutheroi Pneumatikoi anthropoi (47) などのエッセーも多い。

ハリス
Harris, Wilson

[生]1921.3.24.
ガイアナの小説家,詩人,文明批評家。 17歳で土地測量士となり,ジャングル奥地での測量に従事,これがのちの小説の背景となった。 1945年から『キク』誌に詩を発表,59年以降イギリスに定住し,創作活動のかたわら,アメリカ,イギリスなどの大学で教えた。詩集『井戸と土地』 The Well and the Land (1952) ,小説『孔雀の宮殿』 Palace of the Peacock (60) ,比較文化論集『宇宙の子宮』 The Womb of Space (83) などがある。

ハリス
Harris, Joel Chandler

[生]1848.12.9. ジョージア,イートントン
[没]1908.7.3. アトランタ
アメリカの小説家。 24年間にわたって『アトランタ・コンスティテューション』誌の編集にたずさわり,賢い黒人の老僕リーマスじいやが動物の話をする形式の物語を書いて大好評を博した。それは『リーマスじいや-その歌とお話』 Uncle Remus: His Songs and Sayings (1880) 以下の作品集にまとめられた。南部黒人の方言を忠実に記録した黒人民話の集成として高く評価される。

ハリス
Harris, Roy

[生]1898.2.12. オクラホマリンカーン
[没]1979.10.1. カリフォルニア,サンタモニカ
アメリカの作曲家。カリフォルニア大学で哲学,経済学を修める。音楽は A.ファーウェルに学んだのち,パリに留学し,N.ブーランジェに師事。同世代のアメリカの作曲家と同様に,新古典的,折衷的手法をとり,10曲の交響曲,交響序曲『ジョニーが帰ってくるとき』 (1935) などが代表作。ほかに『ピアノ五重奏曲』 (36) ,室内楽などがある。

ハリス
Harris, George Washington

[生]1814.3.20. ペンシルバニア,アリゲニー
[没]1869.12.11. テネシー,ノックスビル
アメリカのユーモア作家。テネシー川の汽船の船長を経て,1840年頃から,さまざまな新聞,雑誌にユーモラスな物語を寄稿し好評を博した。南部独特のほら話を方言で綴った短編集『サット・ラビングッドのお話』 Sut Lovingood's Yarns (1867) など。

ハリス
Harris, Louis

[生]1921.1.6. ニューヘーブン
アメリカの世論分析家,コラムニスト。ノースカロライナ大学卒業。 1956年ルイス・ハリス世論調査研究所を創設し,世論調査や市場調査の分野で活躍,またコラムニストとして『ワシントン・ポスト』『ニューズウィーク』その他に寄稿。 74年『オーガスタ・クロニクル・アンド・ヘラルド』紙副社長兼編集長就任。

ハリス
Harris, Merriman Colbert

[生]1846.7.9.
[没]1921.5.8.
アメリカのメソジスト監督教会宣教師。 1873年来日して函館で伝道し,内村鑑三,新渡戸稲造に授洗。 78年東京に移って伝道,一時帰米して (86) サンフランシスコを中心とする在米邦人に伝道したが,のち再び日本および朝鮮宣教監督として赴任。日本で没した。

ハリス
Harris, John

[生]1666頃
[没]1719.9.7.
イギリスの著作家,事典編集者。オックスフォード大学に学び,のちに聖職についた。イギリス最初の百科事典『英語学術事典』 Lexicon Technicum (1705) を出した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ハリス」の解説

ハリス
Townsend Harris

1804.10.4~78.2.25

アメリカの外交官。ニューヨークの商人出身。中国・東南アジアで貿易に従事したのち,1854年寧波(ニンポー)領事。ただしみずからは赴任しなかった。55年下田駐在の初代米国総領事に任命され,通商条約締結の全権を委任された。56年(安政3)シャム(タイ)で通商条約を締結したのち下田に来航,玉泉寺に総領事館を開いた。57年下田条約締結。同年,江戸に上り将軍徳川家定に大統領の親書を上呈。老中堀田正睦(まさよし)に通商の急務を説いて通商条約の交渉に入った。58年他国に先駆けて日米修好通商条約の調印に成功。59年初代駐日公使となり,江戸麻布善福寺に公使館を設けた。外国外交団中の最古参として幕府の信頼を得た。1862年(文久2)に帰国。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ハリス」の解説

ハリス Harris, Townsend

1804-1878 アメリカの外交官。
1804年10月4日生まれ。安政3年(1856)初代駐日総領事として伊豆下田に来航,玉泉寺を総領事館とする。幕府に通商条約を強要,4年下田条約,5年日米修好通商条約を締結した。のち公使に昇格し,江戸麻布(あざぶ)善福寺を公使館とした。文久2年帰国。日記に「ハリス日本滞在記」がある。1878年2月25日死去。73歳。ニューヨーク州出身。

ハリス Harris, Merriman Colbert

1846-1921 アメリカの宣教師。
1846年7月9日生まれ。明治6年(1873)メソジスト監督教会から派遣されて来日。翌年函館に赴任し,プロテスタント教会を設立。内村鑑三,新渡戸稲造らに札幌で授洗した。一時帰国後,37年日本・朝鮮宣教監督として再来日。大正10年5月8日東京の青山学院構内のハリス館で死去。74歳。オハイオ州出身。

ハリス Harris, Flora Lydia Best

1850-1909 アメリカの宣教師。
1850年2月14日生まれ。明治6年(1873)夫のM.C.ハリスとともに来日。女子教育の必要性をうったえ,函館の遺愛女学校(現遺愛女子高)の設立につくす。また「土佐日記」などを英訳した。明治42年9月7日東京で死去。59歳。ペンシルベニア州出身。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ハリス」の解説

ハリス

アメリカ合衆国の作曲家。序曲の《ジョニーの凱旋》(1934)や《交響曲 第3番》(1937)が代表作である。ピアノを編成に含む作品としては、《ピアノ協奏曲》や《ピアノ5重奏曲》(1936)がある。音 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハリス」の解説

ハリス
Townsend Harris

1804~78

アメリカの外交家。ニューヨークで貿易を営むかたわら同市の教育行政に携わり公立学校の整備に貢献。その後アジアへの関心から初代駐日総領事となり,条約交渉権を持って1856年下田(しもだ)に赴任した。翌年江戸出府を実現して将軍に謁見し,幕府要職者と通商条約交渉を行い,彼らの信頼を得て他国に先駆け58年日本との修好通商条約締結に成功し,初代駐日公使となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ハリス」の解説

ハリス
Townsend Harris

1804〜78
幕末,アメリカの外交官
1856年初代駐日総領事として下田に着任。'57年下田条約を締結,ついで '58年幕府を説得して日米修好通商条約調印に成功した。翌年公使となり,'62年辞任し,帰国。

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世界大百科事典(旧版)内のハリスの言及

【釣り】より

…日本の釣糸は号数で表示され0.1号がいちばん細く,数字が大きくなるにつれ太くなる。リールやさおにつける糸は道糸(ライン)と呼び,針を結ぶ糸ははりす(針素。リーダー)という。…

【アメリカ】より

…しかしフランス人は,その後もミシシッピ川を下ってテキサス湾岸に砦を築き,1718年にはニューオーリンズを建設した。スペインは,このルイジアナ植民地を制圧するため同じ18年にテキサスのサン・アントニオを建設したが,七年戦争の結果,63年のパリ条約においてミシシッピ以西のルイジアナの地とニューオーリンズの領有を認められた。 イギリスの北アメリカ植民は,16世紀後半におけるロアノーク植民の失敗後,しばらく間をおいて,1607年のバージニア,ジェームズタウンの建設以後本格化した。…

【児童文学】より

…バーネットF.H.Burnettの《小公子》(1886),ウィギンK.D.Wigginの《少女レベッカ》(1903)はこの明るい精神の所産である。この国の昔話は黒人やインディアンの民話の粋をとりこんで,ハリスJ.C.Harrisの動物民話集《リーマス物語》(1880)に結実した。 20世紀にはいってアメリカの児童文学は,児童図書館の発達によって多彩となった。…

【児童文学】より

…バーネットF.H.Burnettの《小公子》(1886),ウィギンK.D.Wigginの《少女レベッカ》(1903)はこの明るい精神の所産である。この国の昔話は黒人やインディアンの民話の粋をとりこんで,ハリスJ.C.Harrisの動物民話集《リーマス物語》(1880)に結実した。 20世紀にはいってアメリカの児童文学は,児童図書館の発達によって多彩となった。…

※「ハリス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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