精選版 日本国語大辞典 「バヌアツ」の意味・読み・例文・類語
バヌアツ
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ソロモン諸島の南東、フィジーの西側に位置するメラネシアの群島国家。正称バヌアツ共和国Republic of Vanuatu。国土面積1万2189平方キロメートルは新潟県の広さに相当する。人口は23万4023(2009国勢調査)、26万5000(2013国連推計)で、1980年7月にイギリス・フランス共同統治領から独立した。英語、フランス語のほかにビスラマ語とよばれるピジン英語の三つが公用語。首都はエファテ島のビラ(ポート・ビラ)で、全人口の1割超の4万4040人(2009)が住んでいる。
[小林 泉]
800キロメートルの範囲に連なる83の島々は、かつてニュー・ヘブリデス諸島とよばれた。最大の島はエスピリツ・サント(エスピリッツ・サント)島(3678平方キロメートル)で、ここには国内最高峰のタブウェマサナ山(1880メートル)がある。首都ビラのあるエファテ島は、列島のほぼ中央に位置する。島々の約半分は火山島で、険しい山の周りに平地がわずかにあるという地形で、とくにアンブリム島、ターナ島(タンナ島)、ウルベア島の火山はいまも活動している。これらは環太平洋火山帯の一部をなしているため、近海ではしばしばマグニチュード7超級の地震が起きている。そのほかの小さな島々は、大方がサンゴ礁島。最南端にある無人島マシュー島とハンター島は、フランスの海外領土ニュー・カレドニアとの間で領有問題を抱えている。熱帯海洋性気候に属するが、南部の島々では亜熱帯性に近く、南東貿易風の影響下にもあって5月から10月にかけては気温が20℃前後に低下することもある。降水量は年平均で2300ミリメートルであるが、南から北に行くほど降雨量が増える。
住民はメラネシア系が98%を占め、若干のフランス系やベトナム系、中国系がいる。険しい地形に分断されて島々が散在しているメラネシア的特徴がこの地域にもみられ、村落集団の規模は比較的小さい。そのため国内には100以上もの独立言語が存在するので、地域共通語としてピジン英語が発達。バヌアツでは、これをビスラマ語とよび国語とした。
首都ならびにエスピリツ・サント島のサント(ルガンビル。人口1万3167、2009年)の2大都市住民以外は、農村部もしくは森林部に住み、昔ながらの伝統農耕社会に暮らしている。タロ、ヤムなどの根茎類栽培を主とし、牙(きば)のあるブタは食肉的価値とともに貨幣的役割も果たす。牙を丸めて育てる技術があり、渦を巻いた牙が長いほど高価値を有する。この渦を巻いたブタの牙はバヌアツの伝統的シンボルで、図案化されて国旗のデザインにもなっている。
[小林 泉]
記録ではこの諸島に最初に足を踏み入れた西洋人は、ポルトガル人のペドロ・フェルナンデス・デ・キロスPedro Fernández de Quirós(1565―1615)で、1606年4月27日にエスピリツ・サント島に上陸している。この地域をニュー・へブリデス諸島と命名したのは、1774年にこの地を訪れたイギリス人航海者ジェームズ・クックである。その後、イギリス、フランスの領有権争いが続き、1906年に両国が共同統治condominium(英仏共同統治)するという世界でも珍しい形態での合意が成立。この統治方法は、イギリス統治区とフランス統治区を分けたのではなく、たとえばイギリスが英語教育の小学校を建設した隣に、フランスがフランス語教育の小学校を建てるというように、二重統治ともいえる複雑な実態であった。これがフランス語教育系と英語教育系の住民間に思考ギャップやコミュニケーションギャップを引き起こした。
1970年代になると、一部住民の間に独立機運が高まり、イギリスが受け入れる一方、フランス政府は独立を拒んだ。フランス系住民が多く住んでいたターナ島やエスピリツ・サント島では、しばしば1島による独立宣言をするなどの独立運動も起こった。こうしたなか、イギリスはフランス政府を説得して、1980年7月30日にバヌアツ共和国としての独立を認めたが、このとき、エスピリツ・サント島のフランス系ならびにフランス語系住民が、武器を取って独立に反対する「サントの反乱」が起きた。
[小林 泉]
政体は大統領(任期5年)を国家元首とする共和制。国会議員と各州議会議長から成る選挙人団が大統領を選出する。大統領は最高裁判所長官とほかの3人の裁判官を指名するが、行政権は内閣にある議院内閣制。議会は議席数52の一院制で、議員の任期は4年。独立時の地方行政は11州であったが、1994年からは6州に統合された。
英仏共同統治という形態は、イギリス、フランスのどちらの言語で教育を受けたかによる二つの住民グループをつくり出した。これに伝統的な部族間の利害が絡まって複数政党が林立し、複雑で不安定な政治状況を生み出している。議員任期は4年あるものの、独立以来36年(2016年2月時点)で11人21代の首相が出現している事情もそこにある。
外交関係では、太平洋諸島フォーラム(PIF)への加盟はもちろんであるが、同じメラネシア国家であるパプア・ニューギニア、ソロモン諸島との連携を深めており、首都のビラにはメラネシア・スピアヘッドグループ(MSG=Melanesian Spearhead Group)の本部が置かれている。共和制として独立した後もイギリス連邦に加盟している。
[小林 泉]
国民の70%が非貨幣経済下の自給的な農業・沿岸漁業に従事する一方、残りの30%の国民は、小規模ながら産業としての農業と観光業で国内生産を生み出している。フランス系人が経営していた牧畜業が引き継がれ、牛肉は主要な輸出商品である。活動中の火山があるなどの変化に富んだ地形とフランス系人がつくった首都ビラのエキゾチックなたたずまいは、イギリス連邦系から独立した周辺島嶼(とうしょ)国にはあまりみられない雰囲気を醸し出している。ニュージーランド人が始めたバンジージャンプの原型は、ペンテコスト島にみられる櫓(やぐら)の上から飛び降りる成人の儀式であった。こうした島の魅力が、年間17万人を超える観光客を引きつけている。
自国通貨はバツ。経済の生産規模を示すGDP(国内総生産)は年8.15億ドル(2014年、世界銀行)。国民1人当りのGNI(国民総所得)は3160ドル(2014年、世界銀行)であるが、貨幣経済の普及率を考慮すれば、都市生活者の実質所得水準はこの倍以上になると推測される。これは同じ国内といえども、都市部と農村や山間部の人々の暮らし方が大きく異なることを意味する。2006年にイギリスのシンクタンクが発表した世界幸福度ランキングでは、178か国中第一位で「世界一幸せな国」として注目された。
宗教はキリスト教が浸透し、国民はほぼキリスト教徒だとされているが、伝統社会には依然として土着信仰も根強く残っている。
教育制度は初等教育が8年、中等教育が4年で、初等教育の就学率は96%。国民全体の識字率は64%以下であるが、35歳未満でみると80%に近づく。小学校、中学校ともに、英語あるいはフランス語を使用する2種類の学校が混在しており、国民は自由に選んで就学できる。国内には南太平洋大学(本校はフィジー)の分校があるが、高等教育を求める者は、南太平洋大学かオーストラリア、ニュージーランドの大学に進学する。フランス語教育を受けた者は、隣のフランス領ニュー・カレドニアの大学に留学する者もいるが、徐々に英語派の数が増えてきている。
[小林 泉]
太平洋戦争当時、ソロモン諸島まで侵攻した日本軍に対し、連合国軍はバヌアツ側で対峙(たいじ)したため、この地域より以東、以南は戦闘の影響を受けていない。周辺海域はソロモン海域に比べて好漁場ではなく、漁業協定も結んでいない。
1981年(昭和56)に日本と外交関係を樹立。東京にバヌアツ名誉領事館が開設されていたが、2003年(平成15)に閉館。日本は在フィジーの大使が兼轄している。青年海外協力隊を派遣しているほか、日本からのODA(政府開発援助)供与額は2013年度(平成25)までの累積で251.07億円になっている。
[小林 泉]
基本情報
正式名称=バヌアツ共和国Republic of Vanuatu
面積=1万2189km2
人口(2010)=25万人
首都=ビラVila(日本との時差=+2時間)
主要言語=ビスラマ語,英語,フランス語
通貨=バツVatu
南西太平洋にある独立国。南緯13°~21°,東経166°~171°の南西太平洋にY字形に連なる,イギリス・フランス共同統治領のニューヘブリデスNew Hebrides(ヌーベルゼブリードNouvelles Hébrides)諸島が1980年に独立してバヌアツ共和国となった。
ニューヘブリデス諸島は大小80余りの島々からなるが,おもなものは北からトレス諸島,バンクス諸島,エスピリトゥ・サント島(最大の島で全長112km,最大幅72km),マエウォ島,アオバ島,ペンテコスト島,マレクラ島,アンブリム島,エピ島,エファテ島,エロマンガ島,タンナ島,アネイチュム島である。首都のビラはエファテ島にある。気候は熱帯性であるが,島々はほぼ南北に800kmにわたって連なっており,南部の島々では亜熱帯性に近く,南東貿易風の影響もあって比較的涼しく過ごしやすい。ほとんどが火山島で,バンクス諸島のガウア島やアンブリム島,タンナ島では火山が絶えず煙をはいている。平均年降水量は2360mmで北にゆくほど増え,エスピリトゥ・サント島では4000mmに達する。各島の標高は比較的低く,最高峰はエスピリトゥ・サント島のタブウェマサナ山(1879m)。
住民のほとんどがメラネシア人で,ほかにイギリス人,フランス人,中国人,ベトナム人などがいる。100以上もの異なった言語が話されているが,国語はビスラマBislama語(ニューヘブリデス諸島で話されるピジン・イングリッシュ)で,公用語としてほかに英語,フランス語が用いられている。首都のビラとエスピリトゥ・サント島のサント(ルガンビル)の2都市部を除けば,農村部もしくは森林で,人口の75%以上が自給自足の農耕を営んでいる。
ほとんどの人々はキリスト教徒で,現在は伝統的衣類の代りにズボン,Tシャツなどを身につけてはいるが,自らの伝統文化に対する愛着は強い。焼畑農耕を行い,タロイモ,ヤムイモなどのいも類を栽培している。しかし,農耕民である彼らの関心は豚にある。バヌアツの豚にはきばがあり,下あごからはえるきばは円形に曲がっている。その曲り方の大きなものほど価値がある。豚は肉としての価値をもつと同時に貨幣であり,人々の生活の基盤でもある。北部および中部の島々には豚を殺す儀式があり,豚を数多く殺すにつれ自らの地位が上がってゆき,ついには首長の地位につくことができる。豚のきばは図案化され国旗の中に用いられ,バヌアツのシンボルとなっている。
執筆者:吉岡 政徳
1606年にポルトガル人探検家ケイロスがヨーロッパ人として初めてこの諸島に到達した。1774年にイギリスのJ.クックが探査し,スコットランドのヘブリディーズ(ヘブリデス)諸島にちなんでニューヘブリデス諸島と命名した。19世紀に入ると白檀の採取人が来島し,島民との間に争いが生じたりもした。19世紀半ば以降,白檀採取人に代わって奴隷狩人blackbirderがやってきて,島民をイギリス植民地のオーストラリアやフィジー諸島の農園労働者として,またフランス植民地のニューカレドニア島の鉱山労働者として送り出した。イギリスとフランスによる植民競争が激化すると,その解決策として1887年に両国合同の海軍委員会による管理が決められた。1906年から諸島は,世界でも珍しい2ヵ国による共同統治condominium下に置かれ,通貨,公用語,統治府までイギリスとフランスの2通りがあることになった。77年に統治の権限が島の議会と行政府に移され,現地人の政治参加が進められたが,イギリス寄りと親仏派が対立した。79年11月,独立を前提とした議会選挙が行われ,イギリス寄りのバヌアアク党が勝った。この結果に基づき,諸島は80年7月30日にバヌアツ共和国として独立した。しかし独立直前の80年5月に親仏派がエスピリトゥ・サント島などで分離独立を宣言,政府はパプア・ニューギニア軍の支援を得てこれを鎮圧する事件が起きた。
政体は,大統領を元首とする民主共和制で,初代大統領にアティ・ジョージ・ソコマヌ,首相にバヌアアク党党首のウォルター・リニが就任した。政府は共同統治の後遺症である2系統の行政,教育制度の一本化に努めているが,イギリス寄り路線への親仏派による反発が続いている。外交面では,隣接するパプア・ニューギニア,ソロモン諸島の2ヵ国とメラネシア・グループを形成し,80年代には南太平洋諸国との連帯と非同盟路線をとるとともに,フランスの海外領土であるニューカレドニアでのメラネシア人による独立運動を支援した。81年9月に国連に加盟した。
90年代に入って内政では小党分立と人脈抗争で政権交代が激しいが,経済は多角化して安定している。首都のビラはタックス・ヘイブンを売りものに南太平洋の金融センターとなり,オフショア・バンキングを活用している外国企業は約2000社にのぼる。便宜置籍船は400隻を数え,外貨収入が増えている。観光客は年間4万人台で,国際的な観光地となっている。日本へは加工用の牛肉が輸出される。86年にソ連と1年間の漁業協定を結んだこともあって,その後,アメリカへの冷凍カツオ,マグロの輸出がとまり,日系の冷凍工場が閉鎖された。95年には日系ホテルが外資系ホテル・チェーンに買収された。日本政府による無償資金協力はビラの国際空港ターミナルビル,国立総合病院,エスピリトゥ・サント島の水力発電所などに対して行われている。JICA(国際協力事業団)の事務所がビラに置かれている。
執筆者:青木 公
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(大迫秀樹 フリー編集者/2015年)
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(2015-3-18)
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…床面は水平に近く,なかには溝状の細長い煙道をもつものがある。古墳時代の埴輪焼成窯は関東から九州まで多数知られ,いずれも5世紀後半以降のもので,大阪府羽曳野市誉田(こんだ)白鳥窯跡群,茨城県勝田市(現,ひたちなか市)馬渡(まわたり)埴輪製作所跡などが著名である。いずれも須恵器窯の構造と同様で,丘陵斜面に幅1.5m,長さ6~7mの細長い溝をうがち,天井を架けた傾斜の緩い窖窯である。…
… 土器としては,赤色素焼(すやき)の土師器(はじき)を作っていたが,これも弥生土器の技術の継承である。別に,古墳の各部に飾りたてるために,土製品の一種として,埴輪を創案したのであるが,造形的な表現力には進歩をみるとしても,実質は土師器と同じ程度の窯業技術によるものであった。また,芸術的にすぐれた人馬の像などの埴輪は,前期にはまだ姿をみせず,家屋や器物をかたどったものにとどまっていた。…
…殉死に関連して,《日本書紀》垂仁紀の記事が注意される。垂仁天皇の28年に倭彦命を葬った際,その陵域に近習の人々を生きながらにして埋めたが,あまりに悲惨であったので,垂仁32年に皇后日葉酢媛が没したときには,人に代えて埴輪(はにわ)を立てたという。この記事は埴輪の起源説話であり,実際に人を生きながらに埋めたとは考えがたい。…
…しかし,最近長野県で殉葬した馬と推測される墓が発見されただけで,人の殉葬は遺跡の上ではまだ確認されていない。また〈垂仁紀〉や《古事記》崇神天皇条に見られる,埴輪の起源を殉葬にかえたものとする伝承は,埴輪の中でも人物埴輪の出現がもっとも遅く否定的に考えられている。エジプトのウシャブティや中国の俑(よう)などが,殉葬者に代わるものとして発明されたものか,別の理由によるかはまだほとんど議論されていない。…
…さらにイタリア半島でもローマ人に先立って古代文明を樹立したエトルリア人は,前6世紀に,ギリシアの青銅像や大理石像に代わって等身大の人物像をテラコッタで制作,陶芸における彼らの卓抜した技量を示した。 一方,東洋では日本の縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪,さらに中国の戦国時代から唐代にかけて制作された土製の俑(よう)もテラコッタである。日本の土偶や埴輪は〈手づくね〉であったが,とくに埴輪は粘土を輪状に積み重ねて形成する〈輪積法〉もしくは粘土を紐状にして積み上げる〈紐作り法〉であるのに対し,中国の俑はタナグラの小像と同様に型による成形で,唐代の加彩人物像,騎馬像などはテラコッタの最もすぐれた作例とされる。…
…以上は古代宮廷の年中行事で7月7日に行われた相撲節会(すまいのせちえ)の起源説話である。なお《日本書紀》は垂仁32年の皇后逝去にさいし,野見宿禰が従来の殉死の風を改め埴輪(はにわ)を立てることを献策し天皇より嘉賞されたという話を伝えている。野見宿禰は出雲より土部(はじべ)100人をよび,みずから宰領して埴輪を作ったが,これにより彼は土部臣(はじのおみ)の姓を名乗るようになったという。…
…埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。後には,軍事や外交方面でも活躍した。…
※「バヌアツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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